第15話 彩日(11)

「ふぅ」

 地下鉄に乗ると、人心地つく。

「『通りすがりの正義の味方です』って一生に一度は言ってみたい台詞だったけど、まさか今日言えるなんて」

「狙ってたんだ」

「まあね」

「でも、AEDを使っているときの高木さんは本当に格好良かったよ」

「当たり前のことをしただけ」

 照れたように、茜は頬を赤くする。

「名乗れば良かったのに」

「うん、でも」

 何か引っかかることがあるのか、歯切れが悪い。

「分かってる。万が一、わたしの処置が問題になったら、その時に連絡が取れないのは困るってこと。確かに無責任かも知れない。でも、あまり名前を出したくないの。

 水原君に連絡が来たら、わたしに教えてくれるかな」

 医療に従事していない者が救命のためにやむを得ずAEDを使った場合、その結果に責任は問わないとされているとは後から透流が知ったことだ。

 ただ、透流はそういうことが言いたかったわけではなく、

「きっと助かるよ。だから、後からお礼を言いたいんじゃないかって思うんだけど」

「それも、水原君が代わりにもらっておいて」

「何もできなかったのに」

「ううん、係員の人を呼んでくれたり、救急に電話をしてくれたり。とっさに色々としてくれた。ありがとう」

「それこそ、当たり前のことをしただけだから。……それにしても、今日は大変だったね。まさか、こんな一大事が起こるなんて」

「水族館で見たこと、忘れちゃった?」

「イルカとかペンギンとか」

「イワシとかウナギとか」

「忘れてないね」

「うん、大丈夫。二人でいた時のことは、簡単には忘れないよ」

 日々の暮らしの中で、何年も経ち記憶の彼方へと消えていく想い出は山ほどある。

 当たり前だ。すべてを記憶することなどできないし、それはそれで不幸なことだ。

 それでも、忘れられないことはきっとある。

 そう言えば、二人で写真を撮っていない。一度、恥ずかしいと断られてから、なんとなく気後れしている。

 水族館でも最後はそれどころではなかった。

 茜の姿をスマホの待ち受けにする。……想像すると、かなり恥ずかしい。


 時間が押してしまったので、ウィンドウショッピングは中止にして夕食に向かう。

 予約したバルの店内は僅かな照明だけで薄暗く、大人の雰囲気がする。

 カウンターに座り、幾つか注文をする。

「パエリアが食べたかったんだ。出てくるまで時間が掛かるから、先に頼もう」

「……パエリア?」

「知らない?」

「こういう店に来る機会もなかったから」

 言い訳めいたことを口にすると、

「水原君は興味深い」と茜が笑う。

「どういう意味?」

「わたしの目の前にいる水原君は、わたしの興味をとても惹くっていう意味」

「言葉の意味は説明してもらわなくても分かるけど」

 しかし、茜は笑うだけで、それ以上は答えない。

 運ばれてきたグラスで、乾杯をする。

 茜は赤ワインを、透流はジンジャエールに口を付ける。

「また、酔わない?」

「前もそんなに酔ってなかったと思うけど」

「少し、ぼうっとしてたみたいだった」

「……そうかな。わたしが酔い潰れても、水原君は変なことしないよね」

 茜は既にアルコールが回ってきているみたいに掠れた息を吐く。

 透流は慌てて、「もちろん」と首を縦に振る。

「ところで、実はずっと気になっていたんだけど」

 テーブルの上には、先ほど運ばれてきたパエリアが載っている。

「欲しいの? 分けてあげる」

 茜は透流の分を少し多めに皿に取り、こちらに渡す。

「ありがとう。でも、そうじゃなくて」

「なに?」

「水族館で男の人が倒れたとき、僕のことを『トール』って呼ばなかった?」

 一度だけだったがはっきりと覚えている。

 あまりに唐突で、しかし、とても自然に思えた。

「えっ? わたし、水原君のことをそんな風に呼んだ?」

「うん」

 しかし、改めて聞かれると自信はなくなる。

 そうであって欲しいという願望だったのかも知れない。

「そっか。うん、気のせい、気のせいだと思う」

 否定されると反論はできない。

 現実は本を捲って戻ったり、録画番組を早戻ししたりするような訳にはいかない。

 それでも、透流は続ける。

「その、もし良かったら茜さんって呼んでも、いいかな」

 茜の顔をしかと見て、透流は告げる。

「………………」

 透流にとっては長い沈黙のあと、茜は薄い桜色の唇をきゅっと結ぶと、

「ごめん。苗字のままで良いかな」と申し訳なさそうに俯く。

「こっちこそ、ごめん。変なことを言って」

 かえって、茜との距離の取り方が分かり、ありがたく思う。

 透流と親しく接してくれるが、それはあくまでも友人としてのものなのだろう。

 他人との距離の測り方が得意でないことを、透流は改めて思い出した。

「それにしても」

 努めて、透流は明るい声を出す。

「すごい手際だったよね。さすが医学部って感心した」

「一応、それくらいはできないと。落ち着けば水原君でもできるから」

「その、落ち着くっていうのが難しいよ。普段から心構えをしてないと。どうして、高木さんは医者になろうと思ったの?」

「少しでも誰かを助けたいと思ったから」

 茜は即座に答える。

「わたしがいることで誰かの命を救えるなら、わたしはそうしたい。本当は犬や猫や動物の命も助けたいけど、でも、わたし一人でできることはどうしたって限られているから、それは他の志ある人に任せて、わたしは医師として誰かを助けたい」

