第20話 逃水(4)
朝、起きてすぐに茜にメールをする。
昨日、遊びに来てくれたことの礼、そして寝落ちしてしまったため、メールが出せなかったこと。あとは今日の待ち合わせの確認。
中学校の前で話したことには、何も触れなかった。
茜と会うと、昼を学食で食べようというので、さっそく大学に向かう。
冬休み中ではあるが、サークルや勉強などで学校に来ている学生の数は存外多い。
透流自身は、ほとんど足を運ぶことはなかったが。
「医学部は休みの間も忙しいんじゃないの?」
具体的な知識があるわけではないが、そういうイメージだ。理系は大変だと聞く。
「うーん、わたしはそうでもないかな」
二人でキャンパスを歩く。
宗宮大学はよく言えば歴史ある、一般的に言えば年季の入った建物が目立つ。
春になれば新入生を迎える桜も、新緑で彩られる木々も、まだ葉も落ちた寒々しい姿を晒している。
ただ、今月初旬が比較的暖かかったこともあるのだろう、注意すれば硬いながらも芽吹きの気配を見つけることができる。
「そういう教育学部はどうなの?」
「この時期は、特に何もないかな。去年の秋に教育実習があったから。あとは四年生になってしばらくすると、教職インターンがあるから準備に忙しくなるけど」
「そっか。いよいよ、先生の卵になるんだ」
「……どうなるか、分からないけど」
「どういうこと?」
「教員免許は取るけど、本当に先生になるかどうかは迷ってる」
「どうして?」
茜が驚いて、尋ねる。
学食に着いてから、話の続きをする。
「こんな話をするつもりはなかったんだけど」
透流は前置きして、
「昨日、星野さんの言葉が僕を教師の道へと進ませたっていう話をしたけど」
「うん」
「それは間違いじゃない。……でも七年前の言葉だけでずっと前に進み続けられるほど、僕は強くない」
教師という職務の大変さは、大学に入り嫌というほど思い知った。
児童や生徒だけではなく、同僚や上司、そして保護者とのコミュニケーション能力を非常に求められる職業だ。
それは、ただ教えるのが上手いと褒められた程度でモチベーションを保てるほど、生やさしいことではなかった。
「……いじめを見た」
三ヶ月ほど前の教育実習で赴任した小学校で、透流はいじめられている女子生徒を見た。もちろん、その場で注意をした。学校にも報告した。
しかし所詮はすぐに学校を去る身だ。彼女のその後は分からない。
「教職に就くなら避けて通れないって分かってる。どう対処すべきかは、大学でも学んでる。でも……」
透流は大きく息を吐く。
「自信をなくしてる。人と上手く関われない僕が教師なんかやっていいのかって。
それは、どんな仕事でも同じことかも知れない。どんな会社に入っても、他の人と上手くやっていかなきゃ結局は行き詰まる。要は、自分に自信がないって話だ。
ただ、教師の場合は子供の未来に責任がある。それが耐えられるか、不安なんだ」
賑わう学食の片隅に並んで座り、透流は周りに聞こえないように茜に打ち明ける。
「要するに、うじうじしているわけだ」
「……そうなるかな。いっそ、宗宮を出て他に就職しようかとも思うんだけど」
悩んでも、答えをくれる者はいない。
答えは自分で出すしかない。
それを分かっていても誰かに相談したくなる。弱音を吐きたくなる。
今は、その相手が茜だった。
「高木さんは凄いよ。医者になるって決めて、目標に向かって進んでいるんだから」
水族館でのできごとを思い出して、茜に賛辞を送る。
「誰かを助けたい、自分の手の届く範囲で、精一杯のことをしたいっていう気持ちは、ずっと変わらないから」
そう言った後、しかし彼女はふと表情を暗くして、
「でも、わたしのよく知っている人が、わたしの手の届かない所で命を落としてしまうのを助けることはできなかった」
透流の顔をじっと見て、彼女はそんなことを告げた。
彼女が浮かべる表情は、きっと七年前の透流が浮かべたものと同じに違いない。
「それは……」
今はもう、彼女の胸の中にしかいないという大切な人のことだろうか。
「図書館に行く前に、もう少し学内を歩かない?」
「調べ物は良かったの?」
「うん」
