第18話 逃水(2)
七年前。
クラスメイトの些細な一言をきっかけに揚羽と距離を置いたまま、祭りの当日を迎えた。
澄み晴れ渡る空が眩しく、身を切るように風の冷たい冬の朝だった。
家にいても、遠くから人々のざわめきが聞こえてくる。まだ昼前だというのに、すっかり町の中は騒がしいようだ。
透流は部屋にこもっていた。
親が祭りに行かないのかと聞いてきたが、首を横に振った。
一日、布団を被って眠っていたい。そんな気分だった。
今頃、揚羽は何をしているだろうか。
じっとしていると、彼女の顔ばかり思い浮かぶ。
漫画を読んでいても勉強をしていても、まるで手につかない。
夕方になり、窓の外はすっかり暗くなる。
突然、ナアという甲高い声がした。驚いて窓から下を見ると黒猫の姿がある。
「モモ!」
慌てて、勝手口から裏庭に回る。
逃げることもなく透流を待っていたのは、しばらく会っていなくても見間違えるはずのない、揚羽とともに助けたモモだった。
「どうして、ここに?」
聞いても答える訳はなく、ただ透流をじっと見ている。
黒猫は、まるで夕闇に溶けてしまいそうで金色の目だけが輝いている。
「星野さんは?」
元は野良猫ということもあり、これまでも外に出ることはあった。普段は星野家の周りをうろうろする程度だったようだが、透流と揚羽の家は、それなりに距離がある。
嫌な予感に襲われた。
「ちょっと、出かけてくるから」
母親に声をかけ、モモを抱えて外に出ようとした。
しかし、そこで立ち止まる。
玄関先に小さな紙袋が置いてある。ぽつりと置かれた様は忘れ物のようだ。
中には箱が入っている。ただの箱ではなくおもちゃの宝箱だ。
「なんだ、これ?」
明らかに家の敷地内に置かれていたそれは、水原家宛てのものだろうか。
宝箱は鍵が掛かっていて開かない。振るとかさかさと音がする。中に何かが入っているが取り出す術はない。
ナアともう一度、モモが鳴いた。
「……星野さんだ」
それは直感としか言いようがなかった。
彼女に会いに行けば、この箱を開ける鍵を持っているのだろう。
揚羽の家に着くと灯りはなく、チャイムを鳴らしても誰も出ない。
「ほら、また今度な」
モモを門の隙間から中に入れると、少し進んで立ち止まる。
家にいないとなれば、家族で祭りに行っているのだろうか。
今日は七年に一度の白銀祭りの当日だ。
すぐに透流は神社へと足を向ける。最後にもう一度、モモが振り返り、透流を見送るように細い声で鳴いた。
既に陽が落ち始めていた。夕方から夜へと移ろいゆく黄昏時だった。
西風が身を凍らす。
その風が吹く先には月が昇り始めていた。まだ薄白く銀色にも見える月が。
白銀神社まではバスで行くしかない。
だが、途中で交通規制が掛かっている。行けるところまで行ったらあとは歩く。
きっとすごい人混みに違いない。目的の揚羽を捜し出すことはできるだろうか。
互いに携帯は持っていない。
それでも、必ず会えると根拠もなく信じた。
しかし、その期待は神社に着く前に裏切られる。
それも、最悪の形で。
乗ったバスは予想よりも早く、渋滞で動かなくなってしまう。
どうやら事故があったようで、パトカーが停まっている。
神社に向かう人はそこで降りて歩き始める。透流も彼らに倣いバスを降りる。
祭りへと向かう人と事故の野次馬で、歩道はごった返していた。
冬の寒さも忘れるくらいの熱気の中を進もうとして、透流はしかしどうしても気になって事故の現場に視線を向ける。
フロント部分が凹んだ一台の乗用車、その運転手は事情を聞かれているのか外に出て、警官と話をしている。
そして、いままさに救急車に乗せられようとしているのは、一人の少女。
体には白布が掛けられ、顔も定かではないが、垣間見えるその服には見覚えがある。
揚羽が何度か着ていた檸檬色のコートだ。
その鮮やかな色合いと揚羽の内気な性格のギャップが不思議で、でも似合っていたことをよく覚えている。
まさかという思いだった。偶然の一致に違いない。
透流は立ち止まる。
救急車がサイレンを鳴らして走り始めた。
そして、透流は警官が発したその名前を聞くことになる。
「ほしのあげは」
警官はタイヤの下になっていたバッグから生徒手帳を見つけ、名前を確認していた。
「星野さん……っ!」
透流は叫びながら、警官に駆け寄る。
彼が持っていた手帳もバッグも、確かに揚羽のものだった。
揚羽の連絡先を聞かれ、そう言えば自宅の電話番号を知らないことに気づく。
身許が分かれば、いずれ家族に連絡はつくだろう。
本当は病院まで行きたかったが、自分は部外者だ。
祭りに行くことはできず、そのまま帰宅する。
憔悴しきった顔を見て、母親が心配するが何も答えることができない。
夜が更けていく。
遠くから、祭り囃子が聞こえてくる。
いてもたってもいられず、もう一度揚羽の家へと向かう。しかし、応答はなく人の気配もまるでない。
モモの姿も見当たらない。
異変を察して、飼い主の危機を透流に知らせに来たのだろうか。
冬の寒さはますます厳しく、体の芯から冷えてくる。
月は天頂にあり、銀に煌めいている。
ああ――そうだ。今宵は、銀月の夜、だ。
透流は呆然とその月を眺めた。
翌朝。
登校すると、クラスは昨日の祭りの話題で持ちきりだった。
賑やかで、騒々しくて、うるさくて、煩わしい、いつもの朝だった。
揚羽の席は空席のままだった。
ひょいとクラスに入ってくるのではないかという希望を抱いていたが、その淡い望みは沈痛な面持ちの担任からもたらされた知らせによって打ち砕かれた。
こうして、透流は七年前に大切な人を失った。
僅か一ヶ月ほどの交流だったが、彼女との触れ合いは透流に多くのものを残した。
猫が想像よりもさらに可愛いと知った。
透流は教えることが上手いと言ってくれた。
透流が誰かを大切に思えるということを教えてくれた。
少しだけ、自分が自分であることを認められる気がした。
そして、透流には一つの目標ができた。
しかし、同時に心に傷を抱えることになる。
相変わらず、人と交わることは得意ではない。
自分の行動が何か違っていれば、揚羽は死なずに済んだのではないか。
その後悔が、今も時折、胸を苛む。
表裏一体の鏡像のように、揚羽は透流の心の中にある。
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