第17話 逃水

 二月一八日(日)。

 昨晩から急に冷えて、朝はうっすらと雪が積もっていた。窓から見える金宝山が再び、雪化粧をしている。

 昼前に、透流の家の傍のコンビニを目印にして茜と落ち合う。その頃には、すっかり雪は解けていた。

「来週は寒いらしいね。お祭りはどうなるかな」

 雪かきでできただろう駐車場の片隅に残る雪のかたまりを見て、透流が呟く。

 まだ十日先の予報は出ていないから、なんとも言えないのだが、

「天気、あまり良くないよ」

 茜が残念なことを言う。

「母さんが昼を用意して待ってる」

 自分の声が硬いのが分かる。さすがに緊張する。

「ただ、ごめん。夜はバイトなんだ。本当は休みたいんだけど」

「そうなんだ。どこでアルバイトしてるの? 一度行ってみたいな」

「ただの町の本屋だよ」

 短い距離で既に道路に雪もなかったので、ここまでは車で来ていた。

「どうぞ、乗って」

 初めて茜を助手席に乗せて運転する。

 シートベルトを締めたのを確認して、ゆっくりと発進させる。

 免許をとって三年近くになるが、ほとんど近所を走るだけだ。

「……水原君、大丈夫?」

 隣の茜が不安そうな声を出す。

「大丈夫、だと思う」

 何度も走っている道だし特に危険もないのだが、それでも茜を乗せていると思うだけで絶対に事故を起こしてはならないという気持ちが過剰になる。

 茜は手提げ袋を持っていた。

「それは?」

「お土産だよ。手ぶらって訳にはいかないから」

 なるほど。そういう気遣いが必要なのか。

 無事に家に着いた時には、体がガチガチになっていた。

 車庫入れを終えて家のドアを開けて茜を招き入れると、すぐに母親が出てくる。

「初めまして、高木茜です。今日はお招き頂きありがとうございます」

 二人の様子を緊張して透流は見守っていたが、

「つまらないものですが、ぜひ皆様でお召し上がり下さい」

 持参した袋を茜が母親に渡す。

「あら、ここのケーキ、私大好き」

 中には待ち合わせたコンビニの近くにあるケーキ屋の箱が入っている。

「それは良かったです」

「お昼にさっそく頂きましょう。……茜さんの分もあるのかしら」

「はい。全部で五つ入っています」

 茜は持ち前の愛想の良さで、すぐに母親に気に入られたようだ。

 昼までは、まだ時間があるので透流の部屋に行く。

 昨日の夜のうちに、こういうこともあろうかと一生懸命片付けておいた。

 片付けと言っても、部屋に散らかっていた諸々を押し入れにしまい込んだだけだが。

「ここに座ってよ」

 透流が普段使っている勉強机の椅子を指さす。

「水原君は?」

「床でいいよ」

「じゃあ、遠慮なく」と茜は椅子に座る。

「ちゃんと勉強してるんだね」

 机の隣にある本棚を眺める。大学のテキストを中心に棚が埋まっている。ライトノベルなどの小説も多い。あとは漫画だ。

「お父さんは?」

「今日も仕事なんだ」

 日曜日だったが急な呼び出しで会社に行っていた。いつも忙しそうだ。

 茜に会えないことを寂しがっていた。

「今度はぜひ会いたいって」

「妹さん……晴陽ちゃんは?」

「昼寝中。そのうち起きてくると思うけど」

 二人きりで部屋にいると他の場所なら続くはずの話題がなかなか繋がらない。

 初めて会った時のように透流は緊張していた。

 茜は物珍しそうに部屋をキョロキョロと眺めている。

「パソコンは何に使うの?」

 透流は今となっては珍しいデスクトップを使っている。父親が使っていたもののお下がりだ。型は古いが、今のところ問題なく動いている。

「別に……インターネットと宿題とゲームと……そのくらいかな」

「ねえ、水原君は女の子と付き合ったことはある?」

 いきなり直球の質問が来た。

「ない、よ」

「前に先生になろうとした理由を聞いたことがあったよね。その時に好きな人が関わっているとか、そんなことを言ってた気がするけど」

