第16話 彩日(12)
七年前。
クラスでの揚羽のあだ名がある。本人に向かって直接呼ぶのではなく、陰で囁かれるその名は『コワラ』というものだ。
丸い鼻が目立つ彼女を動物のコアラに見立てて、さらにそのしゃべり方から「壊れかけのラジオ」を省略した名前。
透流は陰で揚羽のことをそう呼ぶ者のことを快くは思っていなかったが、特に何か抗議をしたわけではない。
これまで揚羽には無関心だった。
そして、自分がいかに噂や周りの意見に流されていたかを思い知った。
斜に構えて、クラスから浮いている、クラスメイトから距離を取っていると自認していた自分が恥ずかしくなる。
勝手にそう気取っていただけで、自分で物事を判断していたわけではなかった。
彼女と知り合い、彼女と話し、彼女とともに過ごすことで、透流は初めて星野揚羽という少女を正面から真っ直ぐに見たのだった。
猫の名付け親は透流だ。
「拾ったんだから、モモでいいんじゃない?」
適当に言ったら、いたく気に入ってくれた。
「うん、モモに、しま、す」
「じゃあ、モモの様子を見に行っても、いいかな」
「い、つでも、来て下、さい」
透流のひいき目でなければ、歓迎してくれているようだ。
とは言っても、学校で二人が特に話すようになった訳ではない。
クラスでは相変わらずで、互いにあまりクラスメイトとは関わらずに目立たないよう過ごしていた。
ただ放課後になれば、モモに会うために透流は揚羽の家に寄るようになった。
モモの回復は順調で、すぐに星野家にも馴染み、すっかり飼い猫の顔をしていた。
「僕も猫は好きなんだけど、実は母親が妊娠中なんだ」
まだ初期の段階で、猫の糞は胎児によくない影響があるためモモを飼うことはできなかったと明かす。この時の子は流産してしまい、後に晴陽が生まれることになるのだが。
「赤、ちゃん、楽し、みです」
「まだ分からないけど。……この歳でちょっと照れくさいよ」
「ご両、親の、仲が、良い、のは、結構、なこ、とです」
そう言う揚羽も少し照れくさそうだ。
モモを口実にして揚羽の家に来ている透流は、彼女自身にも惹かれていた。
話し方にさえ慣れれば、特に会話に困ることもない。
「学校では、ごめん」
「……何が、です、か?」
「星野さんが学校で色々と言われているのに、僕は何もできないでいるから」
今日も、彼女が陰でコワラと嗤われているのを耳にした。
何か言い返したかったが、その勇気は透流にはなかった。
「構い、ません。わたし、の、このしゃ、べり、方、は、心因、性のもの、です。自分、でも、直、したい、とは思、うの、ですが」
「僕は星野さんが優しくて、とても素敵な人だって知ってる」
思わず、赤面しそうなことを言ってしまう。
「それは、多く、の人が、持ち合、わせてい、る、性質で、す。特に、珍し、いもので、はあり、ません」
「だけど」
人ならば当たり前に持っている性質を、いついかなる時でも持ち続けることが、どれほど難しいことか。透流自身がよく知っている。
「そして、多く、の人は同、時に自、分たちと、は違う特、徴のある、人を異、端として、見る、こと、があり、ます。珍、しいこ、とでは、ない、です。水原、くんは、数少、ない、例外、です」
「……僕だって、たまたまだ」
モモとの一件がなければ、揚羽と関わることもなく、ただ変わったしゃべり方をする同級生だということしか記憶に残らなかっただろう。
「わた、しは、書く、こと、が、好き、です。書、く時はこ、の話し、方から、逃、れられ、ます」
彼女は密かに書き溜めているという短歌を透流に教えてくれた。
揚羽はこまめに日記を付けていて、それに短歌を書き添えていると言う。
さすがに日記そのものは見せてくれなかったが。
仔猫の手 きゅきゅっと握って 確かめる こんな風に ふれ合いたい
向日葵の 花弁に触れて 笑う君 隣のわたしは うんと手を伸ばす
「どうして、短歌なの? 小説とか詩とか色々とあるのに」
その方がもっと自由に創作ができるような気がする。
