第27話 茜雲 (6)
昨晩は遅くから雪となり、今朝方まで降り続けていた。
今月に入ってから一番の雪で、透流が家を出る頃にも、まだ細かい雪が時折、視界にちらついていた。
寒さに震えながら、目的地に向かう。
落合とは『Cat's tail』で会う約束だった。
その前に、まず初めの場所に立ち寄る。
昼下がりの悪天候の中、その大通りはひと月前とは違って見えた。
あの日、道路に飛び出しかけた猫に釣られた透流を、茜が引き留めた。
それが、全ての始まりだった。
もしかしたら自分と同じように、茜も想い出のある場所を訪ねているのではないか、そんな淡い期待もあった。しかし、都合良く茜の姿がある訳もない。
それでも、約束の時間が近づくまで、傘を差したまま透流はその場に立って何を思うでもなく行き交う車を見つめていた。
視界の悪い中、無心に車の音を聞いていると吸い込まれそうな錯覚を覚える。
しかし、今の透流が、その一歩を踏み出すことはない。
カフェでは既に落合が待っていた。
「水原から、こんな所に呼び出しとは珍しい」
落合はランチセットを頼み、透流はマカロンを注文した。
「それが、昼飯?」
「あまり、お腹が空いてないから」
一口囓ると、とても甘い。出会った日のことを思い出して、泣きそうになる。
「泣くほどおいしいのか。……変わってんな」
「今回は、無理な頼みを聞いてくれてありがとう」
「別に大したことじゃないけど。……ほら、これが約束の」
落合がテーブルの上に出したのは四冊の卒業アルバムだった。
「伝手は色々とあるからな。でも、どうして俺たちの二つ上と下、それに一つ上と下のアルバムなんて見たいんだ?」
「電話で説明した通りだけど」
「俺たちの同学年の姉妹を捜したい、だったっけ。でも、誰の? ……もしかして、この前会った星野そっくりの子か?」
落合には無理を言った。ある程度の事情を話す義理があるだろう。
「高木茜って言うんだ。あの子は、星野さんの姉妹じゃないかって」
その名前は、やはり落合も知らないと言う。
「確かに似てたな。本人かと思うくらいだ。って本人に聞けばいいじゃないか」
「それができないから、こうして頼んだんじゃないか」
「まあ、良いけど。自由に見てくれ」
透流は、四冊のアルバムを順に開いていく。
結論から言えば、それらしい人物はいなかった。
高木、星野という苗字、茜という名前、彼女と似た人物、どれも当てはまらない。
「……ありがとう」
透流の疲れた声に、結果が思わしくなかったことを落合も悟ったのだろう。
「落合君は、医学部に知り合いはいる?」
「少しは」
中学時代に手掛かりがなければ、次は彼女がこの大学の医学生だという言に頼るしかない。水族館での手際の良さを見れば、すべてが嘘だとも思えない。
「誰か、高木さんを知ってる人はいないかな」
「聞いておいてみるよ。でも、医学部って人数多いからな。期待はするなよ」
「分かってる」
「それにしても」と落合が食後のコーヒーに口を付ける。
「中学が一緒で、大学でも一緒になったってのに、ほとんど話したことないよな。俺が一方的に声を掛けるだけで。それも、水原は避けがちだけどな」
「……ごめん」
「別に謝らなくても良い。仕方ない。そういう性格なんだろう。ただ、お互いに教師を目指してるんだから、もう少し仲良くしてもいいんじゃないか」
目の前の落合は中学のクラスの中心人物だった。明るく社交的で友人も多い。それは大学でも変わらず、顔が広く、話題も豊富だ。恋人もいるようだ。
きっと彼のような人は生徒にも好かれるのだろう。
「落合君は、どうして教師になろうと思ったの?」
「……星野のことがあったからな」
彼は少し言葉に詰まった後、言いにくそうに口にする。
「星野さんのこと?」
「中学の時、俺たち……いや、水原を除くクラスの俺たちは、星野を無視したり、内心でバカにしたりしてただろう。今から思うと、あれが、凄く……心残りなんだ。
どうして、あんなことをしたんだろうって、ずっと悔やんでる。
そして、何もできないうちに、星野は事故で……。だから、せめて今の自分ができることをしたいって思ったんだ」
