運命の選択
ひと気のない城壁の一角に立ち、美しい青年はため息をつく。城下を見遣る瞳はウェーザーでは稀な金色。暖かな風がそわりと頬を撫で、高い位置で結わいた髪を揺らす。
短い髪は気に入っていたのだが、正装のためにかつらを着けるのもわずらわしく、仕方なくまた伸ばした。
すでに体力は戻り、母方の実家である港町トマに下る準備を進めながらも、未だ王都に留まるのは未練ではない。
眼前に、空砲が上がった。
驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち、頭上をしばし旋回した後、安全を確認して元いた木の枝に戻る。
町は色とりどりの花で飾られ、連日連夜続いた宴はいよいよ最高潮に達し、疲れを知らぬ人々は熱狂的にこのよき日を祝った。
隣国シラーと和平の盟約が結ばれて一年と少し、ついにウェーザー王と民は愛らしいシラーの末姫を王妃に迎える。
王都を発つのはそれを見届けてからにしようと思ったのだ。それなのに、いざその時が近づくとため息ばかりがこぼれる。
もう、少年だったあの頃のように、皆が寝静まった夜に秘密の茶会を開くことはない。
「アレン様」
鈴を転がすような可愛らしい声が背後から呼ぶ。それが自分のことだと気付くのに時間がかかった。
「あの、アレン様……?」
「ん。あ、ああ」
自分の胸のあたりくらいまでしかない小柄な少女がじっと顔を覗き込んでくる。本日の主役リリアス・ベル・シラーだ。前髪を上げ、いつもより濃いめの化粧が、彼女の可憐さを最大限に引き出していた。
「どうした? 支度はいいのか?」
答えずに、リリアスはうつむく。
乙女心など理解できるはずもなく、怪訝そうに首を傾げながらうっかり頭を掻いてしまい、まっすぐな毛束が一筋二筋と髪留めからこぼれた。
「しまった。式までに直さないと、アレンがうるさい」
髪留めをはずし、赤茶色に染めた髪を風に散らす。
「……陛下が、うるさい」
美しい顔をしかめて訂正した。
なぜかカインの名で即位した弟のせいで、シラーより帰還してからは髪を染めてアレンと名乗らなければならなかった。おまけに弟を自分の名で呼ぶのも妙な気がして陛下などと呼んではみるが、まったくよそよそしい。
すくってもすくってもこぼれる髪に苛立つ。あまりの不器用さに見ていられなくなり、リリアスはくすくすと笑いながら座るように言った。
「ん。すまんね。どうもこういうことは苦手で」
おろしたての軍服が汚れることなど気にも留めず、リリアスの足元であぐらをかく。やわらかい指先が髪に触れると、心地よさそうに目を細めた。
「ふふ、お姿は陛下とそっくりですのに」
なぜにこうまで性格が違うのか。
粗野で乱暴に見える方がじつはおおらかで心優しく、理知的で柔和な方が……リリアスは小さくため息をついた。それを見逃さない。
「リリアス」
あと少しで結い終わるというところで、カインは突然立ち上がった。せっかくまとめた髪が、再び風に舞う。
「見ろ。ウェーザー中が、おまえたちを祝福しているぞ」
白い歯を見せて笑う顔が太陽のように眩しくて、リリアスは思わず頬を染めた。
美しい街、陽気な人々、街道は地平の彼方まで続き、畑の麦は青々と茂る。この広大な国の王妃が、務まるだろうか。幸せな国の母として、演じきれるだろうか。
肩を抱き、細い身体を震わせた。
「リリアス、シラーの民を愛すように、ウェーザーの民も愛してくれ」
そうすれば、きっとその愛情は何倍にもなって返ってくるだろう。
祖国を離れ、懸命にウェーザーの言葉、歴史、文化、そして王妃として必要な物事を全て学ぼうとしたこの少女を、ウェーザー中の誰もが愛さずにいられない。
「何よりも、アレン……あ、いや、陛下を愛して、幸せになれ」
「ですが、私は……」
それ以上言ってはいけないと、カインは口の前に人差し指を立てて合図する。その直後に背後から咳払いが一つ、振り返ると、同じ顔の弟が腕を組んで睨みつけていた。
「ちょっと、式の前に浮気なんてやめてよね」
「はは。浮気だなんて畏れ多い。陛下と、愛らしい花嫁を祝福していたのです」
膝を折り、わざとらしく大げさな身振りをつけて弁明する。美しいウェーザー王は肩をすくめ、リリアスの手を取り皆の待つ聖堂へと向かった。
その背を見送り、カインはほほ笑む。
生まれる前から共にいた半身、ウェーザーとシラーの友好のために嫁ぐ幼い姫、今日、二人の新しい人生がはじまる。
「……幸せになれ」
何度めかの空砲が上がり、また一つため息がこぼれた。
* * *
