孤独な王妃

 噂好きの侍女たちがささやく話題の一つに、王妃の寝室の秘密というものがある。

 王妃アナベル・ヴァッシュの寝室の奥にはついたてが置かれ、その向こうにはあやしげな祭壇やまじないの道具が並び、どこの馬の骨とも知れぬ少年まじない師が夜な夜なひとを呪って国を傾けようとしているらしい。

 そんな根も葉もない噂が真実だったと知り、男たちはむっと眉をひそめた。

 闇に紛れる黒装束の男たちは、静かに任務を遂行する。香炉から立ち込める甘ったるい煙と、祭壇の両端で揺れる蝋燭を吹き消し、まじないに関わる道具を全て部屋の外へ運び出す。空いた場所には、さもはじめからそこにあったように古い化粧台と衣装箱を据えた。

 床の上で子犬のように毛布にくるまっていた少年が、かすかな風の動きに勘付いて目を覚す。

「誰だ……っ!」

 あわてて起き上がり、懐の短刀を探る。しかし、それより先に男の一人が少年の脇腹を蹴り上げた。短いうめき声、息ができずにうずくまる。もともと血色の悪い頬はさらに青ざめ、恐怖に全身を戦慄かせた。

 男はまるで虫けらを見るような目で少年を見下ろす。まったく、なぜこんな薄汚い蛮族の餓鬼をそばに置くのか。王妃にはもっと立場をわきまえてもらわないと。

 嫌悪感に顔をしかめ、固い革の靴底で執拗に踏みつける。

「おい、音を立てるな」

「ちっ……わかってる」

 じっと耳をそばだててみるが、天蓋付きのベッドから聞こえる規則正しい寝息は変わらずに。

 ふんと鼻を鳴らし、用意していた厚い麻袋に少年を詰め込み、ただの荷物のように紐をかけて担ぎ上げた。

 王妃がひそかに飼う少年が一人消えたところで、誰も訝りはしない。むしろ害虫を疎ましく思っていた賢臣たちは、ほっと胸を撫でおろすことだろう。

 男たちは再び闇に消え、何も知らない王妃は一度寝返りを打ったきり、また深い眠りへと落ちていった。


 それから王妃アナベル・ヴァッシュが目を覚ましたのは、ずいぶん日が高くなってからだった。窓から差し込む光が室内を明るく照らし、廊下には行き来するひとの気配、しかし侍女たちは未だ朝の支度に来ず。

 アナベルは気怠げに身を起こし、呼び鈴を鳴らした。まったく、こんな時間まで何をしているのか。ベッドに腰かけたまま、ぼんやりと宙を見つめて待つ。

「……のご容態は?」

「救援隊を……!」

「医師はまだか!」

「……リンダからの報告は……」

 聞こえてくるのは大臣たちの苛立たしげな声と慌ただしく走り回る足音。

「何事なの?」

 煩わしそうに白金色の髪をかき上げ、ついたての向こうに問いかける。しかし返事はない。

「スーク?」

 アナベルはついたての奥を覗いて愕然とした。そこにあるのは、実家で使っていた懐かしい調度品。丁寧に、朝摘みの花まで活けられている。

 従順なまじない師の少年など、まるではじめから存在しなかったかのように消え失せていた。

 ベッドの脇のテーブルには、白い封筒が一通。宛名も差出人も書かれていなかったが、封蝋の印で父からのものだとわかる。アナベルは急いで封を切り、小さな紙片を取り出した。


  何も知らないと言いなさい


 短く、ただそれだけが走り書きされている。

「どういうこと?」

 首を傾げて意味を考えていると、手のひらの紙片は小さく音を立てて焼失した。花の香りが焦げたにおいを隠す。

 相変わらず廊下には慌ただしい靴音が響き、侍女たちは来ない。いったい何が起こっているのか。スーク・ラヴィラがいなくなったのは父のせいか。

 何も知らされず、一人だけ取り残されているような気がした。

 アナベルは寝間着の端を握りしめて歯がみする。

 王妃の地位こそ手に入れたが、彼女を敬うものはいない。容姿だけが取り柄の成り上がり貴族の娘と嘲る声は、どれほどひとを遠ざけても耳に届いた。彼女をないがしろにする大臣や貴族、侍女たち全てに憎しみがこみ上げる。