 力強い口調で、茜は言い切った。

「わたしがそう思うようになったのは、ある人のお陰。その人がわたしに道を示してくれた。彼がわたしに大切な思いを教えてくれた」

 ああ――その人が彼女の大事な人なのだ。

 きっと、茜は彼のことが好きなのだろう。

 透流は悲しくなるとともに、しかし、自分が好きな茜がそれほどの情熱を持っていることを改めて知り、嬉しく思う。

「その人は今は?」

 もし付き合っているのなら、そもそも自分とこんなところで一緒にご飯を食べている場合じゃないだろうと心配になる。

 どうか、あなたには幸せになって欲しい。心の中で透流は祈る。

「…………」

 しかし、茜は言葉を詰まらせてしまう。

「その人は……今は、もう……」

 透流の顔を穴が空くほど、じっと見つめる。

 彼女の整った顔立ちが透流の正面にある。

 七年前の《彼女》と鏡映しのような茜の顔を見ていると、まるで死者が甦ったかのような錯覚を覚える。

 薄ぼんやりとした店内の灯りさえ視界からは失せて、音楽も喧噪も遠くになり、まるでこの場に二人きりであるかのようだ。

 その一瞬、透流と茜は現世と夢の狭間にいた。

「わたしの大切な人は……今も、ここにいる」

 言葉を溜めたあと、茜は自らの胸を指し示した。

 その仕草は真っ当で、透流を現実に引き戻すには充分だった。

「ごめん、酔っちゃったみたい。変なことを言ったけど、できれば忘れて欲しい」

 茜はそう言うと、グラスの残りを飲み干す。

「うん」

 お腹も膨れた。

 心も充分だ。

 そう思ったのに――。

「やっぱり、できれば忘れないで」

 ぽつりと呟き、再び茜は彷徨う。

 鏡面上で揺らめく一羽の蝶のように。あちらとこちらを行き来する。

 彼女がとても、危うく思えた。

「本当に良かったの?」

 店外に出ると、茜が心配そうに尋ねる。これまでほとんど割り勘だったが、今日は透流が全部支払いをしたからだ。

「大丈夫」

 夜の街は人の声でざわめき、様々な店の灯り、車のライトに溢れている。

 今、透流たちがいるのは確かに鳴海駅の近くにある繁華街の一角だった。

「今日は高木さんに敬意を表したいんだ。だから、そのお礼」

「何度も言うけど当たり前のことをしただけ。それを言うなら、水原君だって、あの事故の時に」

「事故? ……ああ、最初の?」

 透流たちが知り合うきっかけになったできごとだ。

 ほんの二週間ほど前のことに過ぎない。

「あんな風に猫を助けようと体が動くなんて、なかなかないよ」

「でも、あれは……」

 茜に褒められるようなことは何もしていない。むしろ真実を知れば茜は怒り、呆れ、軽蔑するだろう。今更それを言い出すこともできず、透流は口を噤むより他にない。


 家に帰り着いた時には、既に夜の一〇時を回っていた。

 一昨日に続いての遅い帰宅に、母親が、

「一度、その子を家に連れてきたら? 若い女の子をこんな時間までなんて向こうの親御さんも心配されるでしょう」

「……うん」

 彼女からは家族の話を聞いたことがない。

「あなたには責任があるの。ちゃんと家まで送っていったの?」

「駅で別れたから」

 その答えに、母親は盛大にため息を吐く。

「いいから一度連れてきなさい。分かった?」

「分かったよ」