式の開始を待つ間、リリアスは控室の化粧台の前に座り鏡の中の自分を見つめる。純白のドレス、胸元にはシラーの職人に作らせた守りの首飾り、朝摘みの花で編んだ花冠は華やかな香りを放っているが、しかしその顔色はひどく悪く、眉をひそめ、今にも泣きだしそうだ。
物憂げなリリアスを気遣い、侍女たちは暖かい茶を煎れたきり部屋を出ていった。
「……なぜ、逃げなかった?」
「きゃ……」
いつからそこにいたのか、金髪の美青年が鏡越しに見下ろしている。冷ややかな褐色の瞳、感情のない声、夫となるウェーザー王だ。
リリアスはドレスの端を握りしめ、震える膝にしっかりしろと言い聞かせる。瞳に力を込め、きっと見返した。
「私は、まだ何も償っておりません」
知らなかったとはいえ、彼の大切な兄君が瀕死の時に、あろうことか毒を盛ってしまったのだ。不思議な力を持つウェーザー王は遠見の術で全てを見知り、リリアスに仕返しするつもりでいる。
「じゃあ……」
ウェーザー王は一歩近付き、ベールをそっとめくった。男性にしては華奢な指が、黒髪に触れる。もしも彼に恋していたならば、それはひどく甘美な感覚だったかもしれない。
しかし、リリアスは恐怖する。
ウェーザー王は見透かしたように、氷の微笑を浮かべて耳元でささやいた。
「この髪を刈り落として、冷たい牢に何日もつなごうか。食事は与えず、毒入りの菓子を食べさせてね」
「お、お心のままに……」
心臓が早鐘のように鳴り、息ができない。
それでこの方の気持ちが晴れるなら。あの日、結婚の申し込みを受けた日に、そう覚悟したはずなのに。
「……私もカインも、そんなことは望んでいないよ」
「え?」
アレンはふと表情を緩め、無防備な首筋にくちづけた。
「あ……」
敬虔なシラー神信徒にとって、婚前の男女の触れ合いは禁忌である。リリアスは驚いて振り返った。白い肌がみるみるうちにばら色に染まる。
「ふふ。ああでも言わないと、きっと君は私に夢中になって、花嫁修業どころではなくなっていたからね」
まるでいたずらっ子のように明るく笑うと、想いを寄せるもう一人の方と同じ顔になる。もしや二人でたびたび入れ替わって、からかっているのではないかと疑うほどに。
混乱するリリアスの前にひざまずき、今までにない優しいまなざしを向けた。
「一年間、よくがんばったね。君はただ可愛いだけじゃない。賢く、忍耐強く、そして勇敢だ。君ほどウェーザーの王妃に相応しい姫はいないよ」
泣くまいと耐えれば耐えるほど、瞳いっぱいに涙が浮かぶ。くちびるを震わせ、声を詰まらせながら、勇気を出して問うてみた。
「わ……私、陛下を、好きになっても……よろしいのでしょうか?」
ついにこぼれた涙を、気障なアレンはそっと舐めとる。
「笑って、リリアス」
「……はい」
まだまつげに残る涙さえ、彼女の可憐な笑顔を飾る宝石となる。
「リリアス様、お時間で……へ、陛下! こちらにいらしたのですか!」
慌てふためく侍女をよそに、新しい夫婦はほほ笑み見つめあった。
* * *
聖堂の鐘が鳴り響き、祝福のラッパは高らかに、いよいよ大扉が開き、来賓の見守る中を国王と花嫁がゆっくりと進む。
その美しい姿を後世に伝えようと画家は目を凝らし、彫刻家は指を鳴らし、詩人は言葉を紡ごうとするが、彼らの技術ではとても表現できず。ただ瞬きさえ惜しんで脳裏に焼き付ける。
金銀の糸で王家の紋章が刺繍された濃紺のマント、儀式用の真紅の軍服、ふんだんに宝石をちりばめた王冠、それらがかすむほどのまばゆい金髪と優雅な微笑。さっと片手を挙げただけで、誰もが魔法にかかったように身動きできずに魅入った。
その隣に並ぶ花嫁のなんと可愛らしいこと。四方からため息がこぼれる。
きらめく虹色のベール、華やかなレースを幾重にも重ねた純白のドレス、見事な細工の首飾り、頬を染め、愛らしい顔をほころばせると、まるで春の日差しのように人々の心を照らした。
これがあの田舎国から来た小柄で貧相な姫かと、貴婦人たちは目を疑い、悔しがる。
近衛隊に整列するカインもまた驚いた。いつも不安そうにうつむき、本意でない結婚に泣きそうになっていたリリアスが、ほんのわずかな時間のうちにあれほど幸せそうに笑えるようになるとは。我が弟ながら、いったいどのような魔法を使ったのだろう。
これで安心して王都を去ることができる。そう思うと、また少しだけ淋しさがこみ上げ、胸のあたりがざわめいた。
色硝子の窓を抜けた光に包まれ、金色の髪の弟と黒髪の姫が精霊像の前に並ぶ。それはまるで、夢にまで見た自身と運命のひととの一場面。心が震えた。
