第3話 青空(2)

 店の外に出ると夕風が肌を撫でて、一気に寒さが襲ってくる。

 バス停はすぐ傍にあり、大学の近くだから市内の様々な方面に路線が延びている。

 彼女が口にした路線名は、透流が乗るものとは違っていた。

 ライトを点けて並ぶ車列の後ろから、彼女の目的地行きのバスが近づく。

「今日は、本当に……危なかった。死んじゃうかも知れなかったんだよ。

 水原君は優しいから猫を助けようと後先考えてなかったんだろうけど、あなたが死んだら悲しむ人がたくさんいるんだよ。もう、絶対に飛び出したらダメだからね」

 茜は透流を見つめる。今にもすすり泣きしそうな声だ。

 それは少し違うと言えば、きっと茜は余計に悲しむだろう。

「うん。気を付けるよ」

 優しい彼女に甘えて、透流は素直に頷いた。

「それじゃあ」

 別れが近い。

 今日はありがとう。さようなら、もし学校で会ったら、またよろしく。

 続けるべき言葉は、そんなところだろうか。

 今度、食事でも。行けたら行くよ。また、どこかで。

 そんな社交辞令と何が違うだろう。

 一度別れて、そして、もう二度と会わない人たち。自分がこれまですれ違ってきた多くの人たちに彼女も埋もれて、それでおしまい。

 そんなのは――嫌だ。これは運命だ。

 彼女のことは何も知らないに等しい。ただ、透流の想い出の中にある《彼女》の面影を色濃く宿している。それだけで理由は充分だ。

 この楽しかった数時間は嘘じゃない。叶うなら、もっと長く味わいたい。

 でも……断られてしまったら。ずうずうしい人だと思われたら――怖い。

 先ほどまで親しく話していたつもりでも、彼女の本心は分からない。

 たった一声が掛けられそうで、掛けられない。

 逡巡する間にバスは近づいてくる。別れの時が迫る。

 目の前で一台の車が強引に隣の車線に割り込み、大きなクラクションが鳴る。

 危ないなと思い、そして気づく。

 茜が言う通りだ。

 世界は死に満ちている。

 今日、茜に助けられなかったら、自分は命を落としていたかも知れない。

 思い出す。ある日突然、この世界からいなくなってしまった一人の少女のことを。


 バスが停まり、扉が開く。何人かがステップに近づく。

 茜もそれに続こうとして、縋るように透流の方を振り返る。

「……高木さん。その、連絡先を教えてくれないかな」

 ただ、それだけの言葉が彼にとっては精一杯の勇気だった。

 彼女が口を開くまでの数秒、夜の町の喧噪、行き交う人や車のざわめきも聞こえないような気がした。

「今、携帯が故障していて……。だから、水原君のを教えて」

 泣き笑いのような顔をしながら発せられた言葉を、どう捉えれば良いのだろう。

 考える間もなく、列に並ぶ茜の番が来る。

 透流はスマホを操作する。自分の番号を表示するにはどうすれば良かったか。滅多に使わないので、焦るとますますうろたえてしまう。

 それでもなんとか番号を出すと、画面を彼女に向ける。

 茜はそれを一瞥すると、大丈夫とばかりに大きく頷く。

 その短い間に透流は不安になる。番号を覚えてくれただろうか。

「それじゃあ、また」

 茜を見送る。彼女はステップに足を乗せて、最後にまた振り返る。

「うん。きっと、……きっと、また」

 想い出の少女――星野揚羽が生きていればこういう女性になっただろうと思わせる彼女、高木茜はステップに足を掛ける。

 檸檬色のコートが風にはためく。

 揚羽蝶が夜の闇に飛んで溶けて消えるように、彼女はバスの中へと吸い込まれる。

 バスが去っても、まだしばらくの間、透流はその行く先を見つめていた。



 翌日は目も眩むような冬晴れだった。

 透流が登校しようとすると、妹の晴陽が行かないで欲しいとぐずる。

 後ろ髪を引かれる思いだが、今日は早めに行って、やりたいことがあった。

 キャンパスで、茜を捜す。

 宗宮大学は広く、学生数は多い。透流が属する教育学部の三年生だけでも、二百名を超え、全学では七千名以上になる。

 今は定期試験の直前で、学校に来る学生も多い。その中で茜の姿を見つけることがどれだけ難しいか、想像することは容易い。

