第11話 彩日(7)
夕食を一緒に食べるので、アルバイトが入っていない今日、一五日を選んだ。
約束をした時点では、少なくとも透流は特に気にしていなかった。
しかし、昨日になって不意に思い出した。一四日はバレンタインデーだった。
バレンタイン。
それは思春期、中高生の男性陣にとって、そわそわする一日となる。
クラスメイトの女子が、こっそりとチョコレートをくれるのではないか。
放課後まで、いや、家に帰ってからも、そんな期待に密かに胸を膨らませ、そして、敢えなく翌日を迎えるのだ。
透流には縁のないイベントだったが、当時期待していなかったと言えば嘘になる。
そんな胸の高鳴る経験もしばらく忘れていたが、今朝、意識してしまったら、どうしようもなくなってしまった。
昨日も茜にはメールを送っている。バレンタインのことには何も触れず、そしてもちろん茜からも何も言われていない。
茜はチョコレートを用意してくれるのだろうか。
いや、まだ透流から告白もしていない。茜の気持ちも分からない。
そんな状態で、チョコレートなどくれるはずもない。
ましてや、もうバレンタインから一日過ぎているのだから。
期待してはいけない。自分にそう言い聞かせる。
窓の外に見える屋根、そして山の木々には雪がうっすらと積もっていた。
早朝に雪が降ったようだ。
透流の部屋の窓からは市を代表する金宝山がよく見える。標高約三三〇メートル、東京タワーとほぼ同じ高さ。その頂きに建つ宗宮城と合わせて宗宮市のシンボルだ。
冬の朝、まだ早いうちに白粉をまぶしたように化粧した山を見上げると、どこか清らかな気持ちになる。
この景色を、茜も見ているだろうか。
彼女がどこに住んでいるか、いまだに透流は知らないままでいる。
約束の時間に間に合うように家を出たが、駅まで向かうバスが道中の渋滞のせいで一〇分ほど遅れてしまった。
途中でメールをしたが、それでも早く着かないかとバスの中でイライラしていた。
「ごめん」
茜が先に待っている。三回目のデートで初めてのことだ。
「渋滞は仕方ないよ。いつもは水原君の方が早いんだし。だから、たまには待つのも悪くはない。早く来ないかなと思いながら待つのは楽しいし。わたしこそ、いつも水原君を待たせているんだから、ごめんね」
「それこそ、好きで早く来てるだけから。高木さんはいつも約束より先に来てるんだし、全然大丈夫。僕も、待つのは楽しい。でも、今日は僕が遅れちゃって」
茜は透流の言葉を遮るように首を振ると、
「水原君は車に乗らないの?」
「免許は持ってるけど、自分の車は持ってない、親のをたまに借りるくらいかな。正直、運転にはあまり自信がないんだ。特にこんな雪の降ったあとは」
道路はとっくに除雪されている。それどころか、朝から続く柔らかな日差しで、もう植え込みなどに積もったわずかな雪も姿はほとんど消えている。
話をしている最中も、透流は茜の手荷物が気になる。
いつもの鞄とは別に、手提げの紙袋をひとつ持っている。もしかして、あの中にチョコレートが入っているのではないか。
気にしないようにしよう、と思いつつも視線がそちらに行ってしまう。
それを知ってか知らずか、茜は自然な様子でその紙袋を手にしている。
昼ご飯を終え、映画館に足を運ぶ。以前にも行ったショッピングモールの中に入っているシネコンだ。
何を観るかは迷ったが、無難に話題の「全米」が泣いた映画を選んだ。
全米が泣いたかどうかはともかく、透流には満足できる内容だった。茜も面白かったと言ってくれて、ほっとした。
それから、予約をしておいた『椿』に向かう。
『白銀神社前』でバスを降りて、すっかり暗くなった大通りを並んで歩く。
左に曲がりそのまま歩けば神社という角に差し掛かると、茜が立ち止まり、
「もうすぐ、お祭りか」と、深く息を吐いた。
夕闇の奥へと続く道は、ひっそりとしていて人気はない。
たくさんの幟が左右に並び、吹く風に揺れて祭りが近いことを知らせている。
準備は進んでいるはずだが、二人の立つ位置からはそれ以上の様子は分からない。
「水原君は、前回のお祭りはどうしたの?」
その闇の彼方を見つめたまま茜が尋ねる。
「七年前? ……お祭りには行ってないよ」
「…………………………そう、なんだ」
透流の答えに茜は黙り込み、立ち止まったまま動かない。
