第30話 白銀(2)

 二人で山を下りる。

 やはり、観光客は誰もいなくて、帰りのロープウェイも二人きりだった。

 宗宮公園の出店で、簡単に昼食を取る。

 その後は自然と、足は透流の家へと向かっていた。

 神社とは反対方向になるので、人の流れに逆らうことになる。すれ違う老若男女は、みな一様に笑顔を浮かべている。

 釣られて、二人も笑顔になる。

 道すがら、色々な話をした。

 透流の知らない、もう一人の透流の話。

 透流の知らない、一四歳を超えた揚羽の話。

 揚羽が知らない、揚羽が隣にいない透流の話。

「ずっと、高木茜と呼ばれるのが辛かった。本当は、星野さんって、揚羽って呼んで欲しいって思ってた」

「……揚羽」

 少し照れくさく、しかし真っ直ぐに透流は彼女の名を呼ぶ。

 何度でも。何度でも。

 とにかく、いっぱい話をした。

 透流の家に着いてからも、二人は話し続けた。両親と晴陽は、既に祭りに出かけていて、二人っきりだ。


 ジンジャーとは自分の知らない自分が飼っている猫の名前だった。高校生になった時、二人が神社で拾った猫を透流の家で飼っていた。

「あの猫カフェにいたテンプラが、多分ジンジャーだと思う」

 透流に拾われなかった猫は、どんな運命を辿ってかあのカフェにいたようだ。


 中学時代の揚羽とは、話し方がかなり違う。

「トールのおかげで、随分と話せるようになったんだよ。高校に入る頃には、ほとんど今と同じ感じかな」

 しゃべることに自信がついたおかげで、性格も前向きになったと言う。

「何より、わたしはトールのことが大好きだから、それをいっぱい表現したかったんだと思う」

 面と向かって、そう言われると、つい照れてしまう。

 それでも、予想外のことが起こると前の癖が出ることもあるらしい。図書室で落合と会った時が、そうだった。

「中学で一緒だった落合君だよね。……あの時は、かなり驚いちゃった」

 聞けば、揚羽の知る彼は大学は透流とは一緒ではないらしい。どこで何をしているかは知らないと言う。彼から聞いた話を合わせれば、それも頷ける。

「わたしは、昔のわたしがいつしか嫌いになっていた。トールと付き合うようになって、月日が流れて、当たり前にしゃべれるようになった頃から。引っ込み思案で、うまく言葉が伝えられなかったあの頃のわたしが。きっとトールが好きなわたしは、今のわたしで、あのわたしは嫌いだったんじゃないかって……そんな風に思ってた」

「僕はあの頃の君も、今の君も、同じように好きだ。それは、絶対にもう一人の僕も同じだと思う。

 僕が好きになったのは、下手くそな短歌を作るのが好きで、猫が好きで、自分というものを捜してもがき続ける、優しくて弱くて、芯が強くて、時々理屈に合わないことをして向こう見ずな女の子だ。中学生の時の星野揚羽も、僕の目の前に現れた高木茜も、そして多分、僕の知らない二一歳の星野揚羽も、そういう女性だ」

 透流は揚羽のことをじっと見つめる。

「だから、自分を嫌いにならないで欲しい」

 最後は、誰に向けた言葉だろうか。透流自身に向けたものではないか。

「……短歌、下手くそだと思ってたんだ」

 揚羽はたっぷりと言葉を溜めた後、拗ねたように口を開いた。

「……ごめん、つい」


 水族館で助けた男性の話も、もう一度伝える。

「人が一人いない、あるいは人が一人いるってことで、世の中は変わるんだね」

「僕が一番助けられた。君が来てくれなかったら、僕は死んでいた」

 揚羽がいた世界では、現場に彼女は居合わせなかった。

 あちらの透流は、きっと猫を助けようとして道路に飛び出したのだろう。揚羽はそう思っているようだ。

「トールはこっちでも、やっぱりトールだったね」

 嬉しそうにそう言う揚羽に透流は打ち明けなければならない。

 彼女の秘密に比べれば、それは小さなことだ。だが、隠してはおけない。

《高木茜》と初めて出会った時のことを。

「僕は猫を助けようとしたというよりも、ふらふらと道路に飛び出そうとしていた」

「……どういうこと?」

 揚羽の声が硬くなる。

「積極的に死にたいわけじゃない。でも、いつかこの世界から消えてしまいたい。そんな気持ちを心に持っていた。もしかしたら七年前のあの日から、ずっと。

 前の教育実習でいじめを目撃した話をしたよね。

 あれから、ずっと悩んでた。僕には何ができたんだろうっていう思いとか、人間っていうものの厭らしさとか……。

 だから、あの日、あの時、あの瞬間、猫が危ないって思ったのと、道を行き交う車のヘッドライトの流れと、多分冬の寒さと……そんなものが綯い交ぜになって、僕は道路に誘われそうになった」

