静かな山道
静かな夜の山道を、一頭の馬が駆け抜ける。背には長い金髪の美青年と、その腕におとなしく抱かれた舞姫。こんな時間にどこへ行くのか。眠りかけた木々はあわてて枝をよけ、鳥も獣も巣穴から顔をのぞかせる。後を追う噂好きな風たちがことの始終を伝えると、それは一大事と心配そうに見守った。
国境の街アリーセを発ってどれくらいの時間が過ぎただろう。月は傾き、反対の空がうすく白みはじめている。
黄金の王は鋭い瞳で前方を睨みつけ、きつく口を結んだまま何も話さない。気まずい。シルヴァは幾度めかのため息をついた。
「……おい」
「は、はい!」
低い声、怒っているのか。怖い。覚悟したとはいえ、やはりあの災厄の王と二人きりになるなんて……
「ため息をつくな」
「……はい」
シルヴァはきゅっと身を縮めて息を止めた。苦しくて、胸が破裂しそうだ。
「おまえね、俺がどれだけ我慢してるかわかっているかい?」
「え?」
見上げた瞳はうっすら涙がにじみ、くちびるは震え、おまけに薄衣でわずかに胸と腰を隠しただけの踊り子の衣装。そのなまめかしい姿で胸元に熱い吐息を吹きかけられるのだから、たまったものではない。
カインは手綱を緩めて速度を落とし、外套を脱いで肩からかけてやった。
「あの?」
「着ていてくれ」
視線をそらすカインの顔が、ほのかに赤い気がした。
「あの、王様……?」
「カイン」
「え?」
「カイン・トマ・ウェーザー、だ。みな俺を王と呼ぶが、一度も王位についたことはないよ」
シルヴァはきょとんとカインを見つめた。初めてきちんと向き合ったそのひとは、美しくて、穏やかで、いったい何をそんなに怯えていたのだろう。
「あの……カイン様」
「どうした?」
「さっきはごめんなさい」
何かされたかと首をかしげる。
「や、あの、ひどいこと言って……」
「ひどいこと?」
「その、カイン様のせいだって」
「なんだ。気にしてないよ」
それくらい、たいしたことではない。そもそも、自分があの場にいなければ、襲われることも、まじないをかけられることもなかったのだから。
おおらかに笑うカインを見て、シルヴァは困惑した。本当にこのひとが、黄金の王だとか災厄の王だとか呼ばれ、畏れられているひとなのだろうか。そうだとしたら、言い伝えとずいぶん印象が違う。
「……そんなに怖がらないでおくれ。とって食ったりしないよ」
「本当に?」
「ん?」
思いがけない反応に、カインは眉をひそめた。それではまるで、人喰いか何かのようではないか。
「だって黄金の王様は、強い魔力を維持するために、人間をうさぎに変えて頭からぼりぼり食べるって、姐さんたちが言ってたもん」
「ひどいな。たしかに化物じみてはいるが、人間もうさぎも食わんよ」
だからアリーセの街人や芸人たちは、あれほど露骨に嫌がり逃げていったのか。いったいなぜそんな噂が広まったのだろう。長い時間を経て伝説が歪められたのだとしても、ひどい。
「この髪と瞳の色は、母親が北方のトマ一族の出身だからで、呪われているとかではないんだよ。ただ、昔はこういうのは縁起が悪いとされてね。ひとならざる力は、ウェーザー王家に代々伝わるものだから……信じておくれ」
「本当に、五百年も生きてるの?」
「そうだね、それくらい生きたかな」
「どうして?」
恐怖を払拭した少女の好奇心は止まるところを知らず。いつしか大きな碧色の瞳はきらきらと輝き、頬を上気させ、興味津々にカインの顔をのぞき込む。
純粋な瞳に引き込まれそうで、無防備なくちびるに触れてしまいそうで、カインはわざとらしく咳払いした。
「うん、ああ、おまえも、不思議な色の瞳だね」
「え、あ!」
あわててシルヴァはうつむき、前髪をおろして隠してしまった。
「あは。この瞳のおかげで、親方に拾ってもらえたんだ。見世物になるからって」
「そうか。きれいな色だからな」
「……変じゃない?」
おずおずと見上げる。
ああ、この子も、他人と異なる容姿で嫌な思いをしていたのか。それも、生きるために。
「変じゃないよ」
もっとよく見せておくれと、前髪を払う。
そう、この瞳だ。どれほど会いたいと願っていたことか。こうして触れることができる日が来るとは。心が震える。
だが、想いを告げることはできない。これ以上、彼女を苦しめるようなことがあってはいけないから。
「……具合いは悪くなっていないかい?」
「平気」
「ベリンダまでもうすぐだ。ついたら起こすから、少し眠るといい」
「え、眠れないよ」
耳元をくすぐる優しい声、もっと聞いていたいのに。
しかしカインが「おやすみ」とささやくと、シルヴァの身体からことりと力が抜けた。
安らかな寝息、温もり、甘い香り、全てが愛しい。このまま誰も知らない地へ連れて逃げられたなら。ばかなことをとカインは自嘲気味に笑い、ふもとまで一気に駆け下りた。
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