歩くと言っても珍しいものがあるわけでもなく、見慣れたキャンパスの奥に向かっていく。その途中で大学生活に纏わる話をする。
「わたしは手話を習うサークルに入っていたけど、今はお休み中。水原君は?」
「落語研究会に興味があったけど気後れしちゃって、結局入らなかった」
「どうして、落研に?」
「人前でしゃべる練習になるかなって」
教師を目指す上で役に立つかと思ったが、あと一歩が踏み出せなかった。
「話すのそんなに、苦手そうに思えないけど」
先ほどの学食での話を汲んだ流れになる。
「不思議と高木さんの前では緊張しないけど。本当は一対一も大勢の前も、あまり得意じゃない」
「でも、頑張ってるんでしょう?」
「……苦手なりになんとか。そのうち慣れると信じたい」
授業でもそういう訓練はあるし、少しは改善しているはずだ。
「そっか。わたしだと緊張しないんだ」
「あまり女の子と話したことないけど、高木さんは話しやすいよ」
「そんなうぶなことを言ってたら、ダメじゃない? ちゃんと免疫つけておかないと、生徒に手を出す先生になっちゃうかも」
そう言って笑う茜は、またいつも通りの顔をしている。
だが、透流にはどこか無理をしているように思えてしまう。
「大丈夫だよ。水原君は頑張れるから。苦手でも得意じゃなくても、ちゃんと自分なりに折り合いをつけながら、努力だけは絶対に欠かさない。わたしの知ってる水原君はそういう人だと信じているよ」
知り合って三週間ほどだというのに、自信たっぷりに茜は微笑みかける。
「うん」
その言葉が嬉しくて、透流は素直に頷いた。
「四月には、一緒に桜を見られるかな」
「見られたら良いね」
冬の晴れ晴れとした青空の下で、二人は一瞬、満開の桜を夢想した。
図書館に着くと、館内は勉強や調べ物をする学生で混んでいたが、二人分の席を確保する。並んで座ると、
「あれ、水原」
後ろから、不意に声を掛けられる。落合だ。
「……そっちの子は? どこかで会ったことあったっけ?」
茜の姿を見た落合が首を捻る。
「…………………………………………」
当の茜は彼を見て、そのまま動かなくなってしまう。
「高木さん?」
それから落合に向かって、
「同じ中学だった、高木さんだよ」
答えた透流自身が茜のことを覚えていないが、彼女によればそういうことだ。
「同じ中学……って、ああ……星、野? いや、でも、星野は」
やはり、透流と考えることは同じだった。
「落、合、くん…………ご、めん、わた、し、ちょっと、席、外す、ね」
蒼白な顔をした茜が立ち上がってふらふらと歩いて行ってしまう。
「邪魔したか」
「どうしたんだろう」
様子がおかしいし、放っておくわけにもいかない。
「じゃあ、また」
落合を放り出す形で茜の後を追いかける。
彼女は少し離れた本棚の列の間にいた。
顔色こそ悪いが透流の姿を認めると、ほっとした表情を浮かべる。
「大丈夫?」
「うん、ごめん。突然でびっくりしただけで平気だから」
繰り返し吸って吐く息はまだ荒い。
「落合がどうかした?」
「そういう訳じゃないから。えーと、落合君だっけ、悪いことしたかな」
透流が振り返ると、既に彼もどこかに行ってしまったようだ。
「ほんと、少し気分が悪くなっただけだから」
それ以上の追及を拒むように言うと、
「お手洗いに行ってくる。その後で本を見てるから水原君も好きにしていて」
立ち去る茜を透流は見送る。さすがに後を追いかけるわけにもいかない。
透流は本棚を見て回る。
図書館に来たついでに、銀月の夜に関して調べておきたいことがあった。
以前、茜が《銀月》について別の解釈を口にしていた。
月ではなく鏡池という池の話であると。
これまで、その話を知らなかったので何か文献はないだろうかと思ったのだ。
本当ならば県や市の図書館の方が調べやすいだろう。大学では郷土の歴史や言い伝えを扱う古い本はさほど置いていない。
それでも白銀神社や白銀祭りは宗宮の文化、歴史にとっては重要であるためか、いくつか見つけることができた。
めぼしい本を何冊か手に抱え、先ほどまで座っていた場所に戻る。
茜の姿は、まだ見当たらない。
