王子誕生

 ウェーザーの人々はその日を心待ちにしていた。

 農夫は手を止めて汗を拭い、料理人は吹きこぼれる鍋のふたをあわてて取り、恋人たちは愛をささやくことを忘れて窓の外を見遣り、庭師は今にも咲きそうな薔薇の蕾をうっかり切り落とす。朝は晴れていた空には忙しく雲が流れ、季節外れの雷鳴がとどろき、強い雨を降らせたかと思うとまたからりと晴れ、天気さえも落ち着かない。

 人々の期待と不安が、精霊たちを惑わすのだ。

「王子だろうか。王女だろうか」

「王子なら、きっと強いお子になるだろう」

「王女なら、きっと美しいお子になるだろう」

 彼らは口々に噂し、仕事も手につかず、ただよき報せが届くのを待ちわびた。

 心ここにあらずと浮き足立つのは城下の者だけではない。城内は邪気祓いの香で煙り、祭司たちの祈りは途切れず、祝砲を上げる大役を言い付かった番兵は何度も火薬の量を確かめる。気の早い貴族たちは祝辞を述べる順番を争い、大臣は今後の行事の予定を取り決め、それに従い女官たちは衣装の仕度に床磨きにと忙しい。

 何せウェーザー王家に御子が誕生するのは、現国王レオン・ボイド・ウェーザーが産まれて以来、じつに二十数年ぶりのことなのだ。前回のことを覚えている者が少なく、みな古い文献を読み漁り、老人たちの思い出話を頼りに今日を迎えた。

 若い国王レオンは昨夜から聖堂にこもり、一心不乱に祈り続けている。側近が食事や睡眠を勧める声も届かない。

 なぜこの時に物が喉を通ろうか。愛しい妃をおいて眠れようか。ただ祈ることしかできぬ身が憎い。

 精霊像の足元に跪き、胸の前できつく手を組み、瞳を伏せる。強い想いが湧き起こるたびに、燭台の火が燃え盛り、風が窓を打ち、木々がざわめいた。

「軍神とさえ畏れられるこの俺が、何たる様だ」

 自嘲気味に笑う声も震える。

 新しい命の誕生という奇跡の瞬間に、ひとはなんと無力なのだと痛感した。

 どうか、良い子が産まれますように。

 どうか、子も妃も無事でありますように。

 どうか、子の未来が幸多きものでありますように。

 尽きぬ祈りに案ずるなと優しい風が頬を撫でる。

 ついに、城内が一段と騒がしくなった。廊下に響く靴音が近付く。レオンは居ても立っても居られなくなり、勢いよく聖堂を飛び出した。

「産まれたか!」

 うなずく側近の顔が、渋い。何か良からぬことが起きたのか。どきりと胸が鳴る。詳しい報告も聞かずに側近を押しのけ、愛しい妃のもとへ急いだ。

 王妃の間にはすでに大臣や祭司たちが集まり、医師の説明を受けている。険しい表情で言い合う者、ため息をつく者、天を仰ぐ者、これはただ事ではない。

 駆け寄るレオンに医師の一人が気付き、扉の前に立ちふさがった。

「お、お待ちください! お子は……お子は一人ではありません!」

「なんだって?」

 さっと血の気が引いていく。後頭部を強く殴られたような衝撃を受け、眩暈さえ覚えた。

 古来より王家の双子は忌み嫌われる。とくに二人の王子には常に争いがつきまとい、国を乱すとされていた。

 レオンは瞳を閉じ、くちびるを噛む。

 ああ、精霊たちよ、我が祈りが届かぬか。

 ほどなく、厚い扉の向こうに産声が重なった。

 もはや耐えきれず、レオンは制止を振りきり王妃の部屋に飛び込んだ。驚いた女官があわてて王妃に毛布をかける。

「陛下、私……」

 虚ろな瞳に涙を浮かべ、うわ言のようにつぶやく王妃エリシア・トマ。まだ幼さの残る愛らしい顔は、何に怯えているのか蒼白だ。

 産湯を済ませ、清潔な布で優しくくるまれた王子を抱いて女官たちが並ぶ。

「……一の王子でございます」

「二の王子でございます」

 レオンははっと目を見張り、エリシアは両手で顔を覆って泣き出した。

「これは……」

 一の王子と見せられた子の産毛が、誰に似たのか透けるような金色なのだ。

 同じ顔で泣く二の王子は、レオン、エリシアと同じウェーザー人らしい赤茶色の髪。

 嫌疑を怖れ震える妻の肩を、レオンはそっと抱きしめる。心配ないと耳元でささやき、頬にくちづけた。

「わかっているよ。君のじいさんまでは、生粋の北方民族だ。その血を継いでいるのだから、こんな髪色になることだってあるだろう」

 勇猛な北の海軍の統領の血だ。きっと強い子になるぞと喜んだ。

 しかし、伝統を重んじる大臣たちは良しとしない。

「忌み子」

 誰かがつぶやいた言葉は瞬く間に伝播する。

 皆、のちの禍いを予見した。どちらかを、いや、ウェーザー人らしからぬ髪色の王子を隠すべきだ。幸い不吉な王子の存在はまだ公にされていない。老獪たちは女官から一の王子を取り上げようとした。

「汚い手で触るな、じじいども」

 宙を裂く白刃の向こうに軍神の双眸が燃える。誰もが退き震えた。

「これより先、我が妃と一の王子に不信を抱くことを許さない」

 敵と見なせば容赦はない剣先に、集う賢者たちはもはやこれまでと嘆いた。自身が豊かにした国を、子たちによって滅ぼされるのだ。なんと愚かな王よ。

 しかしレオンは剣を下ろし、はにかんだ。

「……俺の、初の子たちを祝ってくれよ」

 目じりを下げ、鼻の頭を赤くするレオンの顔は、国王ではなく、頼りない父親のそれだった。小さな愛し子たちに触れる力の加減さえ知らない。女官に抱き方を教わりその腕に命の重みを感じた瞬間、とうとう感極まって泣き崩れた。

 温かい慈雨が大地を濡らし、雲の切れ間より差す日が七色の橋をかける。鳥たちは祝福のうたを歌い、色とりどりの花が国中に咲き乱れた。

 そう、今日はウェーザー王家に世継ぎが誕生したよき日なのだ。

 人々ははっと顔を見合わせる。あわてて傅き、若い王と王妃、そして二人の王子に忠誠を誓った。

 祭司は聖水を振り撒き、王子たちの額に銀のナイフを三度あてて魔除けのまじないをほどこす。紅い花をしぼった染料で両手両足に精霊文字を書き込み、健やかな成長を祈った。

 人々の祝福を受け、王妃エリシアはようやく安堵しほほ笑んだ。


 第一王子カイン

 第二王子アレン


 一つの運命を二つに分かつ王子たちの誕生。

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