 それでも、衝動を抑えつけることはできなかった。

 喉が渇けば水を欲するように、透流は胸の奥で自然と茜の姿を求めていた。

 彼女と再会できれば、自分の中の何かが変わる。

 それは予感でもあり、期待でもあり、また願望でもあった。

 授業の合間、昼時、その後も、校舎で、教室で、講堂で、学食で、部室棟で、図書館で、彼女がいないか捜して歩いた。すべては徒労に終わった。

 図書館で本棚の間を縫うように彼女の姿を捜していると、同級生に会った。

「お、水原。試験勉強、進んでる?」

 彼、落合に話しかけられると、心臓がきゅっと縮む思いがする。

「なんとか」

 平静を装い、透流は答える。

「あの授業、いっつも眠くて、まともに聞いてないんだよ。水原、ノートある?」

「……ごめん、僕も似たようなものだから」

「そっか。まあ、別のやつに借りるか」 

 髪を明るく染めて、清潔感に溢れる落合のことはどうしても苦手だ。他愛ないやり取りでごまかして、別れる。


 土日を挟み、月曜日から試験が始まった。さすがに試験の最中は無理矢理、茜のことを頭から追い出したが、丸一日試験を受ける訳ではない。

 受講している科目によっては、数時間ぽっかりと空くこともある。

 月曜日、そして翌火曜日と、その空き時間を利用して、茜の姿を捜した。

『Cat's tail』も覗いた。その店には何度か来ているようなことを言っていたから、期待したのだが、成果はなかった。

 一人でコーヒーを何杯も飲むことになった。一人で食べるケーキはいまいち、おいしくなかった。

 本当に彼女はいたのだろうか。

 夕暮れと夜の狭間に消える蝶のように、幻だったのか。

 しかし、確かに財布の中からは払った分の喫茶代が減っている。二人で食べたチョコレートケーキの味も、マカロンの味もはっきりと思い出せる。

 何より彼女の顔、表情、声、仕草を透流は覚えている。

《彼女》を想起させる顔、表情、声、仕草を透流は忘れられない。

 星野揚羽のことが記憶の片隅から追いやられたことはないのだから。

 結局、電話もない。あの一瞬で番号を覚えられたはずはないのだ。

 別れ際の言葉は、やはり社交辞令だったのだろう。

 それとも……あの日、何か彼女の機嫌を損ねるようなことをしただろうか。

 ほっとした、とダジャレを指摘したのがいけなかったのか。

 家族のことや、住んでいる所を聞こうとしたのがいけなかったのか。

 彼女は終始、話を続けてくれたが、それは誰に対してもそうできるという彼女の才能に過ぎないのかも知れない。

 いや、ときどきぼんやりしていた。それは自分との会話に退屈しているという無意識の表れだったのかも知れない。

 そもそも、あれほど可愛らしい女性であれば、既に恋人がいてもおかしくない。

 先日は透流の礼を受け入れたというだけで、それ以上の付き合いを恋人がいる女性が望むわけもない。

 その考えが透流を苦しめ、見たこともない、存在すら定かではない相手にもやもやした気持ちを抱いてしまう。

 それが嫉妬心だと認めたくなくて、そのもやもやを無理矢理抑え込む。

 あの日、あの時の会話を一つ一つ思い出しては、そのいずれもが、彼女の気に障ったかも知れないと思うと、五日前に戻ってやり直したい気分だった。


 試験期間は、アルバイトも入っていない。あと三日続くテストに立ち向かうべく、何とか自室で講義内容を控えたノートに集中しようとしていた。

 電熱ストーブを足下に置き、膝に毛布を掛けて暖を取る。

 そろそろ日付が変わろうとしている頃だった。さすがに真冬の深夜は冷え込む。

 下半身を温かくしていても体の芯までは温まらない。

 しかし、なかなかペースは上がらず、集中できないまま時間だけが過ぎる。

 明日に響くから、もう寝ようか。

 その時、携帯の着信音が沈黙を破るように響いた。

 登録されていない携帯の番号だ。直感で、茜だと思った。

「もしもし」

 調子の外れた上ずった声で、電話に出る。

「水原、君?」

 聞こえてきたのは、相手も緊張していると丸わかりの硬い声だった。だが、間違いなくあの日に聞いた茜のものだ。

「はい、水原です」

 なんとか落ち着いて答えられたと思う。