 幾度めかの呼び鈴で、ようやく世話係が着替えを持ってきた。いつもの娘たちではない。

「遅いわ。何をしていたの」

「申し訳ございません」

 悪びれる風もなく、つんとすました顔でドレスを着せ付け、手早く髪を結う。アナベルの焦りと苛立ちはますます募るばかり。

「朝食はお部屋にご用意いたします」

 抑揚のない冷たい声で告げ、一礼してさっさと下がろうとする彼女たちを、アナベルは泣きそうな気持で呼び止めた。彼女たちは顔を見合わせ、意地悪くほほ笑む。

「ご心配なさることは、何もございませんわ」

 無慈悲に扉は閉まり、静けさの向こうに遠く喧騒が聞こえる。 

 孤独。

 唯一、心を許せたスーク・ラヴィラを追い出した父を恨んだ。

「……ル、……アナベル」

 背後から呼ばれて振り返り、声にならない声で悲鳴を上げた。

「驚かせてすみません。どうも、具合が悪くて」

 青白い顔で見下ろすのは、夫である国王フラン・ヨエル・ウェーザー。その身体は向こう側が見えるほど薄く透け、足元は消えている。

 病弱な国王はしばしば思念だけで城内をさまよい、人々を驚かせるというが、アナベルは初めて見た。

「お具合が……?」

 そういえば、廊下を走り回る大臣たちが、医師を呼べなどと叫んでいた。あれほどの騒ぎになるということは、いよいよ……アナベルは無意識に腹に手をやり、子の未来を案ずる。

「少し休めば回復します。私のことよりも……アナベル、あなたは王妃として知っておかなければならないことがあります」

 いつも穏やかなまなざしが、今日に限って鋭い。アナベルは緊張し、息を呑んだ。

「昨夜、ベリンダで大地震が発生しました」

 それは大変だ、などと他人事のように思ったのはほんの一瞬、アナベルは「まさか」と叫びそうになるのを堪え、全身を強張らせた。フランから視線をはずす。

 ベリンダといえば、あの黄金の王と運命の乙女が宿をとった町。スークとともに呪いをかけた……いや、あの呪いはただ悪夢を見せる程度のもの。西の都とも呼ばれる大都市を壊滅させるほどの力などない。

 私は何も関係ない、何も知らないと自身に言い聞かせた。

「……幸い、死者は出ていません。ですが被害は甚大、朝から大臣たちは対応に追われています」

「そう……ですか……」

 青ざめ震えるアナベルを、フランはじっと見据えた。そして一つため息をつき、アナベルの髪を撫でてやる。実体はないが、温かい手で触れられた気がした。

「安心なさい。先遣隊としてニコラスを送っています。ベリンダなら姉上がいますし、すぐに立ち直るでしょう」

「……はい」

「それと、カイン様はご無事です。運命の乙女は、少し怪我をなさったようですが」

 アナベルの胸がどきりと高鳴る。ああ、このひとは、何でも見知っているのだ。

 しかしフランは彼女を咎めることなく、優しく髪を撫で続ける。

「アナベル、私の部屋に来ませんか」

「え?」

「その方が、世話係の手間が省けるでしょう? 起き上がれませんが、気を紛らす話し相手くらいにはなれますよ」

 ほほ笑む夫の真意がわからない。アナベルは困惑し、か細い声で答えた。

「読んでしまいたい本がありますので……」

 フランはうなずき、静かに姿を消した。

 ほどなくして用意された食事など、喉を通るはずもなく。

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