第29話 白銀
天気予報は、夜から雪が降ると言っている。
外に出てみると身を震わせる風が頬を撫で、既に風花をちらほらと運んでくる。
透流は、目の前にそびえる金宝山を見上げる。
曇り空の下、その頂きは靄がかかっていて見ることができない。
それでも、きっと彼女はあそこにいるはずだ。
祭りの当日、天気も良くないせいか上りのロープウェイ乗り場は閑散としている。
乗客は透流しかいない。
客車はガタンガタンと揺れながら、一五分をかけて透流を頂上まで運ぶ。
心ばかりが焦るが、速度は変わらない。
一目散に山道を、そして続く階段を駆ける。
普段の運動不足がたたって、足が攣りそうになっても透流は走る。
展望台と城内、どちらにいるかは分からなかったが、おそらく城内だと思った。
透流が自分の思いを打ち明けたとき、彼女はこう言った。
『やっぱり、ここだったね』
自分の知らない水原透流も、きっと同じように宗宮市街を見下ろす場所で揚羽とともに暮らしていくこの町を見ながら、彼の思いを告げたのだろう。
きっと、そこにいるはずだ。
風に乗って、微かに祭り囃子が聞こえてくる。
空は今にも雪が落ちてきそうな景色だが、浮かれる人々には無関係だ。
そのざわめきも、遥かに遠い。
再び、花火が上がる。白い空に咲く花火は見えず、ただ音だけが鳴り響く。
正午を知らせる合図がいやが上にも、祭りを盛り上げる。
こんな日に山に登る者は誰もいないのか。係員の姿さえ、目に入らない。
展望台には、やはり誰の姿もない。
透流は城内を目指す。資料室を無視して、一気に四階の回廊を目指す。
外に出た途端、凍えるような強い風が透流を襲う。
果たして、市街をぐるりと一望できる、その回廊に一人だけ女性がいる。
寒風を気にも留めない様子で、まるで彫像のように立ち尽くしている。
一瞬たりとも、そこから見える景色を逃さないというかのように。
檸檬色のコートを着た、その後ろ姿を他の誰かと間違えるはずもない。
「星野さん」
透流が声を掛けるのと、彼女が振り向くのはほぼ同時だった。
「……トール」
揚羽が首を横に振る。
「だめ」と掠れる声で呟くと小さな体を翻し、その場から逃れようとする。
狭い回廊、そして下に降りる階段の前には透流が立っている。それでも、その透流の横を強引に通り抜けようとした。
その彼女の細い手を、透流は掴んだ。
「話を聞かせて」
いま、おそらく初めて透流は彼女が望まないことをした。それも、愛だ。
彼女は観念したように「うん」と弱々しく頷いた。
もはや逃げる気配はなく、瞳は真っ直ぐに透流を見つめる。
「高木……ううん、星野さん、なんだよね」
「……黙っていて、ごめん」
「いきなり言われても信じなかったと思う。こうして、一ヶ月近くを一緒に過ごしてきたから、僕は信じられる」
「……でも、ごめんなさい。色々と、本当にごめんなさい」
その謝罪に答える代わりに、透流は彼女を抱きしめる。
風が吹いている。
雪が降りそうだ。
それでも、この瞬間は彼女の温もりだけを、彼女の気持ちだけを、彼女の弱さだけを、両腕の中に感じていた。
小柄な彼女は、透流の腕の中にすっぽりと収まる。
この小さな体に、大きな秘密を抱えていたのだと思うと堪らなく愛おしい。
透流の腕に抱かれた彼女は、最初は身を細かく震わせていたが、それも治まり、ただじっと透流の体に頭を埋めていた。
やがて、そっと顔を上げる。
つぶらで透明な彼女の瞳が、透流を見る。
儚げな桜色の唇が、透流の目の前にある。
透流は少し身を屈め、彼女は少し背伸びをして――初めてのキスをした。
その唇は寒空の下にいたせいか少し硬く冷たくて、でも触れたら溶けそうなくらい柔らかかった。
名残惜しいが、その唇を離す。
「ありがとう」
何を伝えたら良いか、何を話せば良いか。迷わずに出たのは、感謝の言葉だった。
「うん」
揚羽はそっと頷き、そして堰を切ったように泣き出した。
透流は彼女の涙が止まるまで、ずっと抱きしめていた。
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