「よかった!」

 彼女の声が柔らかなものに変わり、

「こんな時間にごめん。この時間なら家にいるって思ったから。やっと携帯を夕方に手に入れて。本当にごめんね」

「いや、全然、大丈夫。……連絡、ありがとう」

「迷惑じゃなかった?」

「とんでもない。とんでもない。とても、とても、嬉しいよ」

 本音が漏れている。声が弾んでいるのが、自分でも分かる。こんなに嬉しそうにしている自分の顔が電話口を飛び越えて、彼女にまで見えてしまうのではないか。

「もう会えないかもと思っていたから」

 そんなことまで言ってしまう自分に驚く。

「……あの、高木さん。また、会ってくれるかな」

 夜遅くにわざわざ電話してきてくれたのだ。彼女だって自分に悪印象はないはずだ。きっと大丈夫だ。

「もちろん。水原君の声を聞けて良かった。寒い夜が温かくなるよ」

 透流の自信は間違っていなかった。それ以上の言葉を茜は掛けてくれた。

 明日の夕方、前と同じ店で再会する約束を交わす。

「試験、あと少し頑張ろう」

 透流の言葉に「うん、頑張って」と励ましてくれる。 

 電話を終える。先ほどまでと変わらぬ、底冷えするような自室の気温が幾度か上がったような気がした。


 二月一日(木)

 わたしは彼を助けることができた。

 できたんだ。

 ……良かった。本当に良かった。

 今でも、信じられない。

 彼の顔が見られる。

 彼と話ができる。

 そんな当たり前のことが、ただただ嬉しい。

 とても、とても長い一ヶ月だった。

 神様はわたしに奇跡を与えてくれた。

 彼から見て、わたしはどんな風に見えただろう。

 変な人、と思われたんじゃないか。

 変なことを話してないか。

 とても、緊張した。

 どうやって話せばいいか分からなくて、変なことばっかり言った気がする。

 嫌われてたら、どうしよう。

 高木茜。

 とっさのこととは言え、どうしてそんな名前を名乗ったんだろう。

 今更、実は違いますとは言えない。もうこの名前で通すしかない。

 わたしの名前は《高木 茜》。ちゃんと、覚えないと。

 わたしと彼は、初対面。

 分かっているからこそ、どうやって話したら良いか分からない。

 なるようになるしかない。

 つい、癖が出てしまう。気を付けないと不審に思われてしまう。

 彼は優しいから、きっと大丈夫だと思うけど。

 ……わたし、食べ過ぎたかな。

 お店、久しぶりだからって、ちょっと頼み過ぎたかも。

 ケーキ追加までしちゃうし。

 しかも、彼にお金全部出させて……きっと呆れたよね。

 もし、嫌われていたらどうしよう。

 連絡先も聞いてきたんだから、そんなはずはない……って、信じたい。

 この先に何が起こるかは分からない。何が待っているかは、誰も知らない。

 でも、わたしは信じている。

 わたしと彼なら、きっとどんな困難も乗り越えることができるはず。


 恋しくて あなたに会うため たどり着く 時を超えても 空を超えても


 二月六日(火)

 まさか、たった数日をこれほど長く感じるとは。

 会えない、顔が見られない、声が聞けない、話ができない。

 たった五日間がとても、苦しかった。

 だから、電話越しでも話ができて、すごく嬉しかった。

 こんな遅い時間に掛けて、嫌がられなかっただろうか。

 でも、彼の声も嬉しそうに聞こえたから、きっと大丈夫なはずだ。

 わたしだって、本当はすぐに会いたかった。

 でも、手元に携帯が無い。何より、着ていく服が無い。

 まさか、毎日同じ服で会いに行けるわけがない。

 ようやく、それもなんとかなった。

 これで、やっと本当に彼に会うことができる。

 彼の電話番号が前と違っていなくて、本当に良かった。

 わたしのドキドキが電話口を飛び越えて、彼に伝わってしまったんじゃないかな。

 変な女の子だって、思われたらどうしよう。

 ああ、今もまだ、胸の動悸が収まらない。


 大鷲の 翼持たない 僕たちは 星になろうと 走り続ける

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る