「短歌、は形式が、決ま、って、いるので、創りや、すいです。長い、文章を書、こう、とする、と取り、留めがな、くなって、しまい、ます。
わた、しは創作、の才能はな、いような、ので短い、方が、継続、できます」
「やっぱ、りこの話し、方はでき、れば直、した、いです。そうすれ、ば水、原くんとも、もっと長、くお話で、きるから」
「何か、僕にできないかな」
「まず、わたしの、話し、方を、受け、入れ、て下、さい。そう、すれば、きっと、緊張、せずに、話せ、ます」
「じゃあ、練習台になるよ」
事実、彼女は母親の前では話ができていたが、まだ透流の前ではダメなようだ。
モモを拾ってから一ヶ月余り、二人の密やかな時間が過ぎていく。
主に放課後、たまに休日、モモを膝に乗せて他愛のない話をしたり、図書館に出かけたり、勉強をしたり。その程度のことだ。
「水原、くん、は教え、るのが、上手、です」
「……そうかな」
揚羽の方が自分より頭が良く、理解が早い。
彼女は特に理数系を得意としていた。
反面、自分で短歌を創るわりには国語の成績が良くない。主に読み取りや古文などが苦手のようだ。
「人と、上手く話、せない、ことと、関係が、あるの、かも、知れ、ま、せん」
「ある程度は理屈立てて解答できるよ。パターンを覚えて、選択問題だったら、あり得ないものから消していく。あとは数学と同じで自分が得点できそうな問題から、解いていくことかな。まず問題文をざっと流し読みして意味を掴むといいと思う」
本当は得点の仕方ではなくて、理解の仕方を教えてあげたい。
でも、それは一朝一夕ではなくてもっと時間が掛かることだろう。元来は理解力の高い揚羽のことだ。きっと、苦手も克服するに違いない。
それまで、ずっと一緒にいられたら良いなと心の片隅で思う。
「あと、好きな作品を何度も読み返してみるのも、良いかもね」
そういう透流は特に読書が好きな訳ではないのだが。
「好きな、作品、です、か」
揚羽は少し考えた後、
「以前に、授、業で読ん、だ、『よだ、かの星』が良、かった、です」
宮澤賢治作の有名な童話だ。
『よだかは、実にみにくい鳥です』という一文から始まる。
醜くて皆から嫌われている鳥、よだかの壮絶な自己表現の物語だ。
星になりたいと願い、皆から蔑まれながらも、自らの身を燃やして天空を目指す。
揚羽の心の内に秘めているものを、透流は垣間見たような気がした。
「そし、て自分、のからだ、がいま、燐の火、のような、青い、美し、い光に、なって、しずかに、燃えて、いるの、を見ま、した」
揚羽は作中の一文をゆっくりと口ずさむと、
「ちょっと、水原、くんのイメージ、だと思い、ます。青、くて透き、通る、光、輝、いて、燃、える。流れ、星を想、わせる、水原、くん、の名前、はと、ても綺麗な、名前だ、と思い、ます」
透明で流れる。そのイメージが好きになれなかった透流は、自分の名前を褒められて照れくさくなってしまう。
「それを言えば、星野さんはそれこそ、星が名前に入ってるじゃない」
「あ、ああ、本当、です、ね」
初めて気がついたというように、揚羽が感嘆の声を漏らす。
「じゃあ、僕たちはよだか同盟だ」
二人ともクラスで似たような立場にある。だから、特に深い意味もなく透流が呟くと、揚羽は「はい」と嬉しそうに頷いた。
話が逸れてしまった。二人は勉強に戻る。
「星野さんの教え方も分かりやすいよ」
透流は理科がいまいち苦手だった。単純に数式で解けず、かと言って記憶力だけでも解けず、一ひねり必要なところがダメなのかも知れない。
揚羽はゆっくりと丁寧に、透流の分からない点を探りながら教えてくれた。
「水原、くん、は、将来の、夢は、あります、か?」
「まだ何も決めてないけど」
「わた、しは、医者、になり、たい、んです。この、話し、方、だから、難し、いかも、知れ、ない。でも、わた、しは、手の届、く範囲の、人を、助けた、い、です」
だから、無謀と思えても道路に飛び出してモモを助けようとした。
その猫は今は二人が勉強している部屋の隅、ストーブの前で丸まっている。