 念を押されれば、そうとしか言えない。

 茜を家に連れて来る。

 それが意味するところを、少なくとも透流にとってそれがどういう意味を持つかを、目の前の母親も、そして相手である茜も理解してくれるだろうか。

 それほど、透流にとっては一大イベントなのだ。

 ともかく。茜にメールをする。

『今日はありがとう』

 いつもの一文から始まり、改めて水族館で起きた事件への茜の対応を賞賛する。

 茜が言った『大切な人』に関することには触れなかった。

 透流は自分の性格を理解している。

 悲観的で落ち込みやすく、うじうじしやすい。自分の考え過ぎだと言い聞かせて、極力明るい言葉でメールを飾る。

 母親に言われたことを書くのは難しい。どう書いても、それは両親に紹介したい、つまり恋人としてという意味に取られないだろうか。

『ところで、もし、もし良かったらなんだけど、うちの母親が一度、お会いしたいって言ってるんだけど、どうかな。その、僕が遅くまで連れ回しているせいで、迷惑掛けてないかって心配してるんだ。それだけのことだから、嫌だったら全然、断ってくれて構わないから』

 文末というには、あまりにも長くなってしまった。言い訳めいているようにしか見えないが仕方ない。

 返信が来るまで、いつもより長く感じた。

 しばらくして、携帯が震えて着信を知らせる。恐る恐る、画面を見る。

 今日の感想が綴られた後、

『御招待、喜んでお受けします。お母様にもよろしくお伝え下さい』

 ほっとしたような、緊張するような。

『もしよかったら、給だけど明日でもいいですか?』

 続けて、そう締めくくられていた。

 母親に聞くと大丈夫だとの答えだ。

 透流の家の近くを待ち合わせ場所にして、再度メールを送る。

 ……いきなり、明日、茜が家に来ることになった。

 今日は怒濤の一日だったが、その最後に一番大きなできごとが待ち構えていた。


 二月一七日(土)

 朝から振り返ると、随分長い一日だった。

 水族館は楽しかったけれど、アクシデントには本当に驚いた。

 助けられて良かった。連絡先を教えなかったのは、自分でも不誠実だと思うけれど、こればかりは仕方ない。

 もし、お礼を言われるようなことがあれば、彼に任せよう。

 そう。

 今日はつい、トールと呼んでしまった。

 彼の顔を見てから、ずっとそうやって呼びたかった。でも、できなかった。

 本当にとっさのことで、自然と口に出てしまったのだろう。

 やっと、言えた。

 だけど、言わなかったことにした。

 そのせいか、ご飯の時はちょっと酔ってしまったようだ。

 つい、弱音を吐いた気がする。

 お酒を飲むと心が弱くなる。もう、彼の前では飲まない方が良さそうだ。

 彼にも、変に思われたかも。


 でも、まさか彼の家に誘われるなんて。

 ちょっと、びっくり。

 どうやって、切りだそうって思っていたから。

 ほんと、今日はジェットコースターみたいな一日だった。

 明日は、どんな一日になるだろう。

 一緒にわたしたちが出会った学校へも行きたいと思う。


 銀色の 向こう側へと 置いてきた 呼んでもらえぬ わたしの名前

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