「それを止めたのが、わたしだったってこと?」

「うん」

「……バカ」

 揚羽が小さな声で短く叱る。

「ご両親や晴陽ちゃんが、いるじゃない」

「うん。……あれは、本当に気の迷いだった。ただ、猫を助けようとしたなんていう立派な志があったわけじゃないことを君に言いたかったんだ」

「じゃあ、もしかしてわたしの世界でも……」

 その言葉に透流ははっとして、「違う」と大きな声を出す。

「揚羽と一緒だった僕がそんなことを思うはずない。それは他ならぬ僕が保証する。だから、今のこの僕も、もう決してそんなことは思わない。

 僕の知らない水原透流は、きっと純粋に猫を助けようとしたんだと思うよ」

「うん」

 彼女は泣き笑いのような表情を浮かべる。

「猫よりも……わたしを大切にして欲しかったって思うのは、わたしのわがままなのかな。わたし、優しくなんかない。本当はとても身勝手なんだ」

 掛ける言葉が見つからない透流に向かって、

「だから、この一ヶ月間、わたしを愛してくれてありがとう。身勝手であなたを振り回してごめんなさい」

 それは、もうお互い様だ。

 理屈と感情はごちゃ混ぜで綯い交ぜで、もう何が何だか分からなくなってしまって、その狭間で生きていくより他にない。


 こちらの世界にいる揚羽の生活を支えたのは、彼女の祖母だった。

 神社の言い伝えを知っていた彼女は、そういうこともあるとすんなりと揚羽を受け入れたそうだ。

 携帯を契約し、生活費を出してもらい、駅前のホテルに泊まっていたという。

 両親には会っていないらしい。確かに大混乱になりそうだ。

 中学時代、二人の仲が近づくきっかけとなったモモは、こちらの世界でもいまだに星野家で飼われているとのことだ。揚羽の忘れ形見として大切にされているのだろう。


 七年前の今日、揚羽は透流に手紙を渡したという。

 しかし、その記憶はもちろん透流にはない。

「……もしかして、これが?」

 透流は押し入れから、あの宝箱を取り出す。七年間、ずっと贈り主の分からなかったプレゼントを。

「袋の中に鍵は入ってなかった?」

 以前にもそんなことを彼女は言っていた。

「ううん」

「……そんな」

 揚羽が言うには鍵も一緒に入っていて、それで開けることができたらしい。

「じゃあ、こっちのわたしは鍵を入れ忘れたんだ」

 それが運命の分岐点だった。

「中には、一緒にお祭りに行こうって書いてあったのに」

 こちらの揚羽は、いつまでも来ない透流に呆れたのか、振られたと思ったのか、あるいは呼びに来ようとしたのか、それは分からないが途中で事故に遭ってしまった。そういうことなのだろう。

