夕暮れの森
薄暗い森の奥深く、鬱蒼と生い茂る木々の隙間を縫うように駆ける男が一人。目深にかぶった外套のフードから覗く金色の瞳は鋭く、強い意志を宿す。もうずいぶんと走り続けているが、美しく整った顔は涼しげに息一つ乱すこともない。
カイン・トマ・ウェーザー。
すべての人々を幸せにするために、精霊たちと契約して永遠の時を生きるそのひとを、ウェーザーの民は黄金の王と呼び敬う。
一方で、ひとたび怒らせると強い魔力をもって精霊たちを混乱させ、大災害を引き起こすことから災厄の王、不吉の王などと呼び忌み嫌うものもいた。
「まったく、しつこいね」
美しい顔を少しばかり曇らせ、カインはつぶやく。
先ほどから彼の背後には複数の不気味な影が静かに、しかしあからさまな敵意を放ってつきまとう。
国王でもないのに王と呼ばせることを許さぬ政府か、力の暴走を畏れた教会か。いや、気配を悟られるくらいだ、刺客としてはたいしたことない。おそらく金で雇われた私兵だろう。不死の秘術や、美しい容姿の彼自身を望む好事家は少なくない。
「無駄だ。おまえたちでは俺を止められない」
剣の腕に覚えはあるが、斬り合いになれば面倒だ。カインはさらに速度を上げて追っ手を引き離した。
風が、木々が、薄闇が、森のすべてが彼を護ろうとざわめく。
追っ手の気配を完全に振り切ると、カインは立ち止まり、やれやれと肩をすくめた。
「……っ!」
息をついたのも束の間、突然、右腕に痛みが走る。しまったと舌打ちして藪をかき分けると、驚いた顔の少年が短刀を握りしめて立っていた。きれいに切り揃えた銀灰色の髪、血色の悪い頬、質素な着物と帯には東方の蛮族が好んで使う刺繍が施されている。
「スーク・ラヴィラ……ならばあれは王妃の……」
ただのかすり傷のはずが、次第に熱を帯びて腫れ上がる。腕から肩、背へと痛みは広がり、半身がしびれ、立っていることさえ困難になった。呼吸が乱れる。
「すごい。熊でも一瞬で昏倒するのに」
「毒、か……」
スークと呼ばれた少年はにっこりとほほ笑む。この無邪気で無防備な少年を隠すために、先ほどの影どもはわざと強い殺気を放っていたのだ。
「苦しいでしょう? 解毒薬を差し上げますから……」
「俺に、毒は効かないよ」
「そうですか。では、これならいかがですか」
スークは懐から取り出した紙片を宙に放り投げる。同時に何やらまじないを唱えると、紙片から無数の黒い手が現れカインにつかみかかった。
まったく、面倒な相手に捕まったものだとカインは眉をひそめる。
遠く離れた王都よりカインにあやしい遣いを差し向けるのは、王妃アナベル・ヴァッシュ。下級貴族の娘でありながら、その美貌で国王に見初められ、王妃となったのをいいことに、わがまま三昧、贅沢三昧で民を苦しめ、さらにはどこで知ったか不死の力を得んと伝説の黄金の王を追い求めるようになった。
方々から腕の立つ者を呼び集め、ある時は剛力自慢の怪人を、ある時はまじない師の放つ幻術を、カインの元へと送り込む。
中でもこのスーク・ラヴィラは幼いながらに頭が切れ、複雑なまじないを得意とし、魔術や呪術の類に疎いカインにとっては最も煩わしい相手の一人だった。
カインは大きく息を吸い、意識を集中させる。そして動く左手で剣を抜き、迫りくる妖の手を次々と斬り落とした。
ならばとスークは別の紙片を投げつける。今度は闇色の炎が噴き出し、木々の葉を焦がしながらカインに襲いかかった。
毒が回り、足元がふらつきよけきれない。あわやというところで一陣の風が防壁となり、炎を跳ね返す。精霊の加護を受けたカインに、邪悪な術は通用しなかった。
毒も幻術も効かぬとわかり、スークは狼狽える。
「お、黄金の王は、民を斬らない」
「さあ、どうかね。今は怪我をして気が立っているからな」
鋭い瞳に射すくめられ、スークの顔から笑みが消えた。カインが一歩踏み込むと、スークはあわててあとずさる。
「帰ってアナベルに伝えろ。俺にかまっていないで、王妃の責務を全うしろ、と」
不死など望むものではない、と。
スークは悔しげに奥歯を噛みしめ、諦めきれぬまま側に控えていた影に合図を送る。影は素早くスークを抱きかかえ、闇の奥へと消えていった。
今度こそ、穏やかな静寂に包まれる。
「まったく……不死でも痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいんだぞ……」
カインは一人つぶやき、腫れた腕を押さえて大木の幹にうずくまる。まだスークやその他の追っ手が潜んでいるかもしれないが、これ以上は意識を保っていられなかった。
かすむ目で空を見上げると、傾きはじめた日が木の葉を、カインの頬を、瞳を、赤く照らして降り注ぐ。
我らが全力をもって護ると風がささやくと、カインは安心したようにかすかな笑みを浮かべ、瞳を閉じた。
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