できるだけさり気なく答えたつもりだった透流は、その反応に驚いてしまう。
「……高木さん?」
透流が掛けた声に慌てたように顔を上げると、
「どうして?」
「どうしてって……一緒に行く人もいなかったし。友達の多い方じゃなかったから」
行きたい人はいた。だが、誘わなかった。約束もなかった。そして、それきりだ。
「前は誰とも行かなかったんだ。本当に? 誰かに誘われなかった?」
「………どうして、そんなことを?」
「ごめん。行こうか」
透流の疑念に答えず、しばしの沈黙の後、茜が気を取り直したように顔を上げる。
祭りに行かなかったことは嘘ではない。七年前の銀月の夜にあったことは、誰にも話したことはない。当然、茜が知るはずもないのだが、彼女の瞳は透流の心の奥を見透かそうとするかのように、黒く輝いていた。
和食と言っても、料亭ではなく、和風の造りの店舗は入り口こそ狭いが、内部は柔らかな橙色の灯りに照らされて広々としている。
「予約した、水原ですが」
そう名乗ることが、新鮮でもあり誇らしくもある。
年配の客も目立ち、透流が行ったことのある店よりも大人向けの店だった。
しばらくは、薄味の茄子のおひたしや甘鯛の焼き物などに箸をつけながら、
「おいしい」
「お出汁が薄いのに、とても味がしっかりしてる」
料理の感想などを言い合った。
「高木さんは、料理はするの?」
「なるほど、水原君は女性は料理をすべきという考え方?」
「そう言われると言葉に詰まるし、女性なら誰しも料理をしなきゃいけないとは言わないけれど、僕は高木さんの料理が食べてみたいかな」
「……そう来るか」
「そうとしか、行きようがないでしょう」
「じゃあ、わたしも水原君の料理が食べたい」
「……うっ」
「できない?」
「さっぱり。これっぽっちも、毛の先ほどもできません」
「それも、同じか」
「同じ?」
「ああ、うん、わたしと」
「じゃあ、料理はできない同士だ」
茜は甘口の日本酒を頼み、少しずつ口を付けていた。
それほど強くはないようで、グラスが半分になる頃にはもともと色白の顔はほのかに上気し、紅を差したように頬が赤くなる。
彼女の名前、茜にふさわしい色合いだと思う。
年齢より幼く見える茜が途端に大人びて艶っぽくなり、その横顔を直視できない。
アルコールの苦手な透流はジンジャーエールを飲んでいる。普段口にするものよりも辛口で、これもまた大人の味だ。
これまでに見た映画の話になる。
「ジブリだと、何が好き?」
「僕は『ラピュタ』かな」
迷うことなく、即答する。
「うんうん。少年少女の正当な冒険譚って感じで、わたしも好き」
「だよね」
自分と同じ感想で嬉しくなる。
「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール。我を助けよ、光よ甦れ。今でも暗誦できる。ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ。僕にも秘密の名前がないかなって思ったなあ」
「ラピュタって、上映されたの昭和なんだよね」
スマホで検索すると、確かに一九八六年、昭和六一年とある。
「僕たちが生まれる十年前か。……全然、古くさくないのが凄い」
「わたしは『風立ちぬ』かな」
「……ちょっと珍しいね」
透流も好きな映画だが、真っ先に挙げるかと聞かれると首を傾げる。
数年前に公開された比較的新しい作品だ。
「内容はもちろんだけど、誰と見に行ったか、その時の状況、そういうのも含めると、『風立ちぬ』が一番好きなジブリかな」
誰と行ったのだろう。想い出に残るほど大切な人なのか。
そんなことが気になってしまう。
料理が一段落すると、
「水原君は、どんな子供だった?」
少し掠れた声で、茜はそう聞いてきた。
「どんなって言われても……」
小学校の時のことは、今となってははっきりと覚えていない。
一般的な男子だったと思う。運動は苦手で、クラスでは大人しい方だった。
昆虫が好きで近所の田んぼでイナゴやザリガニを捕まえた。図鑑を見て、広告の裏に真似て絵を描いた。
漫画が好きで古書店に立ち読みに行くと、丸一日居続けて母親に怒られた。
友達はそんなに多くなかったけど、親しい子は何人かいて、苦手なりに体を動かして、公園や校庭で日暮れまで遊んだ。
