第4話 青空(3)
七年前。
「危ない!」
それは、一月の終わり。あと一ヶ月あまりで白銀祭りの日を迎える頃で、クラスはじきに三年生に上がり受験も始まる前の数少ない遊べる機会という高揚感があった。
しかし、透流はそんなクラスの雰囲気とは距離を置いていた。
学校の帰り道、狭い道路に一匹の猫が倒れていた。小さくて真っ黒な猫だ。
車に轢かれたのだろうか。
近寄ろうとした透流は、遠くにさらに続く車の姿を見つけて躊躇する。
間に合わなければ、自分が怪我をしてしまう。
どうしようかと迷う間に、一人の女生徒が自分より先に飛び出していた。
もはや、自分はせめて大声で叫び、後は息を呑んで成り行きを見守るしかなかった。
幸い、車は急ブレーキを掛けて、女生徒の寸前で止まる。
彼女は猫を拾い上げて、そのまま転がるようにして道の向こう側まで体を寄せる。
車はクラクションを大きく一つ鳴らして、走り去っていった。
「星野さん?」
道路を挟んで相対するのは、透流のクラスメイトだった。しかし、これまで話した記憶はほとんどない。
だが、彼女――星野揚羽は目立つ存在だ。
中性的で目を惹く美貌と、癖のある話し方のせいで。
無視するわけにもいかない。彼女に、というよりも彼女が抱える子猫に駆け寄る。
「大丈夫だった?」
「…………は、は、い」
肩で大きく息をしている。本当はかなり怖かったのだろう。
近くで見ると、真冬の凜とした寒さにも似た肌の白さに目を奪われそうになる。
彼女の腕に抱えられた黒猫を恐る恐る覗き込むと、ぴくりと動いた。
「まだ、息が、あり、ます」
揚羽が透流を見る。彼女の背は低く、見上げた瞳は縋るようだった。
「とにかく、医者に診せよう」
近くに動物病院がある。
揚羽に代わり、透流が猫を抱く。小さくて弱々しいが温かく確かに生きている。
右瞼の上から血が出ているが量はそれほど多くなく、既に固まり始めていた。
車に軽く接触して、脳しんとうのような症状を起こしているらしい。
動物病院の受付で怪我をした猫を拾ったと告げると、最優先で診察してくれた。
結果、出血こそしているが大きな怪我はなく、脳にも異常はなさそうだとのこと。
ほっとして、顔を見合わせる。
「水原、くん、あ、りが、とう」
小さな声で、つっかえながら揚羽が礼を言う。
「助かって良かったよ。猫も、星野さんも」
そう言いながら、透流は内心で困っていた。
猫が無事だったなら、もう自分は用がない。ほとんど話したことのないクラスメイトの女子と一緒だと、戸惑いが先立つ。
それでも、放っておく訳にもいかないだろうという義務感で残っている。
診察が終わる。保護した時の事情を話すと今回はタダでよいと言ってくれた。
病院を出て、顔を見合わす。揚羽が困った顔で、
「猫を、ど、うしたら、いいと、思います、か」
「どうしたらって言われても」
猫は首輪を付けていない。このまま放せば、野良猫に戻るだろう。
それではダメだろうか。……後味がよくないと自分でも分かる。
「星野さんの家では飼えないの?」
「母に、聞い、てみ、ない、と。水原、くんの、家は、どう、ですか」
「……僕も、聞いてみないと。でも、今はダメだと思う」
透流も猫は嫌いではない。かわいいと思う気持ちはある。
しかし、今はそれより、この場をどうしたら切り抜けられるかという思いが強い。
あまり、他人と関わりたくないのだ。
「手を、なめま、した。舌がざ、らざら、くす、ぐった、くて、変、な感じ、です」
揚羽が花咲くような笑みを浮かべる。猫がぺろぺろと、揚羽の右手を舐めていた。
「お腹、が、空い、て、いるの、で、しょう、か。……困り、ました」
おろおろする彼女を見て、透流は腹を括る。猫を路頭に迷わす訳にもいかない。
「ひとまず落ち着こう。星野さんの家に行ってもいい?」
「はい」
乗りかかった船だと決めてしまえば、気持ちはだいぶ楽になった。
揚羽の家に行き、段ボール箱に要らない毛布を敷いて猫を入れる。
彼女の母親は、男子生徒と一緒に帰ってきた娘を見てびっくりしていたが、事情を知ると、あれこれと世話を焼いてくれた。揚羽が知らなかっただけで、猫が好きらしい。
あれよあれよと言う間に星野家で飼われることになった。
「あ、りが、とう、ござい、まし、た」
「僕は何もしてないけど」
勇気を出して猫を助けたのも、病院に連れて行ったのも、最終的に飼うことにしたのも全て揚羽で、透流は傍観していただけだった。
「でも、水原、くんが、一緒で、心強、かった、です」
俯いてはにかむ揚羽の姿に、透流は心惹かれた。
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