第5話 彩日
二月一〇日(土)。
透流はとてつもなく緊張していた。古い表現をするなら、心臓が口から飛び出そうという感じだ。
待ち合わせ場所は宗宮駅前のバスターミナル。待ち合わせ時間は、午前一一時。
今はその一時間前。既に透流は駅ビルの陰に立っていた。
良く晴れているが空気は冷たい。昼前でも、吐く息には白いものが混じっている。
それでも透流の体は熱かった。期待と不安と緊張が体中を駆け巡っているからだ。
茜はやってくるだろうか。顔を見たら、まずは何を話そうか。
大丈夫。ここに来るバスの中で、遅刻すまいと何度も時計を確認しながら、最初の一言を考え続けたのだから。
女の子とのデート(そう呼んでも差し支えないだろう)なんて初めてだ。先日のカフェとはレベルが違う。
何しろ、今日は夕方まで半日の時をともに過ごす予定だ。
着る服にも、迷った。
と言っても、多くの選択肢があるわけではない。タンスを覗いても、クローゼットを開いても、母親が適当に買ってくれた普段着しかない。
黒のセーター、厚手のジーパン、同じく黒のダウンジャケット。寒さをしのぐには問題ないが、女の子との外出にふさわしいかどうかは、自分では判断がつかない。
『一体、世の男性はどうやってデートの時の服を選んでいるんだろう』
周りには学業とバイト、サークル活動、一人暮らしをしながら、さらに異性との付き合いを並行して楽しむ同級生もいる。
テスト前に、図書館で透流に声を掛けてきた落合のことを思い浮かべる。
彼らは、オシャレをするという高度なことを当たり前にこなしているのか。
初めて尊敬の念を抱いた。
大学とバイト先、あとは自宅との往復の毎日を不満に思ったことはない。
家に帰れば可愛い妹がいる。友人は少ないが、一人の時間は気楽だ。
バイト先は自分と同じように、本が好きで人と話すことはいまいち苦手な人たちが揃っている。それが、とても気楽で良い。
ただ、充実感がない。ふわふわと夢の中を生きているような気がしている。
あまり女性との付き合いを考えたことはなかった。恋人がいればと思ったことがないと言えば嘘になるが、現実的ではなかった。
それは、いまだ七年前のできごとが透流の心の片隅にあることと無関係ではないだろう。
茜から電話が掛かってきた翌日。
学校が終わってから、二人は約束通り、カフェ『Cat's tail』で再会した。
透流はホット珈琲を、茜はアイスオレを頼む。先日とは冷熱が逆になった。
「砂糖、どうぞ」
茜がテーブルの上の砂糖壺をこちらに渡そうとして、
「僕、砂糖は入れないから」
透流が断ると「え、えっと」と慌てて、その拍子に中身をこぼしてしまった。
「ごめんね」
すぐに片付け始める茜を見て、家庭的だなと微笑ましく思った。ちょっとおっちょこちょいだけど。
しばらく他愛もない話をした後、透流が切り出す。
「一度行きたいところがあるんだけど。でも、なかなか一人じゃいけなくて。……良かったら、一緒に行ってくれない?」
「どこ?」
「猫カフェ……なんだけど」
茜も猫を飼っているくらいだから、きっと好きなはずだ。
思惑通り、茜は笑顔になると「ぜひ」と答えてくれた。
「詳しくは、また連絡するから」
茜の番号は前日に掛かってきた後、すぐに登録してあった。
日にちと時間だけ決めて、その日は別れた。また会える。その確信があるということは、先日の「また」とは全然違う意味を持っていた。
そして、今日のデートとなる。
市内に猫カフェは多くない。茜は駅で落ち合うのが都合が良いとのことだったから、ネットで調べて駅からバスで行ける範囲にある店を選ぶ。
ランチも一緒にとなるだろう。待ち合わせは一一時だから、少し早めに駅の近くで昼食を食べるのが良いと思い、こちらも前もって調べた。
女性に人気のお店と検索してみるとイタリ料理の店が良さそうだ。
ただ、日曜の昼は予約を受け付けていない。すぐに行けば、大丈夫だろう。
念のため、駅に着いてから真っ先に場所を確認した。もし、店に行くのに迷ってしまったら格好悪い。
開店前なので、まだ店の前は閑散としている。大丈夫、迷うことはない場所だ。
とにかく、失敗がないように。嫌われないようにと留意する。
猫カフェに行くルートも、ちゃんと確認してある。ターミナルには幾つもバス停が並んでいるが乗り場は確かめた。バスは何本もやってくる。時間は適当で大丈夫だ。
