第25話 ストーカーと花言葉

 そこにはキャミソールの上にシャツを羽織り、白いスカートをはいた星原が立っていた。


「何をしているって……、それはこっちのセリフなんだけど」


 ですよね。女の子とデートしてくるって言った人間が、髪は乱れて息を荒くして、川の土手にぶら下がっているんだもんね。


 その時、市ヶ谷くんの声が近づいてきた。


「どこに行きやがった!? くそ、もしかしてこっちか?」


 岸辺で僕を見下ろしていた星原は何かを察したのか、立ち止まって携帯をいじっている通りすがりのふりをして、かばうような位置に立った。


「卓人くん! 待って! もう……もういいから」

「……可奈子。だけど、あいつお前のこと悪く言って」

「もうそんなこと気にしていないから。それより少し早いけど食事にしない? 私お腹すいちゃった」

「そうか。可奈子がそういうんなら……分かった。まあ、あんな奴放っておくか。このあたりの行きつけだと、イタリアンになるけどいいか?」

「うん! 私、パスタ好きだもの」


 僕といたときは、脂っこいの苦手って言ってませんでしたっけ?


「そうだな、食事した後ならちょうど夜景も綺麗な時間になるし。その後で公園に散歩に行こうか」

「うん! 私、公園行きたい」


 ……僕といたときはそういう気分じゃないって言ってませんでしたっけ?


 全身に疲労感がどっと襲ってくる。あーあ。人生やめたいなあ。なんで生きているんだろうなあ。


 やがて二人は仲良くその場から去って行った。


「えっと。月ノ下くん? 状況を察するに、あなたがデートに誘ったあの女の子には彼氏か何かがいてはちあわせちゃったと。それで、月ノ下くんがすすんで人の悪口言うとも思えないから……、彼女の立場を配慮して強引に付きまとっている嫌な男という悪役を買ってでた。そうでないと、彼女は月ノ下くんと浮気している形になっちゃうものね。その結果、彼氏に追い回されることになった。こんな感じ?」

「さすが、星原。断片的な会話と状況からそこまで流れを把握するとは。小説家志望なだけあるな」

「それにしても彼、あなたのことをしつこく追いかけてきたわね」

「僕のことをストーカーだと思っていたからね。そして大久保さんも、あの子もその役割を僕に望んでいた」


 星原は不審そうに眉をしかめる。


「どういうこと?」

「つまり、彼女は僕をストーカーに仕立て上げようとしていたんだ。最初に出会った時からね」


 僕は星原に簡潔に僕の推測を説明する。


 大久保さんはおそらく市ヶ谷くんと恋愛関係とはいかないまでも互いに想いあいながら長く付き合ってきた。しかしどういうわけか、ここ最近市ヶ谷くんは一緒に帰るのを拒むようになった。それに気が付いた彼女は自分に興味がなくなってしまったのではないか、と危惧をしていたのだ。


 実のところ、それは彼女のプレゼントを買うためにバイトをしていたからであったのだが、そんなことは彼女にはわからない。


 そこで大久保さんは彼の気を引くために「自分はストーカーにつきまとわれている」という狂言を仕組むことを考えたのだ。しかし、同級生である彼と面識がない知り合いでなおかつストーカーを演じてくれる人間などそうそう見つかるはずもない。


 それならば、と彼女が次に考えたのが無関係の人間にそれとは気づかせずにストーカーの役割を演じさせることだったというわけだ。




「ストーカーを演じさせる? 本人に気づかせないように?」


 星原はぎょっとした顔をする。


「ああ。彼女はそのための人間を探していたんだ。つまりストーカーを自然に演じられる人間。『自分と帰る方向が同じ男子生徒』をね」

「じゃあ、彼女が帰り道で時々あなたと出くわしたのは」

「もちろん偶然じゃあなかった。彼女は僕と同じでバスに乗り換えた後、下り方面の電車に乗ってそこから私鉄に乗り換えて帰る。だから帰る方向が自分と全く同じと言わないまでもある程度重なっている人間を探そうとバス停や乗換駅で同じ学校の生徒を観察していたのさ」

「わからないわね。単純に自分と同じ方向に帰る人間を探すのなら自分の家の近くの路線から探すのが合理的なんじゃあないの? なぜ学校のバス停や乗換駅で探していたのかしら」

「優先順位の問題だろうね。彼女にとって重要なのはストーカーに仕立てやすい人間がいるかどうかということだった。だからまずふさわしい人間を選定し、そしてそのうえでその人間が自分とどの程度まで下校の経路が同じか確かめていたんだ。最悪、下校の経路については自分と一致するのは途中まででも構わなかったんだろう」