本を開くと、鏡池に関する記述がいくつかある。
白銀を亡くした後、一人残された黄蝶は小さな池に身を投げたとはっきりと記されている本もあった。
銀月の夜には《奇跡》が起こる。
『もう会うことのできないはずの人たち、もう二度と交わるはずのない人たちが再び、僅かな間だけ巡り合う奇跡』
茜は言っていたが、透流は初耳だ。なぜ、茜はそのようなことを言ったのだろう。
ページを捲っていると、銀月の夜、銀の明かりを照らす鏡池の水面に白銀と黄蝶、そして赤子の三人の姿を見たという人があるという。
その姿はいかにも幸せそうで、しかし、凪いだ水面に僅かにさざ波が立つとすぐに消えてしまったとも。
これが、茜の言う奇跡の伝承のもとになっているのだろうか。
何が本当にあったことで、何が創作なのか。そもそも、すべてが作り話なのか。
透流には知る由もないが、どうせならば悲恋に終わらず、少しでも幸せになっていて欲しいと願う。
「水原君、なに真剣に読んでるの?」
ようやく茜が戻ってくる。
「大丈夫?」
「うん、なんとか」
しかし、彼女の顔色はまだいくらか青白いままだ。
「白銀祭りの話を読んでたんだ。前に高木さんに鏡池のことを教えてもらったから」
「何かあった?」
「銀月の夜の《奇跡》について、こんな話があるのは知らなかった」
見つけた話が載っている本を茜に渡すと、そのページに最初は簡単に目を落とし、次第に食い入るように見つめ始める。
「…………………………そっか」
読み終えたかと思うと、そっと言を吐き出す。
何かに納得したような、しかし諦念したような、そんな深いため息だった。
「どうかしたの」
「ううん、大丈夫。なんでもないから」
答える茜の顔は、ますます蒼白に見える。
……何か、隠し事をしている。
これまでも何度も、そう感じることがあった。
彼女は秘密を抱えている。透流に打ち明けていないことがある。
しかし、それは透流も同じだ。
だから、追及することはなかった。
それをしてしまえば、彼女は自分から離れていくのではないか。
透流は恐れていた。
「高木さん」
彼女の名を呼ぶ。
「何かあるなら話して欲しい。僕は頼りないし、力もない。話を聞くことくらいしかできないかも知れない。
それでも話してくれなきゃ、何も分からないし力にもなれない。もし困っていることがあるなら、話してくれないかな」
図書館なので静かに、ゆっくりと、周りには聞こえないような小さな声で。
でも、はっきりと、力強く茜の顔を正面から捉えて透流は告げる。
「ありがとう」と対する茜は透流の顔をしかと捉えて、泣き笑いのような瞳をした。
「ごめんね、一緒に桜は見られないかも知れないね」
それから小さな声で、呟いた。
夕方になり、駅の方へと向かう茜と別れる。
「……また、会えるよね」
不安ばかりが頭をよぎる。
「もちろん」
そう答えた茜の声も、絞り出したように辛そうだった。
「ねえ、高木さん。金宝山に一緒に登らない?」
宗宮市のシンボルとも言える金宝山は、ハイキングに手軽で人気も高い。
今の彼女がその誘いに乗ってくれるだろうか。返事を待っていると、
「わたしも、いつか誘いたいって思ってた」
幾分元気を取り戻したように、茜が頷く。
「次の土曜日、どうかな?」
スマホで確認すると、幸い土曜日までは天気は良いようだ。
「じゃあ、決定ね」
茜が精一杯というような笑みを浮かべた。
二月一九日(月)
まさか、彼以外にわたしのことを知っている人に会うなんて。
当たり前だ。これまで、出会わなかったことが不思議なくらいだ。
思わず、随分取り乱してしまった。
やはり、大学には行くべきではなかったかも知れない。
でも、一度は彼と一緒に大学の中を歩きたかった。
ただ、それだけだった。
調べ物なんて、嘘を吐かなければ良かった。
わたしは嘘ばかり吐いている。
本当のことを、何も言っていない。
ごめんね。
もう、終わりが近い。最初から分かっていたことだ。
永遠が どこにもないと 知らされた 冬の揚羽と 透き通る夢
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