「医者は診察だけじゃなくて、研究という道もあるから大丈夫だよ」
「うん。でも、でき、れば、町の、お医者、さんに、なりた、いな」
揚羽は照れたように頭を掻く。
「水原、くん、は、学、校の先、生とか、どう、ですか。きっと、向い、てます」
「…………うーん」
今、クラスに馴染んでいない自分が教師になる姿が想像できない。
「水原、くんは、優しい、ので。……だって、わたしに、親切に、して、くれ、ます。どう、です、か」
「僕が星野さんに親切にするのは……」
言いかけて、言いよどむ。最初のきっかけは猫だった。でも、今は……。
「考えてみるよ」
結局、そう答えるしかなかった。
「もうすぐ、白銀祭りだね」
その日は、そんな話題になった。祭りまであと一週間を切っている。
クラスの皆の口の端にも上ってかしましい。
「星野さんは、誰かと行くの?」
「いえ。水原、くん、は?」
「僕も、特には決めてないけど」
そして、しばしの沈黙が流れる。
誘うなら、そろそろ頃合いだろう。遅くなれば、他の予定が入るかも知れない。
しかし、言い出す勇気はなかった。こうして揚羽の家で向かい合って勉強をしているというのに。
モモが昼寝から目覚めてとことこと歩き出す。水を飲みに行くようだ。
今はモモに会い、そして勉強するという名目がある。
しかし、白銀祭りに誘えば、遊びに行くこと自体が目的になる。
今の関係が壊れてしまわないだろうか。透流はそれを恐れていた。
揚羽の家で勉強をして、モモの様子を見ていると、時間はあっという間に過ぎる。
帰り道はすっかり暗くなっていた。透流を見送るために、揚羽も外に出てくる。
「オリ、オン、座、で、すね」
彼女が見上げる先には、冬の代表的な星座が輝いている。
「よ、だか、の、星が、実際、にどの、星なの、か、宮、澤賢治、は特に、決めて、いない、そう、です。だから、わたしは、水原、くんと、こうし、て一緒、に見て、いる、あの燐、の火のように輝、くリゲルを、よだ、かの星、だと思、うこと、にします。
わた、し、達はよだ、か同、盟、です。なり、たい自分に、な、れます、ように」
先の透流の戯言を祈りの言葉にする彼女に苦笑しながら、同じように天を仰ぐ。
自分も、揚羽も、いつかなりたい自分になれるだろうか。たとえ、その道のりが険しくとも、彼女と一緒ならば大丈夫ではないか。
透流は次こそ、きっと揚羽を祭りに誘おうと思った。
しかし、翌日。
登校して早々の透流に、普段はあまり話さないクラスメイトが話しかけてくる。
「水原って星野と付き合ってるの?」
思わず、相手を見上げる。名前は落合だったか。
「昨日、二人で帰るとこ見たんだけど。他の奴からも水原と星野が一緒にいるとこを見たって聞いたぞ。どうなんだ?」
興味津々という様子で聞いてくる。
始業前のクラスの何人かが二人の様子を注視している。
「いや、別に何もないよ」
「……そっか」
急に興味を失ったようで、それ以上は何も言わなかった。
すぐに揚羽も教室に入ってくる。落合が彼女にも聞きに行くだろうかとハラハラしたが、それもなかった。
透流と揚羽が話題になったのは、ただそれだけのことだった。
しかし、ただそれだけのことで透流は躊躇してしまう。
自分なんかと噂になったら揚羽に迷惑ではないだろうか。
それは言い訳で、ただ目立ちたくなかっただけなのかも知れない。指摘をされたことで意識してしまったのだろう。
後から、透流はこの日からの一週間を後悔することになる。
モモの顔が見られないのは残念だったが、揚羽との接触を避けるようになった。
もともと学校ではほとんど話していなかったから、放課後に彼女の家に寄ることを止めたらそれまでだ。
ちょっと用事があるからと言えば揚羽は何も言わなかった。
年度が変わり、三年に進級すればまた揚羽との交流を再開すればいい。
そう、思っていた。
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