第39話 宵待草
「それでテレビみていたらさ。若いうちには勉強しておけ、っていうコメンテーターと若いうちには遊ばないと損だ、っていうやつがいるんだよな。どっちも自分のやらなかった方を後悔して、そういう風に主張している風情だからな。正直参考にならないとしか思えなかったぜ」
「まあ、そうだな。結局両方をバランスよくやるのが良いんだろうけど。……どっちを選択しても後悔しない人生になんてならない気がするしな」
明彦の言葉に適当に相槌を打つ。僕はいつものように明彦と帰り道を雑談しながら歩いていた。
あれから一か月近くが過ぎてしまった。星原とは日常的に顔を合わせるものの廊下ですれ違うときに軽く会釈をするくらいで、放課後を一緒に過ごしそれなりに親しくしていたのが、まるで何もなかったかのようだった。
もともと僕と星原は教室とか周りの目がある場では何となく距離を置いていた。それなのに「小説の構想を聞く」という接点がなくなったため、ほとんど話さなくなってしまっていたのだ。
「なあ、真守。何かあったのか?」
「え? 何が?」
「いや、最近少し暗いなと思って」
「ああ。模擬試験の結果がいまいちでさ」
「ふうん。それとさ、夏休み前までお前、週に何日か用事もないのに放課後いなくなるようなことがあったような気がするんだが、何かしていたのか?」
「……いや、別に。学校の図書室で勉強していただけだ」
「? そうか」
明彦も、もしかしたら僕が本当のことを言っていないことに気付いているのかもしれないが、言いたくないなら無理に話させることもないと思ったのか、それ以上は何も訊いてこなかった。
「じゃあな」
「ああ」
僕は明彦と別れて家路についた。
家に帰り、自室に入る。制服から私服に着替えて、ぼんやりとベッドに座り込んだ。
星原とほとんど話さなくなってから、胸にぽっかり穴が開いたような心持だ。
元々、星原と話すようになったのは今年の四月下旬くらいだった。たかが半年くらい前の話だ。そして今は元通りの生活に戻っただけなのに、何だか僕は落ち込んでいる。
今さらながら僕は気が付いた。僕は星原の事が好きだったのだ。
あの少し風変わりだけど、落ち込んでいるときにさりげなく励ましてくれて、たまにしか見せない笑顔が可愛らしい、星原咲夜という少女が好きだったのだ。正直に言えば、部室に二人きりでいるときに星原の体に触れたいと衝動的に思ったことも何度かある。
そして「たぶん」だが、星原も僕の事を憎からず思っていたのだと思う。そうでなければ一緒に放課後を過ごそうとは思わないだろう。きっと星原は僕の事を好いていてくれたのではないだろうか。
ただおそらく星原の方はお互いの気持ちに気が付いていたが、僕の方は気づいていなかった。いや気づいていないふりをしていた。自分の気持ちを押し込めて、自覚するまいとしていた。
ではなぜ、僕はそうしたのか。なぜ星原との関係をこれ以上深めようとしなかったのか。
理由は二つある。
一つはひどく現実的な問題だが大学受験だ。
実際のところ僕の成績は、ひどくはないが特に優秀というほどではない。この間の模試では志望校の合格率判定は五段階評価でC判定という結果だった。うちの親は高い学費を払っている以上浪人は許さないという雰囲気であるし、僕にしたって好き好んで一年余計に受験勉強をする気にはなれない。
世の中には恋愛と勉強を両立させる人間もいるのだろう。けれども僕にはそれができるとは思えない。勉強しなくとも良い成績が取れるような頭のいい人間も世の中にはいるのだろうが、僕の場合は死に物狂いで勉強してようやく志望校に入れるのではないか、というレベルだ。恋愛なんてものすごくエネルギーを使いそうなことと並行しながら大学受験の勉強もして合格してみせるのは、非常に困難なように思われた。
そして二つ目の理由、こっちの方が根本的な問題だ。
僕は今までの人生で、自分の苦手そうなこと、失敗しそうなことからは逃げ回ってきたのだ。勿論勉強だとか、どうしてもやらなくてはならないことは努力してきた。けれども少しでも難しそうなことや達成に途方もない努力が必要に思われることは避けて生きてきてしまった。
小学生の時、一輪車が学校にあったが、少し乗ろうとして無理そうなので諦めてしまった。
中学生の時、水泳の授業があった時も、どうしても背泳ぎが出来なくて、水泳の授業が嫌で仕方がなかった僕は、結局何度か仮病で休んでしまった。
一年生の文化祭の時も、バンドで演奏するためにギターを持ってきたクラスメイトがいて少し触らせてもらったが、弦を指で押さえるのがこんなに難しいのかとあっさり諦めてしまった。
つまるところ、自分には向いていなさそうな、失敗しそうなことにはなるべく関わらなかった。「人に迷惑をかけるかもしれないから」「別にできなくたって生活できない訳じゃない」そんな風に自分に言い訳をして、ここまで来てしまった。
