第9話 彩日(5)

 冬晴れが続き、気温こそ低いが過ごしやすい一日となる予報だ。

 前回ほどではないが、三〇分前には透流は待ち合わせ場所に着いていた。茜も、やはり一五分前には姿を現わす。

 先日、茜が選んだセーターを着ていくと、

「うん、やっぱりよく似合う」と弾んだ声で喜んでくれた。

「よく、眠れた?」

 聞きながら、当の透流が欠伸をしてしまう。

「……ごめん、早めに布団に入ったんだけど、なかなか寝付けなくて」

「そういうこと、あるある。朝が早いと思って、早めに寝ても全然寝られないこと。わくわくしてるときとか、特に。……でも水原君、大丈夫? プラネタリウムは暗いよ。音楽やアナウンスが流れて体ももたれる格好になるし、きっと寝ると思う」

「絶対、寝ないから。頑張る」

 しかし、寝た。

 まず、行きのバスの中が暖かく、途中で眠気は三倍増しになった。それでも最初は我慢した。二月の夜空に見える星座の解説はちゃんと聞いていた。

 だが、その後はダメだった。

 あれは眠気を誘うようにできている。茜の言う通り、暗さ、音楽、柔らかな女性の声での解説、そして仰向けの体勢。すべてが寝不足気味の透流にとっては、心地よい子守歌だった。

 悠久の星空に誘われるよりも先に、透流は深い眠りに落ちていった。

「本当に、ごめん」

「寝息が聞こえてた」

「………………申し開きのしようもないです」

 穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。

「いびきじゃなかったから、許す」

「いびきだったら?」

「アウトかな」

 茜はにこりと笑って、

「すうすう、っていう寝息は、ちょっとかわいかった」

「きっと、何か埋め合わせをするから」

 神妙な顔をして、透流はもう一度頭を下げた。

 プラネタリウムは科学館に併設されていて、そちらも親子連れで賑わっている。

 地元・宗宮市の地学や棲息する生き物の紹介をするコーナーから、静電気や雷の実験、音の伝わり方といった小学生向けの展示、高校生レベルの宇宙や惑星に関する図表、原子や電子の説明、そして生命の誕生と人体の仕組みを解説するブースと、一階から四階まで、幅広く詳細な内容となっている。

 生命の誕生のコーナーの解説は具体的で、茜と並んでいると気恥ずかしくなる。

 もっとも、当の茜は医学生。まったく気にせず、涼しい顔をしていたけれど。

「子供の頃に来た時とは、随分と違うなあ」

 タッチパネルが多用され、映像も豊富で記憶の中にある科学館とは違っていた。

「数年前に、リニューアルされたよ」

「そうなんだ」

「高校生の時には来なかった?」

「うん。一緒に来る人もいなかったし」

「わたしはプラネタリウム好きだから、ときどき来る。鳴海の科学館のプラネタリウムも、一度行きたいかな」

「じゃあ、ぜひ、また」


 展示物をゆっくりと見て回ると、それだけでも存外疲れる。

 近くの喫茶店で一休みすると、もう夕暮れ時だ。陽が沈みかける頃には辺りも急に暗くなり、ぐんと冷えてくる。

 夕闇に染まる茜の横顔に向かって、

「その……今度は、夕飯を一緒に食べない?」

 透流は、また一歩、足を踏み出す。

「うん。楽しみにしてる」

 次は一五日の木曜日に会う約束をする。

 三日後だ。それまでに、ディナーを一緒に取る店を決めておかなくてはいけない。

「希望はある?」

「なんでも良い……って言うと、逆に困るよね」

 茜が名前を挙げたのは、白銀神社の傍にあるという和食の『椿』という店だった。

「水原君は、お酒は飲む?」

「全然。体質的に受け付けなくて、ビールをコップ一杯で顔が真っ赤になるんだ」

「やっぱり。お酒が弱そうな顔してる」

「……そんなものなんだ」

 どういう顔だろう。

「わたしは多少飲むけど、いいかな?」

「全然気にしなくていいよ。。飲んだくれて、鼻歌歌って道ばたで寝っ転がるわけじゃないよね」

「そんなこと、しません」

 少しだけ、むっとしたように頬を膨らませた。

 童顔の茜がそういう仕草をすると、とても子供っぽい。お酒を飲んだら未成年と間違われないだろうか。

 別れ際、夜の空を二人で見上げる。

「あれが、オリオン座」と透流は指をさす。

「ギリシャ神話に詠われる女たらしの狩人。三つに並ぶ星と対角にある二つの一等星ですぐに分かるね」

「オリオン座のベテルギウスは、約六四〇光年の彼方にあって、今、わたしたちが見ているのは六四〇年前の星の光です。そして、ベテルギウスは実はもう既になくなっているかも知れません。この瞬間にも超新星爆発が見られても、おかしくはありません。その時は、昼間でも明るく輝く星が見えるでしょう。……だっけ?」

 透流は解説を思い出しながら、口にする。

「最初は聞いていたんだ」

「なんとか。六四〇年なんて宇宙からしたらあっという間なんだろうけど、僕たちにとってはまるで想像がつかない時間だ。室町時代、足利義満の頃かな」

「不思議だよね。見えているのに手を伸ばしても届かない存在。見えているのに、もうここにはない存在」

 茜は透流の顔を見上げる。

「水原君は、ここにいる?」と、おかしなことを聞いた。

「うん」

 何を不安がっているのだろうか。寂しげで泣きそうな目だった。

「僕は、ここにいる」

 だから、手を差し伸べた。

 彼女の色白で小さな手を、透流は自分の両手で包み込んだ。

 水に濡れたようにしっとりと冷たくて、でも、三六・五度の体温が温かかった。

 茜は驚いたような顔を一瞬見せて、そのまま固まっていた。

「……ごめん」

 考えるよりも先に手が触れていた。

「ううん。ありがとう」

 慌てて離そうとする透流の手を、茜は弱いながらも握り返して引き留める。

 そのまま、彼女は空を見上げて「リゲル」と呟いた。

 ベテルギウスの対角にあるもう一つの一等星は、対照的に青白く輝いている。

「まるで、燐の火みたいに綺麗だね」

 彼女の手から感じる温もりが、少し強くなった気がした。

 いつかどこかで聞いた声は、一瞬、よだか同盟という言葉を不意に思い出させた。

「うん」

 頷いた透流の手を、茜はゆっくりと離す。

 そして透流からもらった温もりを、そのまま抱くように自らの手を握りしめた。


 家に帰ってから、猛烈に後悔する。

 ただでさえプラネタリウムで寝てしまい印象を悪くしたところに、承諾も得ずに手を握ってしまった。

 怒った様子ではなく、むしろ感謝の言葉を口にしたが内心は分からない。

 寝る前にメールを送る。

 謝るのも変だ。それでは、まるで悪いことをしたみたいだ。茜に失礼だろう。

 居眠りだけを謝罪し、手を握ったことには触れなかった。

 返信が怖かったが、茜からのメールにも、そのことは何も書かれていなかった。

 今日も楽しかったという言葉に、透流は胸をなで下ろす。

 茜の言っていた『椿』を検索してみる。

 比較的安い値段で、本格的な和食のコースが楽しめるらしい。知らない店だが、二人で行くのが俄然待ち遠しくなる。

 毎日が、新しい発見だ。

 女の子の手は、小さくて、冷たくて、でも、温かい。

 人生で一番の発見だった。

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