第31話 白銀(3)
時計の針は、午後五時を指していた。
外は陽が落ちて、暗くなり始めている。相変わらずの曇天模様だが、雲の切れ間からは満月に少し遠い月が、見え隠れしている。
すぐに崩れることはなさそうだ。
「お祭りに行こうか」
「もちろん」
揚羽は、そのために来たのだ。
透流にとっては、初めて恋人と過ごす銀月の夜だ。
神社まで、歩いても数十分。
交通規制によって、バスは途中で止まってしまう。
夕暮れと呼ぶよりは、もはや宵闇と呼ぶべき暗さの中を二人で並んで、手を繋いで歩いていた。
「そのセーター、着ていくんだね」
透流は揚羽が最初に選んでくれたワインレッドのセーターを身に着けていた。
一方の彼女は、初めて出会った日の檸檬色のコートを羽織っている。
「あっちでわたしが着ていたのと同じ色だったから。最初に買ったの」
「とてもよく似合ってる」
夜に舞う一片の蝶のように、彼女の姿は可憐だった。
人混みの中、熱気で寒さを忘れそうだ。
屋台が並んでいる。子供も大人も、老若男女、大勢の人が楽しげに笑っている。
名前も知らない大勢の中に混じって、透流と揚羽は二人きりだった。
それはとても、心地よい孤立だ。
イカ焼きを買い、二人で一緒に食べる。フランクフルトとたこ焼き、ついでにチョコバナナも揚羽は買い求める。
「揚羽は結構、たくさん食べるよね」
「……うん。おいしいと、つい」
思い返せば最初のカフェでも、デザートをお代わりしていた。
「七年前は、おこづかいが足りなくてたくさん買えなかったから」
「リベンジ?」
「そんなところかも。だって、二人で過ごすお祭りは今日がさ……」
そこで揚羽は言葉を止めて、
「あっ、りんご飴もある」と近寄っていく。
「……さすがに止めておいたら?」
りんご飴は、ちょっと大きい。食べきれないだろう。
「ううん、二人で食べようよ」
ひとつのりんご飴を、揚羽と交互に食べた。
お面や風船を小さな子供が親に買ってもらっている。
「風船って次の日の朝にはしぼんじゃうから、なんか悲しかったなあ」
喜んで駆け出す子供を見て、揚羽が呟く。
「前にトールも、そんなことを言ってたよね。きっと無残な姿になるのが嫌なんだと思う。買ってもらった嬉しさより、その方がいつまでも心に残るのはどうしてかな」
透流が口を開くより先に、揚羽は柔らかく微笑む。
「永遠に続くものなんてない。そんな当たり前のこと、知ってるはずなのにね」
じきに訪れる別れを前にして、透流は彼女の手を握る力を強くする。
大きな石造りの鳥居を潜ると、そこから先には屋台は並んでいない。
代わりに参道にはたくさんの人が押し寄せている。祭りがクライマックスを迎える前に、本殿にお参りをしようとする人たちだ。
ロープで仕切って、順番に奥へと進むように警備員が整理をしている。
その列に透流たちも並ぶ。
ゆっくりと列が進むのを待ち、その間も色々な話をする。
互いの知らない、互いが過ごした日々の話題は尽きることがない。
まるで、この時間が永遠に続くような錯覚を覚えた。
雲の切れ間から、オリオン座の姿が見える。
「ベテルギウスの話をしたね」
茜が囁く。
「うん。……星も、いつかは最期を迎えるんだ」
「リゲルを一緒に見たことも、覚えてる?」
七年前も、そして今年も、二人で青白く光る星を見上げた。
「よだか同盟だったよね」
揚羽が好きだと言った物語に出てくる燐の火のように燃える星。二人で冬空を仰ぎ見て、その美しい光に憧れた。
「忘れてなかったんだ」
揚羽が目元に涙を溜めて、微笑む。
「なりたいものになるには、自分の身を焦がしても足りないかも知れない。わたしもトールもそれでも目指そう。悩んで、迷って、悲しくて、悔しくて、辛くて、届かなくても手を伸ばして、夜空を飛ぼうと藻掻いて、笑って、泣いて、輝いて、生きよう」
「うん」
それが、どうしようもなく非力で、届かないものに憧れ、それでも手を伸ばすことを止められない自分たちの生き方だ。
やがて、お参りの番が来てしまう。
透流は賽銭を投げ入れ、柏手を打ち、目を瞑り、しかし細く目を開けて、隣の揚羽を横目に見た。
揚羽も同じく、こちらを薄目で見つめていた。
視線が交差して、二人で微笑む。
結局、何も祈らなかった。
祈りの言葉は多すぎて、到底追いつかないからだ。
それよりも、ただ揚羽の姿を目に焼き付けていたかった。
下に戻ると、いよいよ白銀と黄蝶に扮した男女が輿に乗って、神社に帰ってくる。
居並ぶ人たちは、真ん中を空けて、彼らのために道を作る。
平安朝の衣装に身を包んだひと組の男女が輿を降りる。そして、道の真ん中を周囲に手を振りながら、ゆっくりと歩き始めた。
市民から選ばれる美男美女は見惚れるほどに綺麗だ。
「でも、揚羽の方が綺麗だ」
思わず口にすると、彼女は照れたように「トールも」と囁く。
その頃になると、雪が降り始めた。
初めはちらほらと白い薄片が舞い踊るように、中央の二人を飾る。
悲恋に終わった白銀と黄蝶の二人に、透流は自分たちを重ね合わせる。
果たして、透流と揚羽は悲恋だっただろうか。
否。
雪に彩られ、こうして最後の時を迎えようとしているとしても、自分たちの恋は祝福されたものであるはずだ。
「綺麗だね」
「うん、とても幻想的だ」
透流が漏らした言葉の通り、彼らの姿は延々と舞い踊り続ける無数の銀片の中に溶け込む幻のようだった。
誰も、寒いと言う者はない。
ただ、見とれていた。
雪が更に激しくなり、視界は狭くなる。
幕が降りたように辺りの景色が白く染まる。
白銀役、黄蝶役の二人の姿も、その向こうに霞んでしまう。
それすらも、綺麗だった。
言い伝えられていることが数百年前に本当にあったかどうかは、定かではない。
おとぎ話だと言い切る方が容易いだろう。
それでも透流は、吹きすさぶ真っ白な雪の彼方に、数百年前の運命に翻弄された二人の姿を見た。
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