第14話 彩日(10)

 今日は初めて、隣県の鳴海市で遊ぶ予定だ。メインは港に面した水族館。

 朝も、いつもより早めに家を出る。

「透流、最近よく出かけるけど、もしかして、デート?」

 その出掛けに母親から、初めてそんなことを聞かれる。

「デート……じゃ、ないけど」

「女の子なの」

「それは、まあ」

 母親相手にこんな話をするのが、これほど気恥ずかしいとは思わなかった。

「遅れちゃうから」

 本当は、まだ充分に余裕はあるのだが。

「今度、紹介しなさいよ」

 その声に生返事をして、待ち合わせの駅に向かう。


 鳴海港水族館は、この地域では屈指の人気のデートスポットだ。

 宗宮駅から電車を乗り継いで、およそ一時間。それだけの距離を二人きりで移動するのも初めてのことだ。

「ずっと、天気が良いね」

 二月に入ってから、晴天が続いている。

 雪が降ったのは明け方に一度だけで、それもすぐに解けてしまった。

「まだ、油断はできないけど」

 三月を迎えるまでは大雪があってもおかしくない。

 雪国の人に言わせれば大雪のうちに入らないだろうけど、それでもこちらでは都市機能が麻痺しかねないほどの積雪と言っても良い。

「また、その服なんだ」

 最初に茜が選び、買ったワインレッドのセーターを着てきたのは二回目だ。

「嬉しくて、つい」

「選んだ甲斐があったかな」

 軽やかに、茜が微笑む。

 土曜日とあって人出も多い。

 電車も混んでいて、座ることはできなかった。二人で立って、人に押され、離れてしまう。互いが居場所を確認し、視線が合うとどちらからともなく照れたように笑う。

 そんな二十分余りを過ごして、宗宮駅から鳴海駅までを過ごす。

 さらに数十分地下鉄に乗って、水族館に到着する。

 駅を降りる人の数は多く、透流たちの様に若い男女、また家族連れの姿も目立つ。

 子供がはしゃぐ様子を見ていると妹の姿を重ねて、つい頬が緩む。

「水原君はどうして先生になろうと思ったの」

 透流の横顔を見たのだろう。茜の問いを噛みしめるように、透流は答える。

「約束っていうと大げさだけど、中学生の時に先生になろうかなと思ったことがあったんだ。今度ゆっくり話すよ。その、前に聞かれたこととも関係するし」

「この前?」

「うん。僕の大切な人とも関わることだから」

「ああ」と、茜は大きく頷く。

「今、ここでする話じゃなさそう」

 そう言うと「さあ、行こう」とスキップをするように走り出した。


 水族館に入ると、まず南海の珊瑚礁を模した巨大な水槽が出迎える。

「アカヒメジ、モンガラカワハギ、チンアナゴ、マダラトビエイ、スダレチョウチョウウオ」

 茜が歌うように、解説パネルにある魚の名前を読み上げる。

「チンアナゴ、かわいい」

 細長い変な魚が砂から一斉に顔を出すのを、二人で微笑みながら見守る。

 もう一つの巨大水槽ではマイワシの群れを見ることができる。トルネードと呼ばれる、その回遊は圧巻だ。

「サメが一緒に泳いでるけど、食べられないのかな」

「別に餌をもらってるんじゃない。満腹だったら他の魚は襲わないと思う」

「じゃあ、餌のイワシと、飼われているイワシの差は何だろう?」

「……うーん。運命、とか」

 自分で言って、それは違うかとも思いながら言葉を続ける。

「天が定めた行く末を運命と言うなら、イワシの場合は人の手によって選ばれるわけだから人命とか。……気まぐれ、とか」

「この前のペットショップの話に似てるよね。いい、悪いっていう話じゃないけど。同じスタート地点に立ちながら、どこでどうして違ってくるのか。疑問に思っちゃう」

 遠くを見るように、あるいは透流を見つめるように視線を動かす。

 彼女は答えを求めているわけでもなく、また答えがあるわけでもない。

 イルカのショーを楽しみ、ペンギンの餌やりに心温まり、ゴマフアザラシやウミガメの泳ぐ姿に癒やされる。

 小さな水槽に飼われているエビや貝といった小さな生き物たち。彼らにも、一つ一つに名前があり、その見た目はそれぞれ違う。

 そして、日本の川に住む絶滅が危惧される、タナゴやイトヨといった小さな魚たち。

「ウナギだって絶滅しそうなんだよね」

 その水槽にはビニール管の中に身を潜めるニホンウナギがいる。

「あんなにおいしいのに」

「おいしいからこそ絶滅しそうなんだろうね。どうして、おいしい魚とおいしくない魚があるんだろう。

 そうか。……つまるところ、多分わたしは『生きていることと、死んでしまうことの差はどこにあるんだろう』って思っているのか。ペットショップで売られる命、人の選択で餌になる命、飼われる命、わたしたち自身だって、ほんの些細な差で生き延びたり、死んでしまったり」