あまりにも意外な言葉だった。
「じゃあ、高木茜っていう子のことが何か分かれば連絡する」
「僕は、大学に寄っていくから」
落合はアルバムを四冊、紙袋に入れると先に帰って行った。
揚羽によって進路を決めたのは自分だけではなかった。
それはとても意外で、少し悔しくて、とても嬉しいことだった。
大学の構内でも茜の姿を捜す。
彼女は本当にこの大学の学生なのか。それすらも、今は疑問に思えてきた。
それでも、今はそれを信じて、捜すしかない。
春の気配は、いまだ遠い。
図書館、食堂、そして特に医学部の学部棟を中心に構内を歩き回る。医学部の学生と思われる学生には声をかけ、高木茜を知らないかと聞いてみるが、全員が一様に「知らない」という答えだった。
茜と初めて会ってから、連絡をもらうまでの数日の間も、こうして学内を彼女の姿を求めて歩いたことを思い出す。
あの時も、今も、彼女は透流を振り回す。
それは透流にとって苦しいことではあるが、また同時に、自分がそれだけ熱情を持って他人に興味を持つことができるという事実を教えてくれるものでもあった。
図書館ではもう一度、白銀祭りの《奇跡》について記載された本を手に取った。
振り返るまでもなく、あの辺りから茜の様子がおかしかった。
しかし、読み直してみても、いったいなぜそうなったのか透流には理解することはできなかった。
夕方には、最初のデートで訪れた猫カフェへ向かう。
あの時と同じく、カップルや友人同士が多かったが、男一人でも特に奇異な目で見られることもなかった。猫好きの男性は、この世に多いようだ。
お腹がたぷたぷしたレモンや、人見知りのテンプラたちが、あの日と変わらぬ様子で迎えてくれる。
「高木さんの行方を知らない?」
レモンのお腹を撫でながら尋ねてみたが、返事は「にゃー」だった。
テンプラは、やはりソファの下、その奥の方に隠れている。
それでも透流が餌を置いて手招きをすると、恐る恐るといった風に寄ってきた。
「高木さんの行方を知らない?」
同じように聞いてみるが、首をちょこんと傾げるだけだった。
そう言えば、茜はテンプラのことを「ジンジャー」と呼んだ。
あれは、どういう意味だったのだろう。
同じように、近くのショッピングセンターにも立ち寄る。
茜が似合うと言ってくれた服を買ったことを思い出す。また、着てみなければ。
中に入っているシネコンにも行った。
一緒に観た映画は、まだ上映している。しかし、今週末までのようだ。
一つ、彼女との想い出が消えてしまうような寂しさを覚える。
帰宅すると、よほど疲れた顔をしていたのだろう。母親も晴陽も心配をする。
「今しか、できないことだから」
自分を奮い立たせるように、透流はその言葉を口にする。
アルバイト先で、この間のようにひょっこりと顔を見せないかと期待をしたが、やはりそれは叶わぬことだった。
二月二七日(火)。
朝、落合から電話がある。
「聞いた限り、医学部の奴で『高木茜』を知ってるのは、誰もいなかったぞ」
昨日の自分の経験からも、その答えは予想の範囲内だった。
「ありがとう」
「今度は、授業のノートを見せてくれよな」
午前中、一人で鳴海に行くために家を出る。
先に宗宮駅の周辺を歩き回った。
一番最初にデートしたとき、昼食を食べようとして失敗したイタリアンレストランは、今日も混んでいる。
茜はあまり美味しくないと言っていたが、果たしてどうなのだろうか。
ぜひ、一緒に確かめてみたい。
天候は冴えず、いまにも雨が降り出しそうな空模様だが、それでも相変わらず家族連れで賑わう水族館に透流一人で入館する。
ペンギンもイルカも、チンアナゴもウミガメも、変わらぬ姿で透流を迎える。
しかし、魚たちを楽しむ心の余裕はないまま館内を二周する。
やはり、茜の姿はない。
昼過ぎに、レストランで食事をする。あの日、彼女が食べていたテナガエビのクリームパスタを頼む。
口の中に広がるとろりとした味わいに、あの時茜は、どういう気持ちでこれを食べていたのだろうと思う。
既に、いずれは姿を消すことを知っていたのだろうか。
