第34話 黄揚羽
二月二八日(金)。
宗宮市は七年ぶりの白銀祭りを迎えている。
残念ながら、今日は新月、空に月の姿は望めない。銀月の夜という名から月を期待すると、がっかりするかも知れない。
それでも、水原透流は知っている。
白銀神社の裏の山は数年前の大雨で、土砂崩れがあった。七年に一度姿を現わすはずの池にたどり着くことは、もうできないだろう。
だが、銀月のごとく輝く美しい水面を忘れることはない。
僅か一ヶ月をともに過ごした、大切な人の想い出とともに。
「じゃあ、一度出かける。あとで迎えに来るから」
奥の部屋に声を掛けると、
「気を付けて、行ってらっしゃい」という返事がある。
その声に送られて、透流は家を出る。
実家を離れ、賃貸マンションに二人暮らしをしている。
昨年結婚した妻は身ごもっている。安定期に入り、外出できるようになった。
今夜は初めて、白銀祭りをともに楽しむ予定になっている。人混みを避けたいので、あまりゆっくりはできないが。
祭りの日は勤務先の中学校も休校だ。
しかし、見回りの仕事が割り振られている。繁華街を生徒が徘徊していないか、確認するのだ。
今日は大目に見てやりたいとは思うものの、軽く声がけくらいはすべきだろう。
ドアを開けて、部屋の外に出る。
そよと風に吹かれて、黄色い蝶が視界を過ぎったような気がした。
足下に、何かが落ちている。
プラスチック製のおもちゃのような小さな鍵だ。マンションの部屋の物ではない。
「もしかして」
確信があった。
予定を変更して、実家に寄る。
もうすぐ中学生になる晴陽は、透流が訪ねても幼い頃のように甘えたりしない。一抹の寂しさを覚えつつも、彼女の成長を嬉しくも思う。
押し入れの奥を探すと、目的の物はすぐに見つかる。
ずっと、大切にしまってあった。
揚羽からの贈り物だと分かってからも、開けることもできず、壊すこともせず持ち続けていた。
先ほど拾った鍵を鍵穴に挿す。かちりと回すと、いとも簡単に蓋は開いた。
「ああ」
思わず、ため息が漏れた。
中には、一枚の紙が折り畳まれている。
蝶の模様があしらわれた、中学生の女の子が使うような可愛らしいものだ。
書かれているのは、全部で二行。最初の一行には、
『白銀神社の鳥居の下で待っています』
小さくて丁寧なその筆跡は、透流がよく知るものだ。
透流の視線が押し入れの方へ向く。そこには、あの日記帳もしまわれている。
読み返すことはもうないが、大事に保管している。
手紙の最後に差出人の名前はない。
代わりに、左下の隅に蝶々の絵が描いてある。アゲハチョウだ。
そして、二行目。
『銀月の 輝く夜に 二人きり よだかの星を 目指し羽ばたく』
中学生の揚羽が詠んだ短歌だ。
拙くも、透流と二人でどこまでも行きたいという願いが詰まっていた。
その夢は、ついに叶うことはなかった。
でも、夢と現実の狭間で確かに一時はともにあったのだ。
日が暮れて、辺りは闇に沈む。
今夜は晴天だ。月がない分、空は冴え渡るように澄んでいて星がよく見える。
冬の星座と言えば、オリオン座だ。三つ星と二つの一等星がすぐに目に入る。
「まだ、ベテルギウスは空に見えているよ。そして、燐の火も燃えている」
「うん?」
透流の言葉に、隣に立つ妻が首を捻る。
「何でもない。大丈夫? ゆっくりでいいからね」
手を取って、やがて三人になる家族で屋台を見て回る。
また、季節外れの蝶を見たような気がした。
幼い女の子、二、三歳くらいだろうか、が視界の端を駆けていく。
転ばないようにと祈る。
「パパ」という声が聞こえる。
振り向くと透流と同じ年頃の男性がいて、隣には檸檬色のコートを着た小柄な女性が歩いている。先ほどの子が、その二人に向かって走って行く。
そんな光景を垣間見たように思った。
しかし人混みに紛れて、すぐに見失い、もう二度と見ることは叶わなかった。
透流は携帯を手にする。何度か機種変更をしたが、一枚の写真は七年前から常に引き継いできた。
久しぶりに、その写真を開く。色褪せることもなく、金宝山から見おろす市街を背景にいつまでも若い二人がそこには笑っている。
僕はまた、人を好きになったんだ。その人がいま、僕の隣にいる。
君も好きな人と過ごしているんだね。
揚羽、君と別れてからの七年間、決して平坦じゃなかった。人生という旅は道半ばで、なりたい自分は常に遠いけれど、君との想い出があったから、ここまで来られた。
でも、今日という区切りを以て、よだか同盟は解散かな。
「さようなら」
透流は七年ぶりに彼女に話しかけると、写真を削除した。
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