祭司は聖水を振りまき、聖花を捧げ、祝詞を詠む。参列した王侯貴族、大臣、諸国の大使たちはその神聖な光景に思わず涙した。
まさに、奇跡。
新郎新婦が永遠の愛を誓おうとした時に、奇跡が起きたのだ。
聖堂の中に一陣の風が吹き、燭台の炎が激しく揺れる。その影が光と混ざり、ひとに似た形を成した。彼らの信仰の対象である、ウェーザーの十二の精霊たちだ。
人々は言葉をなくし、ただただ平伏す。
どの文献にも、かつて国王の結婚式に精霊たちが降臨したなどという記述はなかった。いったい、なぜ。
精霊たちは国王夫妻の頭上で舞うように輪になり、慈愛に満ちた笑みを向ける。
《精霊の血を引き、ひとにしてひとならざる力を持つ王よ、永遠に、我らとともにウェーザーを治めん》
なんということだ。弟が、半身が、精霊たちに祝福され、永遠の王に認められたのだ。これほど誇らしいことはない。カインもまた歓喜にうち震え、うやうやしく傅いた。
しかしアレンは動じることなく、当然のように、あるいはあらかじめ用意していたかのように振る舞う。変わらず優雅にほほ笑み、応えた。
「……この命ある限り、我が妻リリアス・ベル・シラーとウェーザーの民を愛し護ることを誓います」
命ある限り。確かにそう言った。それは、精霊たちの祝福を拒否したということか。カインは訝る。
だが、集う諸侯が若い王に陶酔するには十分すぎる演出だった。
なるほど、まじないが得意な彼ならば、これくらいの幻影を見せるのは造作もないこと。式を盛り上げるための余興だったのか。
カインはやれやれと肩をすくめて立ち上がった。
《……く、早く……》
「え?」
かすかに聞こえた声、今にも消えそうな精霊たちの残像が困惑しているように見える。
《まにあわな……!》
瞬間。
足元が大きく揺らぎ、続いて身体が沈み込むような、いや、突き上げられるような衝撃に襲われる。
「アレン!」
とっさに叫んだ声は地を割く轟音にかき消され、折れた柱、崩れ落ちる天井が行く手を阻む。視界を遮る土煙の向こうで、アレンがリリアスを庇い、倒れた精霊像の下敷きになるのが見えた。
「アレン! アレン!」
不思議なもので、いざという時にひとは尋常ではない力を発揮する。何をどうやってこの瓦礫を乗り越えたのか、とにかくアレンの元にたどり着き、到底一人では動かすことのできない石像を押しのけ、弟を助け出した。
「しっかりしろ! アレン!」
泣き崩れる気の毒な花嫁は後回しにして、弟の容態を確かめる。息はある。目立った外傷はない。脳震盪か、骨と内臓の具合はどうだ。
「痛みよ、俺に移れ」
幼い頃、どちらが先に会得したのか、互いの苦痛を分かち合う術。カインは細心の注意を払って弟の身体を抱きしめた。
「……め、だ……カイン……だめだ……」
「大丈夫だ。すぐに医師を呼ぶ。しっかりしろ」
「だめ……だ……そんな、契約を……結んじゃ……」
「契約?」
まだ意識のはっきりしないアレンは、うわ言のように同じ言葉をくり返す。
「何を言って……」
ようやく、カインは気が付いた。
倒壊した聖堂、祝福の場は一転して惨劇に、負傷した人々が国王と王妃を取り囲む。彼らが口々につぶやくのは、怒り、悲しみ、そして憎しみ。
精霊の祝福を拒み、怒りを買い、大地震を引き起こした国王を、彼らは恨んだ。
「おまえ、こんなものをずっと見ていたのか」
まだ十六歳の少年だった頃、カインに運命の乙女を見せた力。大臣たちと政治を談義し、学者や祭司を論破するほどの知識を有していたのも合点がいく。
彼は、先見の力で知っていたのだ。
当然、次にカインが何をするのかも。
それを回避するために、運命を変えるために、髪を染めて兄のふりをして即位し、心ない結婚を決断したのだろう。
「ばかだな、一人で何もかも背負って」
カインは泣きそうな顔でほほ笑み、そっとアレンを横たえた。そして割れずに残った水瓶を持ち上げ、中の聖水を頭から浴びる。髪を染める色粉が溶け出し、軍服の背を汚した。
一同がどよめくのも気に留めず、祭壇の前に転がる王と王妃の誓いの指輪を掴み、宙空を睨みつける。
「ウェーザーの十二の精霊たちよ、契約しよう。全ての人々が幸せになるまで、俺が護り続けるから……」
「やめろ、カイン!」
正気に戻ったアレンが、リリアスの肩を借りて起き上がる。まともに動けぬ身体がもどかしい。
「泣くな、アレン。きれいな顔が台無しじゃないか」
なぜ、この時に笑っていられるのだ。
止めなければ。この愚かな契約を止めなければ!