星原と話すようになってからの数か月、僕は何度か他人のために行動し、感謝されるようなこともあった。僕は、自分という人間が前よりも積極的になれたんじゃないかとも思った。
でもそれだって、裏を返せば「他人のため」だからできたのだ。失敗して上手くいかなくとも、本当の意味で傷つくのは自分ではないからできたのだ。
結局、失敗した時に本当に自分が傷つくようなリスクの高い行為はやる前から諦めてきた。
そう。好きな女の子と恋愛をするなんて、その最たるものだ。
たまに街を歩いていて見かける仲睦まじそうな恋人同士の男女を見ると、自分にはどうしたらあんな風になれるのか想像もつかない。
自分はそれなりに精神的にタフなところもあるつもりでいた。実際、僕は馬鹿にされたり、軽蔑されたりするのは慣れっこだ。例えば何かクラスの皆が見ている前で大失敗して恥をかくようなことがあっても、一時的には落ち込むだろうが数時間後には「まあいいか。馬鹿にされるのは、今始まったことじゃないし」と立ち直っていると思う。
だけどもし星原と付き合って上手くいかずに軽蔑されたらと考えると、僕の胸はひどく傷んだ。星原と良好な人間関係を築いてこられたのは、友人として談笑するだけの関係だったからだ。もし深く付き合った時に、みっともない姿をさらしたり、あるいはつまらない男だと思われたりして、星原に幻滅されて嫌われてしまったらと思うとそれが怖かったのだ。
とこんな風にここまで自己分析してみて、僕は自分にあきれた。
何だよ。結局、自分が傷つくのが嫌なだけじゃないか。自分が可愛いだけじゃないか。
よくこれで星原の事が好きだなんて思えたものだ。今の自分の行動原理には星原のことを思いやっている要素が何もない。
幻滅されるのを恐れて距離を取ってしまったあげく、好きな女の子に愛想をつかされたのでは世話はない。リスクを避けて生きてきたツケが今こうやって回ってきたわけだ。
僕はひどく憂欝な気持ちで、ベッドから立ち上がった。気は乗らないが、勉強しなくてはならない。学校から出ている宿題も片づけなくてはならない。
その時ふと、部屋の隅にある自分のパソコンが目に入る。「星原の小説を検索してみようか」不意にそう思った。ある意味あの小説は星原と数か月間を一緒に過ごしてきた証であり、今では僕と彼女をつなぐ唯一のものかもしれない。
もう一度読み返して、自分の中の彼女の存在感をかみしめたい。何となくそんな感傷的な気持ちになっていたのだ。
僕は検索サイトで星原の言っていた小説のタイトルを検索する。ほどなくして星原の小説が掲載されているホームページを見つけた。『十三番目は生きていた 宵待 草歌』という文字が、小説の冒頭に表示されていた。
「よいまちそうか、と読むのかな」
星原のペンネームなのだろうが、僕は首をかしげた。
植物に造詣が深いわけではないが、宵待草という花があるのは聞いたことがある。
確かその名のとおり、宵すなわち夕暮れを待ってから咲く花、そう「夜に咲く花」なんじゃなかったか。星原は「咲夜」という自分の名前に引っ掛けて、こんなペンネームにしたのかな。
僕は何となく気になって調べてみる。
宵待草で検索して、画面に表示された内容を読んでみる。要約するとこうだ。
『宵待草は、明治・大正時代の画家・詩人である竹久夢二によって創られた詩歌である。植物学的には『待宵草』が正しく、『月見草』などと同種の群生して可憐な花をつける植物のことである。夕刻に開花して夜の間咲き続け、翌朝には萎んでしまうこの花のはかなさを題材に詩歌を創った』
『妻子もいた竹久夢二が、避暑旅行で銚子から犬吠埼に向かう途中に泊まった宿で、一人の女性と出会い、逢瀬を重ねるが、結ばれないまま別れてしまう。そして次の年にもう一度同じ場所を訪れるが、その時にはもうその女性は結婚していたため、竹久夢二は自らの失恋を悟った。その時に逢瀬を重ねた場所である海辺で、いくら待ってももう現れることのない相手を想う気持ちがこの詩歌を着想させた』
『待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな』
「……詩歌の名前だったのか。正式な植物名は『待宵草』?」
僕は続けて、待宵草の花言葉も調べてみた。
『移り気 温和 協調』……そして『ほのかな恋』
僕はパソコンの電源を落とした。
宵待草歌。宵待草の歌。
夜に咲く花の歌。待っても来てくれない相手を想う気持ちから作った歌。
月見草と同種。「月」を見る草。花言葉は「ほのかな恋」
星原はどんな想いをこめて、こんなペンネームを付けたのだろう。
僕の胸の中で何かが疼いていた。
このままではいけないのに。何かしなくてはならないのに、自分はどうすれば良いのか分からない。焦燥感と自己嫌悪が混ざり合って、僕をさいなんでいた。
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