頭の中で、何度もシミュレートをしながら、透流は茜を待っていた。
北風が吹くたびにジャケットの前を合わせる。体は震えるが苦ではない。
市内最大の駅だけあって寒さにかかわらず人通りは多く、行き交う若い女性を見かけるたびに、茜かも知れないと視線を向け、違っているとまた同じことを繰り返す。
時計を見ると、約束の一五分前。茜がやってきた。
「お待たせ」
遠くから軽く手を上げて、冬の日に心が温かくなるような笑みを透流に向ける。
今日の服装は濃いめの色合いでまとめていて、ちょっと地味に思えるが、細い首に巻かれたマフラーが暖かそうで良いなと思う。
「全然、全然、待ってないよ。今、来たところ」
「定番の台詞だね。でも、唇が青いよ」
心配そうにじっと見る茜に、慌てて透流は唇を拭う。
「大丈夫、大丈夫、本当に」
朝からずっとシミュレートしていた第一声は、そんなやり取りの中で頭から吹き飛んでしまった。
「先にご飯を食べに行こう」
なんとか、それだけを早口で言うことができた。
「じゃあ、どこに……」
思案顔になる茜に、透流は「もう、考えてあるから」と自信を持って答えた。
しかし、先ほど下見した店の前には既に行列ができていた。
「ここは、いつもすごいから」
「……ごめん」
並んでも良いが、入るだけで優に一時間は掛かりそうだ。まさか開店とほぼ同時にこれほどの人が来るとは。友人同士と思われる女性や、カップルの姿が目立つ。
「今度にしよう。駅に戻れば、食べるところはたくさんあるし」
せっかく、茜のことを考えて選んだ店だったのに。初っぱなから大失態だ。
こんなに段取りの悪いことでは、嫌われるのではないか。
さっきまでうきうきしていたのに、今はもう不安でいっぱいだ。
なんだろう、この気持ちの変化は。短時間で、あまりに揺れ動く。
駅に戻って、ハンバーガーショップに入る。こちらは混んでおらず、すんなりと座ることができた。
「その……本当にごめん。僕のせいで、余計な手間をかけさせて」
「全然、気にしてないから。こんなのよくあることでしょ」
茜はさらりとしている。本当に気にも留めていないようだ。
「でも」と続けようとする透流に向かって、
「だいたい、あの店に日曜日の昼に、行こうっていう方が間違ってる。いつも混んでるけど、味は大したことはないんだよね。おしゃれな雰囲気に騙されたら、ダメだから。それに女性がいつも、そういうのを望んでいるとは思わないこと。男性には量も少なくて物足りないだろうし。あと、高い。わたしはこっちの方が、ずっと好きかな」
茜は笑うと、目の前の照り焼きハンバーガーにぱくりと一口かじりついた。
ソースが口の端に付き、それをいそいそとナプキンで拭う。
「うん、おいしい。久しぶりだから、余計にそう思うのかも。水原君、冷めるとおいしくないよ。温かいうちに食べよう。……どうかした?」
「ううん、何でもない。ありがとう」
なぜ、茜は自分に付き合ってくれるのだろう。
透流は、彼女に惹かれている。それは、否定しない。
だが、一方の茜はどうなのだろう。
自分に惹かれている? あまり想像できない。自分にそのような価値があるとは思えない。だから、確かめるなど、とんでもない。
でも、いつか、彼女に気持ちを確かめる。そんな日が来るのかも知れない。
透流は二つ目のハンバーガーを、茜はデザートのティラミスを食べ終わる。
今回は前払いなので、会計はそれぞれで済ませている。こういう時は、男性が奢るべきものなのだろうか。
最初は助けてもらったお礼で透流が負担したが、二回目のカフェ、そして今日は自然と銘々の支払いとなった。
「おいしかったね」
「うん、ハンバーガーがこんなにおいしいなんて、初めてだ」
「二人で食べるからかな」
「えっ」
「話をしながら食べると、おいしいよね」
そういう意味か。特に透流と一緒だからという意味ではないだろう。
「天気もいいし」
「うん、朝の天気予報は寒くなるようなことを言ってたけど、結構暖かいよね」
それは、二人で並んでいるからだろうか。
「やっぱり、人は多いし」
「うん、日曜日だからかな」
道行く人の多くは、連れだって歩いている。皆、楽しそうだ。
きっと自分たち二人もそう見えるのだろう。
バスを待っている間、隣に並ぶ茜の言葉に相づちを打つだけでも、楽しかった。
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