「大丈夫だ。悪いことなんか全部、俺が引き受けてやる」
痛みも、苦しみも、全部。
怒りも、悲しみも、憎しみも、全部。
どうせもともと嫌われている。今さら悪役を演じたところでどうということはない。
「さあ、精霊たちよ。ウェーザーに永遠の祝福を」
軍人にしては細い指に、王の指輪をねじ込んだ。消えかかっていた精霊たちに再び力が戻り、前より強い光でカインを包む。
同じ顔、同じ声、先王から継いだ力もまた同じ。なぜ二人で生まれてきたのか、ようやくわかった。
鋭い金瞳に強い意志が宿り、混乱する人々を見据える。
「陛下がお二人……?」
「いや、違う」
「あちらが本物のカイン様……?」
「どういうことだ?」
「我々を騙していたのか」
「精霊の祝福を奪うために」
「永遠の命を得るために!」
思惑通り、彼らの怒りは自分へ向いた。これでいい。ほほ笑んだ顔は、もしかしたら恐ろしい悪鬼にでも見えていたかもしれない。かまうものか。
「アレン、リリアス」
そしてウェーザーの民よ。
「どうか幸せに」
そう言い残し、カインは姿を消した。
悪の権化が去っても混乱は続く。
今、この場を鎮められるのはアレンしかいない。だが、アレンは膝を落としたまま、地に拳を打ちつけ慟哭する。
「あ……ああ……! 変えられなかった……私が、私が……カインを永遠の孤独につき落とした!」
周到に用意し、少しずつ運命は変わっていたはずだ。なぜ肝心なところで失敗してしまうのか。
「私に……勇気がなかったから……」
いつもカインにばかり辛い方を選択させてしまう。今度こそ、二人ともが穏やかな道を進めると思っていたのに。
自身を責め、呪い、絶望するアレンに、救いの手を差し伸べたのは、リリアスだった。
「しっかりなさってください」
「リリアス……見ていただろう? 私は、君のことも利用したんだ。君の気持ちを知りながら翻弄した。ここをやり過ごせば、私がトマに下るつもりだったんだ!」
リリアスは血の滲むアレンの手をとり、大きな黒曜の瞳でじっと見つめた。
「ひどいですわ、アレン様。私を妻として愛し護ると誓ってくださったではありませんか」
「だから、それは……」
運命を騙すための茶番にすぎない。本意ではないのだ。
「難しいことはよくわかりませんが、運命なんて、思うようにいかないことの方が多いと思いますの」
それを、一人の人間がどうこうしようとすることがおこがましい。
「もう、未来を見るのはおやめになって、今を見てはいただけませんか」
懸命に救護活動を続ける警備兵、国庫を開き薬と食糧の配分を決める大臣たち、貴族は屋敷を開放し、商人は売り物を無償で差し出す。助け合い、なんとかこの窮地を脱しようとする人々。
そして目の前には、幼い王妃が泣くのを堪えて気丈にほほ笑んでいる。
「……ウェーザーの十二の精霊とシラー神に誓います。私、リリアス・ベル・シラーは、アレン・トマ・ウェーザー様を夫とし、生涯愛し続けます」
形の崩れた花冠から小さな花を一つ抜き取り、くちづけ、アレンの左の薬指に巻きつけた。
「幸せになる努力をしましょう……カイン様のためにも」
そう、彼は望んだのだから。
「……ああ、君の言うとおりだ」
アレンはゆっくり立ち上がる。微力ながら支えようとリリアスはそっと寄り添った。
褐色の瞳に、強い意志が宿る。
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