「好きな人って言うか、うん、大切な人だけど」

「どこか違うの?」

「僕の中では」

 いや、自分でも区別はついていない。ただ、照れくさいだけだ。

「そうなんだ。男の子は難しいね」

「……そう言う高木さんも」

 そこで言葉を止める。

 茜も以前に『大切な人』という言葉を口にしていた。そのことを聞いてみたい。

 彼女のように気軽に聞ければ良いのに。

 そこまで自分のことを気にしていないということだろうか。

 無関心なはずはないと分かっている。何とも思っていない異性の家に遊びには来ないだろう。分かっていても、自信がない。

「お兄ちゃん! おかえり!」

 何も言い出せないうちに、勢いよく晴陽が入ってきた。昼寝の後で元気いっぱいだ。

「晴陽ちゃん、こんにちは」

 事前に透流の友達が遊びに来るとは聞いていたはずだが、それでも知らない人がいるせいかびくりと立ち止まる。

 晴陽は人見知りの気があって、初めて会う人にはすぐには懐かない。

 透流の後ろに隠れてしまう。

「わたしは高木茜。水原君の友達なの。だから晴陽ちゃんともお友達になりたいんだけど、どうかな」

 茜が笑いかけるが、晴陽はぎゅっと透流の服の裾を掴んだままだ。

「晴陽、挨拶は?」

「水原君、待って。……晴陽ちゃん、これ見てくれる?」

 晴陽の隣に座ると、茜は右手の指を合わせて影絵の狐の形を作る。

「にゃんにゃん、猫だにゃん」

 猫なんだ。

「今日は、晴陽ちゃんと仲良くしたいにゃん」

「ねこしゃん! おねえちゃんは、ねこしゃんなの?」

 茜の猫真似に晴陽は顔を上げると、可愛らしい笑顔を見せた。

「そうだよ。おねえちゃんは、猫とお友達なんだにゃん」

 語尾ににゃんをつけて話す茜も可愛い。

 それからは、一気に晴陽は茜に懐いた。

 母親に呼ばれるまで、透流の部屋で三人で一緒におしゃべりをしたり、おままごとや猫ごっこをしたりして遊んだ。

 人見知りの晴陽の心を、茜は巧みに掴んだ。

「晴陽が猫を好きなこと、よく知ってたね」

「だって、水原君も好きでしょう?」

 確かにそうだ。

「今はまだ、ペットを飼う大変さが分からないと思うけど、もう少し大きくなったら、飼うつもりなんだ」

「その時は名前をジンジャーにしてあげてね」

 茜の言葉に、思わず「えっ?」と聞き返す。

 その名は確か初めての猫カフェの時に彼女が口にした、実在しない猫の名前だ。

 彼女の冗談に曖昧に頷く。

「ねこしゃん、かうの!?」

「晴陽が大きくなってからな」

「今日は、わたしが猫ちゃんの代わりになってあげる」

 じゃれる茜の頭を撫でて晴陽は楽しそうだ。

「水原君もどう?」

「……遠慮します」


 昼食は母親の作ったちらし寿司を食べる。

 お手伝いします、と茜が言ったが、お客様だからと半ば強引に席につかされた。

 彼女は「おいしい」と何度も繰り返して多めに食べる。お世辞とも思えない。

「晴陽ちゃん、口の周りが汚れてるよ」

「ほら、玉子食べる?」

「お魚嫌いだと、ねこしゃんに嫌われちゃうよ」

 隣で茜にべったりの晴陽の面倒を見ていることに透流の母も驚く。

「初対面の人に、こんなに懐くなんて」

「小さい子に好かれやすいみたいです」

 照れながら、茜が返事をする。

 食後は茜の持参したケーキの箱を開ける。先に選んで下さいと言う茜に促されて、まず晴陽が苺のショートケーキを指さす。子供はみんな好きだろう。

 続いて透流はチョコレートケーキを選んだ。

「やっぱり」

 その選択を茜が可笑しそうに笑う。

「どうして?」

「最初に会った時に頼んでたのもチョコレートだったから、好きなのかなって」

「……そう言えば」

 そんなことを覚えていてくれたのか。

「私はモンブランにしようかしら。茜さんは、どちらが良い?」

 茜はブルーベリーのタルトを選び、残った抹茶ケーキは父親の分とする。

