第28話 茜雲 (7)
二月二八日(水)。
朝、ドンという大きな音で目が覚める。
祭りの日、運命の日は、冬の花火で始まった。
今日は、朝から白銀神社に行くつもりだ。
一日中、境内で待ち続けていれば、大勢の人の中からでも茜の姿を見つけることができるはずだ。もちろん、彼女が祭りにやって来れば、という前提ではあるが。
朝食を終えた時、母親が戸惑った様子で透流に声をかける。
「これが、玄関先に置いてあったんだけど」
母親が手にしていたのは、小さな紙袋だった。
七年前と一致するシチュエーションに、透流は思わず紙袋を奪い取る。
中には一冊の本が入っていた。
「多分、僕のだから」
神社に出かけるのを止めて、透流は自室でその本を開く。
本だと思ったものは一冊の日記帳だった。
赤い表紙をしたそれは、まだ新しそうな手触りで少し滑る。
一月三一日(水)
わたしは、透明な冬の日差しの下に立っていた。
最初の日付は、一ヶ月前の一月三一日。
記述は、たった一行だけ。その意味はよく分からないが、細くて小さくて、流麗な筆跡には見覚えがある。揚羽のものだ。七年前、何度か目にした彼女の文字にとてもよく似ている。なぜ、彼女の字が真新しい日記帳に書かれているのか。
二月一日(木)
わたしは彼を助けることができた。
二ページ目。それは透流と茜が初めて会った日のことだ。
そう、透流は彼女に命を助けられた。
やはり――これは、茜の日記なのだ。
わたしの名前は《高木 茜》。ちゃんと、覚えないと。
どういうことだという気持ちと、やっぱりという気持ちが半々だった。
彼女は、高木茜ではなかった。他の《誰か》なのだ。
二月六日(火)
彼の電話番号が前と違っていなくて、本当に良かった。
初めて、茜から電話があった日のことを思い出す。
自分も、とてもドキドキした。彼女も同じように感じていたのだ。
しかし、まるで以前から透流のことを知っていたかのような書き方だ。
二月一〇日(土)
数え切れないほど何度もデートした。でも、今日は初めてのデートだった。
初めて、デートをした日。
ここもそうだ。何度もデートしたとは、懐かしいとはどういう意味か。
他にも、あの猫カフェのテンプラのこと。
何度も名前が出てくるジンジャーとはなんのことだろう。
その後も気になる記述が続く。
二月一九日(月)
わたしは嘘ばかり吐いている。
永遠が どこにもないと 知らされた 冬の揚羽と 透き通る夢
訳が分からず、理解が追いつかない。
彼女は何かを隠している。
だが、それが何であるのか、見当がつかない。想像ができない。
いや分かっているのに、頭が拒絶している。
毎日の日記の終わりには、彼女の自作と思われる歌が書かれている。
同じようなことをする人を透流は一人、知っているはずだ。
二月二四日(土)
もう、彼とは会わない。
日記は二四日、即ち一緒に山に登り、そして別れてしまった日が最後になっていて、その後は空白のページが続く。
もう何も書かれていないのか。
そう思った矢先、日記帳の最後の方に、これまでよりも急いで書いたのだろう、若干雑で震えるような、しかし思いが込められたと分かる字で数ページに渡って、そのメッセージが綴られていることに気づく。
水原透流様
突然、姿を消してしまってごめんなさい。
わたしは、ずっとあなたに嘘を吐いてきました。それが苦しくて、苦しくて、あなたを傷つけることが辛くて、もう二度と会えないと思いました。
このまま何も知られることなく、会わないつもりでした。
なのに、たったの数日で決心が変わってしまうわたしを、どうか笑って下さい。
答えはいつも定まらず揺らぎっぱなしで、明日には変わっているかも知れません。
もっとも、銀月の夜が終われば、会いたくても会うことは叶わないのですが。
だから、せめて真実を告げたいと思います。
今、その決意に達したこの瞬間に日記を記すことにします。
あの水族館の時の人、助かったようで何よりでした。
あなたから、そのメールをもらったことが、わたしにこの日記を書かせたきっかけかも知れません。
わたしは知りました。
この世界に来て、良かったと。
わたしの決断は間違っていなかった。
あなただけではなく、誰か他の人の命さえも救うことができたのだと。
わたしは、《高木茜》では、ありません。
本当の名前は、《星野揚羽》です。
きっと、驚かれたことでしょう。
この世界の星野揚羽は、七年前に死んでいるのですから。
ううん、もしかしたらあなたは心の何処かで、そう思っていたかも知れないね。
わたしは、《わたし》が生きている世界から、この世界にやってきました。
SFで言えば、平行世界、パラレルワールドというやつでしょうか。
わたしが住む世界では、わたしとあなたは恋人同士です。
七年前の中学生の時の銀月の夜から、これまでずっと、わたし達はずっと仲の良い恋人でした。
……改めて書くと、恥ずかしいけど。
忘れもしない二ヶ月前……わたしの体感では、それは二ヶ月前のことです、二月一日の夕方、あなたは事故に遭ってしまった。