「ストーカーにふさわしい人間?」


 僕は懸垂の要領で自分の体を持ち上げて上半身を土手の上にもたれさせる。このまま這い上がろうかとも思ったが、まだ市ヶ谷くんたちが近くにいて何かの拍子に戻ってくるかもしれない。もう少し目立たないようにこのまま川べりにぶら下がったままでいることにした。


「彼女の考えた筋書きは多分こうだ。自分が最近ストーカーにつきまとわれているという話を彼に相談する。そしてストーカーを演じている人間が実際に自分につきまとっているところを彼に目撃させる。そこで彼がストーカーを自分から追い払って守ってくれる。それをきっかけにお礼なりなんなりの形で、疎遠になりがちだった自分との関係をもう一度再建する」

「……」

「でもあまり粗暴で危険な人間をストーカーに仕立てて、彼と……市ヶ谷くんと暴力沙汰になるのはまずい。そこであくまでもおとなしくて気弱でちょっと威圧されたら逃げ出してくれそうな男子生徒を、さらにいうなら利用しやすい女の子慣れしていない男子生徒を選び出す必要があったんだよ」


 星原は無表情で僕の言葉に聞き入っていた。


「それならなるべくたくさんの生徒たちの中から条件にあてはまる相手を絞り込んだうえで、その人間が自分と帰る方向が同じかどうか確認したほうが手っ取り早い。だから駅前のバス停近くで自分と同じ方向に下校する生徒が最も多い時間帯を見極めた。次にその中でおあつらえむきの男子生徒をしぼった。さらにその男子生徒たちの中に、自宅の最寄り駅がある沿線に乗り換える生徒がいないか探していたというわけ」

「でもそんなことしたら流石に自分が仕組んだことだってばれるんじゃあないの? ストーカー役を押し付けられた人間だって、その市ヶ谷とかって男子にストーカー扱いされたら反論するでしょう。『自分は彼女に一緒に帰るよう誘われたから帰っているんだ』って」

「ところがどっこい。彼女は僕と帰る約束をするときにも物的な証拠になるものは何も残していないんだ。メールのやり取りも理由をつけて拒んでいた。一緒に帰る時には花壇のところにバケツを置くという合図を出すことになっていたからね。……判断基準になるのは互いの証言だけ。一方は知り合いの可愛い女の子で『自分はこの男につきまとわれていた』と言い、もう一方は初対面の挙動不審な男で『自分は彼女に一緒に帰るよう誘われた』と主張する。市ケ谷くんの立場ならどちらを信用するか、自明の理だろ?」

「……男の子の立場ってそういう場面だと弱いものね」


 星原は髪をかき上げてため息をついた。


「しかも彼女は僕と一緒に帰る時も周りに知り合いの生徒がいるときには決して僕には話しかけてこなかった。親しげにふるまったのはあくまでも二人きりになってからだったんだ。つまりこれを第三者が見ていたら、彼女と友達が一緒にいるときには僕が彼女をつけまわして、彼女が友人と別れるや否や接近して一緒に行動している形だ」

「でも、どうやってそれを彼に目撃させるの? 彼はバイトだの部活だので忙しいのに、都合よくあなたと彼女が帰るのと同じ時間に合わせて行動させることなんて無理なんじゃあないの?」

「そのあたりも彼女は考えていたよ。さっきも言ったけど、僕は彼女と一緒に帰る時には校舎の裏手にある花壇にバケツを置くことで意思表示することになっていた。一緒に帰れるときは右側の赤いカーネーションとチグリジアがある花壇。無理なら左の黄色いカーネーションの花壇。ところでこの花壇、『市ヶ谷くんが所属している野球部のグランドの入り口のすぐ横』にあるんだよな」

「どういうこと?」

「星原は花言葉とかあまり詳しくないか? 僕は園芸部の彼女との話題にならないかと思ってつい先日調べたんだけど。赤いカーネーションは『愛情』『あなたに会いたい』、チグリジアは『私を愛して』のほかに『私を助けて』という意味がある。黄色いカーネーションは『失望』そして『拒絶』」

「……なるほど。一見すると会えるときのメッセージに赤いカーネーションやチグリジアを使って、会えない時に黄色いカーネーションを使うのは意味が通っているように見えるけれど。野球部の彼が部活の時にこれを目にしたら意味合いが異なってくるかもしれないということかしら」

「そういうことだ。つまり花壇のところで出していた合図は、単純に僕と彼女の約束というわけじゃあなく彼女から彼に対するメッセージだったんだ。僕と彼女が一緒に帰るときに合図に使う赤いカーネーションとチグリジアは彼に対して『今日はストーカーにつきまとわれているから助けに来てほしい。帰りに会いに来てほしい』という意味。僕と彼女が一緒に帰れないときの黄色いカーネーションは『今日はつきまとわれていないから来なくてもいい』という意味にも取れるわけ」


