第33話 白銀(5)
山道をゆるゆると、どこをどう歩いただろうか。
二人の目の前に、涙を溢したような小さな池があった。
「……これが?」
首を傾げる透流に、揚羽は、
「もう、日付が変わるね」と静かに告げる。
「うん」
「……元気でね」
「揚羽も、元気で」
「体に気を付けて」
「うん」
耳が痛いほどの静寂の中にいながら、なぜ、こんな言葉しか出てこないのだろう。
「もう、道路に飛び出しちゃダメだからね」
「それは、揚羽も同じだよ」
「お互いに事故で死んじゃうなんて、なんだか滑稽だよね」
顔を見合わせて笑うと、その刹那、ついに揚羽の顔がくしゃりと歪む。
「トールと過ごした一ヶ月、とっても楽しかった。もう一度こんな日が来るなんて、思わなかった」
「僕もだ。七年間、心の片隅に居続けた揚羽ともう一度同じ時間を過ごせるなんて」
きっと、透流の顔も同じようなものだろう。
「ねえ、トール。さよならを言おうよ」
「うん」
全てのことに、いつか終わりが来る。
猫には死が。
星にも最期が。
風船はしぼむ。
恋人には別れが。
永遠に続くものはない。
透流と揚羽も、今まさに別れを迎えようとしている。
その時には、きっとさよならを言おう。
少しでも、寂しくないように。
そして、いつかきっと笑うために。
永続するものはないのだから、別れの辛ささえも、やがては想い出になる。
「きらめいた 日々の記憶を 胸に抱き 銀月の夜 さよならを言う」
透流が歌うと、揚羽がはっと顔を上げる。
「さよなら、揚羽」
「うん、さよなら、透流」
揚羽の瞳から、きらきらと光る一筋の涙がこぼれ落ちる。
透流の瞳からも、一滴の涙があふれ出る。
透明で純粋な滴は、湖面に落ちて波紋を描き――満月のように銀色に広がる。
その鏡面に、透流と揚羽の姿を映す。
ああ、白銀の池のほとりに季節外れの一葉の黄色い揚羽蝶が舞う。
透流は揚羽を抱きしめる。
揚羽も透流に縋り付く。小さな体で、透流の胸元にしがみつく。
透流は彼女の顎に手を触れて、軽く上を向かせる。
見下ろす彼女の瞳は、まるで小さく円らな銀月だった。そこに透流の姿が映る。
揚羽は小さく「うん」と頷くと、目を閉じた。
そして、最後のキスを交わした。
彼女の唇は冬の空気に触れて冷たくて、そして透流と触れて温かい。
二人の心音さえ互いに響き合い、やがて遠ざかる。
最後に二人の吐息が、名残惜しそうに絡み合った。
「トール、人を好きになるって、こんなに素敵なことなんだね」
風に流れるように声が響く。
「うん、そして、人に好きになってもらえることが、こんなに嬉しいと思えるなんて、僕は知らなかった」
「だから、約束をしようよ」
揚羽の声に隠しようもなく涙が混じる。
「うん」
「また、きっと誰かを好きになろう」
さらに彼女が続ける。
「絶対に、わたし以外の人も好きになって」
「……どうして」
「わたしはトールに幸せになって欲しいから。他の人を大切に思って欲しい。他の人から大切に思われて欲しい。
わたしのことは想い出にして、どうか長い人生を好きな人と歩んで下さい。お願いします」
「……僕も」
透流は声を絞り出す。
忘れないで、ずっと自分だけを思い続けて。
そんな言葉は彼女を縛り続ける呪いだ。
星野揚羽が好きだった自分が、高木茜を好きになったように。
「揚羽には幸せになって欲しい。もし、僕以外の人を好きになる時が来て、それが君の幸せならば、きっと迷わないで」
「うん。二人とも、幸せになろう!」
鈴が転がるような軽やかな声で、もはや姿の見えない揚羽が泣いた。
「僕も、揚羽も幸せになろう。たとえ、離れ離れになろうとも」
「わたし達はよだか同盟で結ばれた仲間だから、幸せになるために藻掻くと誓おう」
「うん、約束だ。たとえ、その道程がどれほど険しいものでも、僕は歩き続ける」
「……約束、したからね」
「さようなら、揚羽。さようなら、茜」
「さようなら、トール。さようなら、水原透流」
最後に囁くような声がして、もう揚羽の姿はどこにもなかった。
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