およそひと月、生死の境を彷徨った挙げ句……あなたは白銀祭りの前日に命を落とした。
そして、その翌日、銀月の夜、今から一ヶ月前に《奇跡》は起きました。
いったい、何を言っているんだと思われるでしょう。
わたし自身、ここから先に起きたことは今でも、信じられません。
あなたに逢いたいと願ったわたしは、気づけば一ヶ月の時間を遡っていました。
でも、そこはあなたの代わりに、わたしが七年前に命を落とした世界だった。
運命の二月一日。
わたしは、迷わずにあなたを助けました。
あの時、一緒にいなかったことをずっと後悔していた。
これで良かったのだと、その時は思いました。
本当ならわたしは、あそこで立ち去るべきでした。
あなたと、知り合ってはいけなかった。
でも、もう一度、一緒に過ごすことができる。
その誘惑に勝てるはずもありません。
この世界では、わたしとあなたは初対面。
わたしは、偽名を名乗り、もう一度恋人になろうと思いました。
だけど、怖かった。
この世界のわたしは、七年前に死んでいます。
中学生の時に、たった一ヶ月ほどともに過ごしただけの女の子のことなんか、もうあなたは忘れているかも知れない。
心の片隅にすら、残っていないかも知れない。
でも、あなたはわたしを忘れていなかった。
大切な人だと言ってくれた。
嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、泣いてしまいそうだった。
だから、わたしは甘えてしまった。
いつか、真実を打ち明けて、また恋人同士になれたら良いのに。
そんな夢想をしていました。
だけど、わたしはここに居続けることはできません。
この奇跡の始まりである、銀月の夜には向こうの世界に帰ります。
わたしの大好きな水原透流、あなたのいない世界へ。
ずっと、目を逸らし続けていました。
でもわたしは、自分がしていることが、なんと残酷なことなのか。
ようやく、思い至りました。
あなたは、わたしがいない世界に戻る。
わたしは、あなたがいない世界に帰る。
世界は残酷で、その選択以外は許しません。
それが本来あるべき姿で、ただあるべき姿へと戻るというだけであるならば、なぜこんな奇跡は起きたのでしょうか。
分からないまま、わたしは運命に翻弄されています。
それでも、この《わたし》がいない世界で、あなたを助けることができた。
あなたの家族、ご両親や晴陽ちゃんに、その事実を残してあげられた。
それだけでも、きっとわたしがこの世界に来た意味はあるのでしょう。
本当なら、真実すら告げずに、明日の夜を迎えるつもりでした。
そうすれば、あなたにとって《高木茜》という存在はやがて想い出となり、いずれは忘れられ、いつかは消えてしまうでしょう。
その方が、あなたにとっては心の傷が少ないはず。
そんなことは、分かっている。
だけど、今この瞬間、この日記を書いているわたしは違います。
七年前の《星野揚羽》が、いまだにあなたの心に残り続けているように。
この《高木茜》が、つまり二一歳の《星野揚羽》が、たとえともに過ごした時間が僅かひと月であっても、あなたの心に残り続けて欲しい。
そう。これは、あなたのことなどまるで考えない、わたしのわがまま。
ただ、あなたの記憶に残りたいという、わたしのエゴ。
本当は、あなたにもう一度……
さよなら、トール。
さよなら、大好きな人。
よだか同盟を最後まで見守ることができなくて、ごめんなさい。
きらめいた 日々の記憶を 胸に抱き 銀月の夜 さよならを言う
透流は彼女の告白を読み終える。
終わりに行くに従って、字は乱れていた。
それでも、最後の一行に書かれた短歌は精一杯息を整えたのだろう。
丁寧に、ゆっくりと彼女の気持ちを綴っていた。
ページの端々には一度濡れてから乾いた跡がある。
ぽつり、ぽつりと垂れた水滴の正体が何であるか、容易に想像できる。
最後のページの片隅には蝶々の絵が描いてある。揚羽蝶だ。
星野揚羽――透流の大切な人。
茜が、揚羽だった。
その信じがたい事実を、そのとんでもない告白を、しかし透流はすんなりと受け入れることができた。
ああ、やっぱり。
それが透流の偽らざる気持ちだ。
時刻は午前一一時を回ったところだ。まだ半日以上時間は残されている。
茜はきっと待っている。
元の世界に帰るまでの残った時間、心のどこかで透流を待っているはずだ。
どこで、待つだろう。
二人の想い出の場所。
それは、この一ヶ月の間というだけではない。
透流の知らない、揚羽と透流がともに過ごした七年間での想い出の場所で彼女はその時を待っているはずだ。
彼女との七年間を透流が知る術はない。
だが、それでも同じ自分だ。
もし、自分が彼女を待つならば。
きっと、その場所しかない。
彼女の二月二四日の日記にも、こう書かれていた。
『そして、今日、想い出の場所で別れを告げた』
透流は確信を持って、そこを目指す。
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