第25話 茜雲 (4)
「やっぱり」
まず、茜は最初にそう口にした。
「やっぱり、ここだったね」
とても、とても、嬉しそうに微笑む。
彼女の言葉がさらに続くのを待つ。心臓が激しく鼓動するのを感じながら。
「わたしはきっと、水原君に……ううん、トールにそう言ってもらえるのを、ずっと待っていたんだと思う」
「じゃあ」
思わず、口を挟む。今、はっきりと自分のことをトールと呼んでくれた。
「茜さんも、僕のことを……」
しかし、彼女は悲しそうに首を振る。
「でも、ごめんなさい。その思いに応えることはできない」
消え入りそうな声で、しかし確と透流の耳に届くように拒絶の言葉を口にする。
「わたしは、トールを傷つけたくない」
「だったら、僕のことが嫌いなの?」
自分の言葉が彼女を苦しめると分かっていても、未熟さ故に聞かざるを得ない。
「ううん」
一段と辛そうに、彼女は透流の言葉を否定する。
「それなら」
「ごめんなさい」
透流が口を開こうとするのを遮り、彼女はただ謝り続ける。
「いったい、君は何を隠しているの」
透流の声に周りがざわめき始める。
ここにいるのは、二人だけではない。観光客が何人もいて、先ほど写真を撮ってくれた女性もこちらを見ている。
傍から見れば、痴話喧嘩にしか見えないだろう。
普段の透流であれば、決して声を荒らげることなどないはずだ。
「ごめんなさい。でも、これだけは信じて」
茜の声についに涙が混じる。
「わたしのわがままで、わたしの嘘で、トールを傷つけている。それは、充分に分かってる。でも、真実を知れば、もっとあなたを傷つける。
……だから、さようなら」
突然、体を翻して茜が駆け出す。
通路を人を押しのけるように走り、階段を降りてさらに下へと向かう。
透流は慌てて、追いかける。
茜はまだ靴擦れが治っていないはずだが、それにも構わず全力で走っている。
向かう先は、ロープウェイの駅だろう。
行きは山道を登ったが、帰りはロープウェイを使えばすぐに下山できる。
発車間隔は一五分程度なので、追いつくことは充分に可能だ。
しかし、透流は途中で止まってしまった。
追いついて、それでどうなるだろう。
また、拒絶の言葉を聞くことになるだけだ。
悲しい思いをしたくない。彼女の泣き顔を見たくない。
きっと、何か事情があるのだろう。
それを知ることが、決して自身のためにならないと茜も言ったではないか。
……だが、それで良いはずがない。
そんな簡単に割り切れるなら、最初から好きにならない。
感情を理屈で抑えられない。
それは、自分が嫌っていたことのはずだ。
一旦は止まった足を透流は再び動かし始める。
茜を乗せたはずのロープウェイは発車しようとしていた。
これを逃せば、彼女が下山した後を追いかけることは不可能だろう。
透流は飛び乗る。
時刻はまだ昼過ぎで、下山しようという人はそれほど多くない。
車内に人は数えるほどしかなく、すぐに全員の顔を見渡せる。
そこに、茜の姿はなかった。
……いない。
慌てて窓の外を見ると、茜が立っている。
とても申し訳なさそうな顔をして透流を見つめている。
すぐに身を翻して降りようとするが、ベルが鳴り出入り口が閉まる。
透流と茜はガラス一枚を隔てて分けられる。
「茜さん!」
透流の悲痛な声は、果たして彼女に聞こえただろうか。
ベルに掻き消されたのではないか。
茜は口を開くこともなく、ただただ悲しそうに透流を見送る。
ロープウェイは動き出す。彼女の姿は後ろへと遠ざかり、すぐに見えなくなった。
くすんだ緑の繁る山を横目に見ながら、透流の体は麓へと運ばれていく。
どうして、こんなことになったのだろう。
今日は告白を決意していた。
市街を見下ろせる金宝山の山頂で、この町で彼女とともに生きていきたいという願いを叶えるはずだったのに。
茜も一度は嬉しそうな顔をしてくれた。受け入れるような言葉を発してくれた。
決して自分の見間違い、勘違いではないはずだ。
それなのに、どうして最後は撒くような真似をしてまで、茜は透流から逃げようとしたのだろうか。
楽しかった日々は、決して嘘ではないと信じたい。
その思いは、彼女も共有していたはずだ。
下に降りてから、次のロープウェイが降りてくるのを待つ。
しかし、茜は乗っていなかった。
次も、次も、そのまた次も――ずっと。
陽が落ちる。西の空は燃えるような夕焼けだ。
一欠片の雲が茜色に染まり、風に流れていく。
明日から天気が崩れるとは思えない光景を目にして、透流は涙を流す。
すっかり暗くなり、もはや誰も降りてこなくなるまで、ずっと立ち続けていた。
茜は足の痛みを我慢して、徒歩で下山したのだろうか。
その日、彼女と再会することは叶わなかった。
夕飯を予約していたことを思い出し、かろうじてキャンセルの電話を入れる。
弱り果てて、一人帰宅する。誰とも話す気になれず、そのままベッドに倒れ込む。
思い出して、スマホを取り出す。
メールの着信があり、慌てて確認するが、ただの広告だった。
透流からメールを送る。
『また、会いたいです』
その一言で、充分に伝わるはずだ。
返信を待つが、着信音は鳴らない。
ただただじっと横になっているうちに、どうしようもなく眠りは訪れた。
二月二四日(土)
小学生の頃から、ずっと日記を付けてきた。
その習慣は、既にわたしの生活の一部になっていると思っていた。
それなのに、気づけばこの五日ほど書いていない。
こんなことは、初めてだ。
……あの日ですら数行とはいえ、書いていたのに。
わたしの心は揺れていた。
彼と会えば、苦しくなる。
彼と会わなくても、苦しくなる。
いったい、どちらが正解なのか。
彼の働く本屋に行った時も、二人で神社に行った時も、わたしの心はどこか上の空だった。ふわふわと夢の中を生きているようで、日記に書くこともできなかった。
そして、今日、想い出の場所で別れを告げた。
大好きだから、もう会うことはできない。
わたしは残酷だろうか。
きっと、とても残酷だ。
どうしたって、彼を傷つける。
それが分かっているなら、最初から会わなければ良かったのだ。
彼の知らない彼が、いつか言っていた。
理屈と感情は、どうしようもなく反目することがある。
そういう時、わたしたちは感情に勝つことはできない。
それが人の宿命なのだと。
ならば、きっとわたしは人なのだろう。
とても、悲しいことに。
もう、彼とは会わない。
このまま、一人で銀月の夜を迎えよう。
わたしは、そう決めた。
身を焦がす ただ一欠片の 茜雲 流れる先は ここか彼方か
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