近くにいた客が倒れ、茜が一命を救った。あの騒動があった一角も何ごともなかったかのように営業に使われている。
あの手際の良さからして、茜に医学の心得があることは間違いないと思う。
しかし、それ以上のことは分からない。
それから、宗宮に戻り、白銀神社に立ち寄る。
祭りを明日に控え、曇天の下でも何かしら賑わしく、祭りの予感は否応なく高まっているように見えた。
気の早い者たちは、その様子を楽しむために神社に集まっているようだ。
傍から見れば、透流もその一員に思えることだろう。
透流は、その中に茜の姿を捜す。
祭りには、一方ならぬ思い入れがあるように感じた。明日の本番はもちろん、前日にも顔を見せていてもおかしくない。そう思ったのだが、やはり姿はなかった。
夕方、金宝山にも登る。
さすがに徒歩というわけにはいかず、ロープウェイを使う。徒歩で三時間かかった道のりも僅か一五分だ。
彼女と二人で登ったのは、まだほんの三日前のことだ。
あの日、透流は最初から茜に告白する決意を固めていた。
市街を一望できる場所で、これからもずっとともにいたいと伝えたい。そう思っていた。
今、こうして冬の靄に煙る街並みを見下ろしてみても、その思いは変わらない。
自分のことが嫌いならば、それは仕方ない。
だが、そうではないはずだと透流はうぬぼれる。
何かしら、やむにやまれぬ事情があるのだろう。ならば、せめてそれを知りたい。
そのくらいのわがままを言っても良いはずだ。
展望台にも宗宮城にも、茜の姿はない。
風が吹き、雲が切れ始め、その隙間に昇ったばかりの月の姿が見える。
時刻は夕刻で、満月には少し早い膨らみかけた月はまだ淡白い。
ふと、かぐや姫のおとぎ話を思い出した。
もしかして、茜もそんな風にして、どこか別の世界からやってきたお姫様なのではないか。月に帰る時が近づいたのではないか。
夕飯は、透流の提案で家族四人で『椿』に向かう。
四歳の晴陽にはまだ早いかも知れないが、幸いお店で幼児向けの食事を用意してくれた。食べながら店内に茜の姿を捜すが、いるはずもない。
透流の様子を訝しみながらも、母親や晴陽は何も知らずに茜のことを話題にして、唯一人会っていない父親は、いずれ会いたいと口にする。
もう一度、茜とともにご飯が食べたい。
ああ、本当に――茜と知り合って、僅か一ヶ月で、どうしてこうもたくさんの場所に行き、どうしてこうもたくさんの想い出ができてしまったのだろう。
この二日間で追いかけられたのはそれらのほんの一部分に過ぎない。
どこかで茜とすれ違ったのではないか。それほどに多すぎる。
わずかひと月で、これなのだ。
茜とともに一年を過ごし、十年を過ごし、数十年を過ごせば、果たして一緒に訪れる場所はいかほどになり、積み上がる想い出はどれほどのものになるだろうか。
それを思うと、透流は少しだけ怖くなる。同時にそれを望んでやまない。
その晩。水族館で倒れた男性から透流に連絡があった。茜が自分の連絡先を教えなかったため、代わりに透流が番号を伝えていたからだ。
あの初老の男性は病院に運ばれた後、一時は生死の境をさまよったが、ようやくこうして、しゃべることができるまでに復調することができた。
それも、すべてはあの時の女性のおかげだ。
ぜひ、一度会ってお礼を言いたいが名前も分からない。連絡を取れないだろうか。
そんな内容だった。
今、高木茜は海外旅行に出ている。
そう伝えると彼は残念がって、いずれ必ずお会いしたいと透流に伝言を残した。
まだ少し呂律が回っていなかったが、茜がいなければこうして話すこともできていなかった人がそこにいる。
そのことを彼女に伝えたい。
茜、君は今、どこで、どうしているのか。
今日も取られることのない電話を鳴らし、そして、先ほどの男性の電話の件を書き添えてメールを送る。
明日は、いよいよ白銀祭りの当日だ。銀月の夜だ。
茜に送ったメールには、一緒に行きたいと最後の望みを託した。
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