「お父さん、抹茶が好きだからちょうど良かったわ」

 ケーキを食べ終えて、しばらくは四人でトランプをしながら色々な話をする。

 母親が茜に家族のことを尋ねるが、やはり曖昧な答えに終始していた。

 やがて、晴陽がすっかり眠そうに欠伸を何度も繰り返す。

「そろそろ帰ります」

「また、遊びに来て下さいね」

 母親はすっかり、彼女のことが気に入ったようだ。

「バイバイ、ねこしゃん、またね」

 欠伸をかみ殺しながら晴陽が大きく手を振る。

「晴陽ちゃんも元気でね。おやすみ」

「透流、帰りはちゃんと送っていきなさい」

 冬時、まだ夕暮れには遠い時間だが確かにそうすべきだろう。

 彼女がどこに住んでいるのか、そろそろ知りたいとも思う。

「どこまで送っていけばいい?」

「駅の方に向かってくれる?」

 茜の言葉に従って、車を発進させる。

 隣に茜が乗っている状況にも、ようやく慣れた。

「次を左に曲がってくれる?」

 少し走り、青信号が見えたところで茜が声を掛ける。駅とは違う方向になる。

「いいけど」

 なんだろうと思いながら、ハンドルを左に傾ける。

 そのまま、速度を落として走りながら透流は辺りを気にする。

 この道は自分が通った、そして《彼女》が通った中学校に続く道だ。

 懐かしいなと思いながら、助手席の茜を見ると彼女も外を眺めている。

「あそこが、水原君が通った中学だよね」

 指さす先には校舎が見え始めていた。じきに車は学校の前に差し掛かる。

「ちょっとだけ停めてもらっていいかな」

「うん」

 校門の傍に車を停める。生徒の姿はない。車の通りも多くなく閑散としていた。

「降りよっか」

 六年前まで通った中学はあの頃と変わらぬ姿をしている。

「懐かしい?」

「いや、そんなに」

 つい、素っ気なく答えてしまう。

「前にも少し言ったけど、中学の時っていい想い出が少ないから。そう言う高木さんは、どこの中学?」

 茜は躊躇う様子を見せた後、

「わたしも……ここだよ」とまなじりを決して答える。

「ここ? えっ、でも……」

 言葉に詰まる。透流と茜は同い年のはずだ。中学も同じ学年ということになる。

「同級生ってこと? 高木茜……ごめん、覚えがない」

「目立たない子だったから」

 茜が自嘲する。

 しかし、《彼女》とこれほどよく似た生徒がいれば記憶にあるはずだ。

「……じゃあ、星野揚羽って知ってる?」

 唾を飲み込んだ後、透流は問い掛ける。

「うん。覚えてる」と茜はゆっくりと頷いてから、さらに間を置いて、

「わたしは……彼女が嫌いだった」

 冬の風に流れても、なお消えないような冷たさで言った。

「どうして」

 思わず、声が大きくなる。

「どうして、星野さんのことをそんな風に」

「水原君は、彼女のことをどう思っていたの?」

「さっきも聞かれた、僕が中学の時に大切に思っていた人、それが星野さんだ」

 力強く言い切る。

「そう、なんだ」

 茜はため息を漏らすように短く頷くと、

「彼女は暗いし、友達もいない。ロマンチストで夢見がちで、何よりあの話し方が耳障りで嫌じゃなかったの?」

「……高木さんがそんなことを言うなんて」

 透流はショックを受ける。

 明るく、優しく、誰かの悪口を言うなんて考えられなかった茜の口から、そんな言葉を聞くとは。

 今日は、とても楽しかった。

 母親も晴陽も、茜のことを気に入ったようだ。

 そんな大切な時間を自ら壊すようなことを、なぜ茜は口にするのだろう。

 あの話し方。

 確かに、星野揚羽のしゃべり方には癖があった。

 クラスで浮いていたことは間違いない。

 それでも、彼女との間にあった、一時の想い出は、今でも透流の胸の奥に大切にしまわれている。

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