「そっちの僕は、揚羽の手紙を読んで、そしてお祭りに一緒に行って」

「それから、わたし達は恋人同士になった」

 思い出すようにうっとりと、揚羽が口にする。

 箱は振ると、かさかさと音がする。

 その中には紙が入っていて、そこには七年前の揚羽の思いが綴られているのだ。

 蓋を壊せば読めるはずだという誘惑を、透流は振り切る。

 それは美しくない。

 宝箱のすぐ傍には、二週間前から大事にとってあったチョコレートの箱がある。残りは二粒だった。冬だから溶けてはいないが、白い粉が表面に浮き出ている。

「……だから、早く食べてって言ったのに」

「今、二人で食べようか」

 一粒ずつ同時に口に入れる。風味は落ちていたが、とても甘くて、おいしくて、おいしくて透流も揚羽も涙を流した。


 二人は高校も一緒だった。

「トールのおかげで同じ高校に行けたんだよ。教えるのが上手いから」

「僕の高校時代は……」

 恋人はいなかったが、友人はそれなりにできた。そんな話をする。

「灰色だった?」

「それなりに。そっちの僕は、もっとずっと楽しかったんだ……」

 ちょっと凹む。

 そして、二人は同じ大学に進む。

「わたしがいなくても、トールは同じ道を歩んだんだね」

「僕は僕っていうことなのかな」

 もっとも、その大学生活も彼女がいるといないでは、やはり違ったものだろう。

『Cat's tail』は二人の行きつけの店らしい。鳴海の猫カフェにも何度も足を運んでいるとか。

 それだけではなく、もっと、もっと、多くの時間をともにし、多くの想い出を共有している。

 七年間、二人はずっと仲の良いままでいた。事故が二人を分かつまでは。

 透流は自分の知らない透流に嫉妬する。

 しかし、この一ヶ月という時間は、その知りようもない透流のもう一つの生に比べても遜色ないほどに充実したものだったはずだ。

 そして、今年の二月二八日。つまり、今日の夜。

 本当ならば二人で行くはずだった白銀神社を一人で彷徨っているうちに、揚羽は銀に輝く鏡池を前にして、気づけばこちらの世界に来ていた。

 祖母の助けを借りて、自分が死んでしまった世界を受け入れて、そして透流との時間を取り戻そうとした。

 高木茜という名前は咄嗟に目に入った看板から苗字を取り、そして彼女の祖母の名前を使ったとのことだ。

「あと数時間だね」

 もしかしたら、ずっといられるのではないか。

 そんな期待もあったらしい。

 だが、大学の図書館で読んだ資料の通り、この奇跡は銀の水面に映る一時の夢であり、そよと吹く風に消えてしまうほどに儚いものであることを、揚羽は改めて思い知る。

「胡蝶の夢って知ってる?」

 古代の中国・宋に生まれた荘周という男が蝶になった夢を見た。目が覚めて、自分が蝶の夢を見たのか、蝶が周になった夢を見ているのか、分からなくなってしまった。

「人間のわたしが見る夢も、蝶のわたしが見る夢も、どちらも現実なんだ」

「ここは僕にとっての現実で、揚羽にとっては夢?」

 言いながら、その差に区別などないことを透流は知っている。

「今、この瞬間はわたしにとっても現実だよ。でも……わたしが帰らなかったら、今度はあっちの家族や友達が心配する」

「モモも待ってる」

「うん。ジンジャーにも会いに行かなくちゃ。晴陽ちゃんは泣いてばかりだよ」

 妹の姿を想像すると透流は悲しくなってしまう。

「晴陽や両親のことも、よろしく」

「できる限り、頑張ってみる。……ねえ、トール。さっきのいじめの話だけど」

「……うん」

「その子のことは、確かにどうしようもないかも知れない。もうトールの手の届かない所にいる彼女のことは助けられる人に任せるしかない。でも、これから先生になって出会う子供たちにトールは手が届く。昔のわたしを救ってくれた、その子を気掛かりに思うあなたなら、きっと、きっと大丈夫だから」

 揚羽の言葉に、透流は短く、力強く頷いた。


 会話が一段落すると、彼女が目を伏せる。

「わたしたちはお互いに、自分の大切な人の幻を、わたしはあなたに、あなたはわたしに、見ているだけなのかな」

 揚羽は恋人である透流を亡くして、ここにいるもう一人の透流に会いに来た。

 透流は想い出の人とそっくりの顔をした高木茜=星野揚羽を、好きになった。

 互いを大切に思う気持ちは、偽りの心なのか。

 ただ、目の前の人に、同じ顔をした違う人を重ねているだけなのか。

「……そんなことはないよ」

 透流は言い切る。

「うん」

 二人とも、分かっていた。

 目の前にいる人を愛しく思う気持ちは、自分がそう思う限り本物なのだ。


 二人の体が近づき、重なる。

 揚羽の吐息を、揚羽の瞬きを、揚羽の髪の匂いを、揚羽のきめ細やかな肌の白さを、揚羽の体の奥の熱さを、透流はすぐ傍に感じた。

 それは、彼女も同じだった。

 二人は互いを確かめるように、求め合った。

 たとえ、自分たちが夢と現実を行き来する儚い二羽の蝶に過ぎないとしても、手を握り合う限り、息づかいを感じる限り、その存在は確かだった。

 青く燃えるような高まりの後、静寂の時を迎える。

「揚羽」

 透流は愛おしい人の名を、その人の耳元で囁く。

「トール」

 彼女の昂ぶりの余韻を残した声が、透流の耳をくすぐった。

「揚羽、愛してる」

「……わたしも、愛してる」

 それから、なんだかおかしくて、透流と揚羽は二人で声を出して笑った。

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