「白銀祭りには行った?」
「小学生の時? 両親と一緒に行ったはず。屋台が並んでいて、りんご飴を買ってもらった覚えがある。でも、大きすぎて食べきれなくて今から思うとなんか申し訳なかったなあ。風船もあったっけ。その日は浮かんでいるから楽しいけど、次の朝にはしぼんで、もう二度と戻らない。あの歳にして無常を学んだ気がした。まあ、昼前にはもう忘れてるんだけど。ってバカみたいだ。でも、七歳だからそんなもんだよね」
「中学生の水原君はどんな風だった?」
正直、他の人にはあまり話したくはない。
向いに座る茜はほんのりと紅の差した目で、じっと透流を見ている。
でも、彼女になら、あの頃のことを話しても良いと思った。
むしろ、聞いて欲しいとさえ思う。
「二年生の時、クラスに馴染めなかった」
透流の通う中学には自分が卒業した小学校以外の二つの学校からも、生徒が来ていた。当然、知らない生徒が大勢いる。
それでも、多くの生徒は学校生活の中で気の合う友人を見つけるものだが、透流はそれが上手くできないでいた。
目と目を合わせれば友達みたいなノリだった小学生の時と違って、人間関係が複雑になる中学生の中で透流は出遅れた。
さらに、二年生の時に風邪をこじらせて肺炎になり、二週間ほど入院した。
折悪しく、期末テストの直前で、テスト範囲の勉強がほとんどできなかった。ノートを病院まで持ってきてくれるような友達もなかった。
それでも、透流はテストで学年上位の成績を取った。
「こんなこと言うと偉そうだけど、中学校の勉強は授業聞いてれば、だいたい理解できたから。……もう、今はただの大学生だけど」
授業に出ていないのに成績が良い。
そのせいで、余計にクラスから浮くことになってしまった。
特にいじめられた訳ではないが、一人で過ごすことが多くなった。小学校の時に親しかった友人にもそれぞれ別の友達のグループができ、そこに混じることは難しかったし、透流自身も積極的に交わりたいとは思わなかった。
「だから、中学時代はあまり楽しい想い出がないんだ」
クラスのいわゆる上位グループに属するにぎやかなメンバーとは明確に一線を画して距離を取り、その他大勢に紛れることもなく、ひとり、ぽつんとしていた。
「でも……」
その先の言葉を続けるかどうかは、さすがに迷う。
自分の奥に秘めた、デリケートでプライベートな部分だ。
茜のことを好ましく思っている自分を自覚している。できれば、彼女にも好いてもらいたいと思う。
ならば、これから話すことは不要ではないか。彼女を不快にさせるのではないか。
「誰か好きな人はいなかったの?」
口ごもった透流に、茜が潤んだまなざしで問い掛ける。
ただの好奇心ではない真摯さを感じ、その心に透流は応えようとした。
「お待たせしました。しぐれのお茶漬けでございます」
しかし、コースの最後、締めのご飯が届けられて話は中断する。
透流も茜も我に返ったように顔を見合わせ、「食べようか」と頷き合った。
塩味の利いた出汁の茶漬けは、これまでに食べたことがないほど美味だった。
「おいしかったね」
味の満足度に比べて、値段の方はそこまで高くない。
茜が「わたしはお酒も飲んだから」と、透流よりも多い金額を出そうとするのを、何とか割り勘で押し通した。
外はすっかり暗く、気温は二月の夜に相応しく底冷えするような寒さだ。
時計を見ると午後八時を少し過ぎたところだ。大通りに出ればバスは楽に拾える。
しかし、茜はすぐには動こうとしない。お酒はそれほど飲んでいないはずだが、ほろ酔いという感じでまだ頬は赤い。
その茜が火照った顔をこちらに向ける。
「もう少しだけ、話さない?」
「良いけど、おうちの方は大丈夫?」
あまり遅くなると心配されるだろう。
「大丈夫。おうちの人は、誰もいないから」
「えっ」
どういう意味だろうか。今夜はたまたま不在という意味にも、一人で暮らしているという意味にも取れる。彼女は宗宮の出身だと言っていたから、前者だろう。
「神社まで少し歩こう」
「いいよ」
彼女と一緒にいられる時間が増えるのは大歓迎だ。
冬の夜の寒さが身に染みるが、それ以上に茜とともに歩くことが心地よい。
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