 自分も彼女がいなければ、今頃はこうしていないかも知れない。


「そろそろ、お腹空いたね」

 時計を確認すると、もう昼の一時を回っていた。

 館内のレストランはまだ混んでいたが、なんとか二つ席を確保して空腹を満たす。

 茜がテナガエビのクリームパスタをフォークで絡め取る。

「ところで、これからどうしようか」

 展示は一通り見て回った。ゆっくりとしていたつもりだったが、まだ時間はある。

「動物園……は、さすがに無理か」

 鳴海市内には大きな動物園もある。透流は子供の頃に行ったきりだ。コアラが有名で休日はきっと賑わっているだろう。

 水族館からだと地下鉄の乗り換えもあり、今からだと慌ただしい。

「鳴海駅まで戻ってお店でも見ない?」

 駅の傍には大きなデパートがいくつもある。宗宮のショッピングモールよりはずっと見応えもあるだろう。

「いいよ。夕飯は近くのスペインバルを予約してあるから」

 これも茜からのリクエストだ。

 透流はと言えば『バル』という言葉を初めて知り、『Bar』つまりは酒場、居酒屋という意味だと教えてもらう始末だった。

 遅めの昼食が終わりかけた頃、レストランの片隅で女性の悲鳴が上がる。

「あなた!」

 女性の連れの初老の男性が突然、その場に倒れたようだ。

「行かなきゃ」

 飲みかけのアイス珈琲をその場に置いて茜が駆け寄り、透流も後を追う。

 彼女は倒れている男性に顔を寄せて、すぐに呼吸と心拍を確認する。

「トール、AEDを借りてきて」

「う、うん」

 透流にも、AED(自動体外式除細動器)が心臓に電気ショックを与える医療器具だという知識はある。

 異変を知って駆けつけた店員に、そのことを告げるとすぐに持ってきてくれる。

 しかし、まだ若い店員は気が動転してしまっているようで、それ以上のことはできないでいる。他にも遠巻きに見ている人たちはいるが、やはりオロオロしている。

 自分にできることはないか。透流は、すぐにスマホで一一九番に電話する。

「救急車を呼んで下さい」と茜が大きく声を上げる。

「さっき電話したよ」と同じく叫んだ透流の言葉に彼女は頷く。

「わたしは医学部の学生です。使い方は分かります」

 周囲に向かって宣言し、AEDの蓋を開ける。

 その後の茜は凜々しかった。もともと中性的な面立ちをしているが、熱心に救命を試みようとする横顔には頼もしさを感じた。

 AEDは自動音声でその都度使用方法を指示してくれるが、それに頼ることなく手際よく作業を進める。

 同時に隣にいる蒼白な顔の女性に向かって「大丈夫です」「助かりますから」と声を掛けることも忘れない。

 その場にいる誰もが、茜の一挙手一投足に釘付けになっていた。

 中でも透流が一番彼女に見蕩れていた。

 じきに救急隊が到着して、館外に男性を運び出す。

 適切な対応で彼は一命を取り留めそうだ。救急隊員も彼女の対応に感心していた。

 夫婦だろう連れの女性は茜に頻りに礼を言い、ぜひ名前と連絡先を教えて欲しいと何度も言ったが、

「通りすがりの正義の味方です」と茜は繰り返す。

「水原君、代わりに教えてあげて」

「高木さんのを?」

「違うよ。水原君のを」

 それでいいのかと思うものの、万が一のことを考えると連絡先を告げずに立ち去るわけにもいかないだろう。仕方なく自分の名前と連絡先を伝える。

 最後まで何度も頭を下げてから、女性は夫に付き添い、その場を立ち去った。

 同じように、救急隊員や水族館の関係者にも透流は自分の名前を教える。

 それでも、茜にまだ何か聞こうとする者もいたが、

「わたしたち、デートの途中なので。これで失礼します」

 透流の手を取り、歩き始める。すべきことはして、伝えることは伝えただろう。

「失礼します」

 透流は一礼すると、存外に力強い茜の足取りに身を委ねて立ち去る。

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