 星原は「ああ」と納得したように声を漏らした。


「野球部に所属していたら練習で忙しいし、携帯電話なんて部活中に持ち歩けないからそういう回りくどい合図を使ったというわけね。だとしてもずいぶんずさんな計画に思えるわ。そうそう都合よく人間が動いてくれるものかしら」


 星原の疑問はもっともだ。


「実際そのとおりだよ。結論から言うと、彼女の計画はまるで筋書き通りにいかなかったみたいだ」

「へえ。でも月ノ下くんの方は大体彼女の言うとおりに動いていたんじゃあないの」

「彼女は僕と一緒に帰るとき最初の二、三回は彼の方には何も言っていなかったんだと思う。一回僕が彼女についてまわっただけでストーカー扱いするのは無理があるからね。そして頃合いを見て彼にストーカーの相談と花壇のメッセージの話をしたんだろう。でもそれが裏目に出たんだ」

「何があったの?」

「彼女と帰るようになって一週間くらいだったかな。僕のほうが明彦に本屋に行かないかと誘われちゃってね。断り切れなくてすでに花壇の合図を出していたけど彼女と一緒に帰るのをドタキャンすることになってしまったんだ」


 市ヶ谷くんはさっきこう言った。『一度見張ってみたときには現れなかったから加奈子の勘違いかなにかと思っていたが、本当にいたとはな』と。


 あれは多分あの時のことだ。


「彼女は困っただろうね。ストーカーにつきまとわれているから助けに来てほしいとお願いして、忙しい彼に部活を抜け出してまで来てもらったのにストーカー役の僕は現れない。とはいえ彼に『今日はつきまとっていたストーカーの人は急用で来ないことになった』なんて説明はできない」

「つまり市ヶ谷くんはストーカーにつきまとわれていると相談してきた彼女の力になろうと無理して部活を抜け出してきたのに、結局現れないから彼女の気のせいか何かなんじゃあないかと逆に勘繰るようになってしまったのかしら」

「それもあるだろうし、練習が厳しい野球部の活動から一度抜け出したことは彼にとって結構な負担になったんじゃあないかな。たぶん彼女の勘違いかもしれないあやふやな情報で二度、三度と抜け出すのは彼にとって厳しいことだった。アルバイトもあるしね。その結果、彼女と彼は口論を始めて気まずくなってしまったんだろう」

「その後、月ノ下くんは彼女に偶然出会ったのね」

「……ああ。喫茶店から泣いている彼女が出てくるのを見たんだ。あのとき彼女は慰めようとした僕に『自分には優しくしてもらう資格なんてない』『自分はずるくて汚い子』なんだといっていた」


 今にして思えば、あれは直接的には言えない僕に対する贖罪の言葉だったのではなかろうか。


「実際、市ヶ谷くんが僕をストーカーと思い込んで追い詰めたとしても、大ごとにならないように彼女は僕に逃げ道を用意していたとも考えられる。『たまたま帰り道が一緒になったからストーカーをしているように見えただけ』という言い訳をね」

「……」

「まあ、大事になって困るのは向こうも同じだろうし、僕を利用していたことには変わりないけれど、それでも僕は泣いているあの子を慰めたかった。笑顔にしてあげようと決めたんだ。……もっとも実際には彼女が立てた計画も僕の慰めもそもそも必要なくて、市ヶ谷くんは最初から彼女のことを想っていて大事な思い出の場所にちゃんと駆けつけたんだけどさ」


 星原は何とも言えない表情で僕を見下ろす。派手な交通事故や不幸なニュースを見て胸を痛めるような目だった。


「ちなみに聞くけれど」と彼女は前置きをして尋ねる。

「何だよ」

「……月ノ下くんは、あの子のことを」


 星原は何かモゴモゴと言いかけたが、僕を見て少し黙り込んで目をそらした。


「? ……何だよ?」

「いえ。月ノ下くんは何で、あの男の子がアルバイトしていたなんてこと知っているの?」

「ああ。実は、彼がスーパーでバイトしているところを昨日見かけてね。今日その人が彼女の友達だとわかって最近彼女と会えなくなった理由を察したんだ」

「そう」

「それで、星原は何でこんなところにいるんだ?」


 偶然にしてはタイミングが良すぎる気がする。


「たまたま駅前を歩いていたら、あなたが全速力で走っているのが見えたから、何事かと思ってついてきただけよ」と星原はすました顔で答えた。


 星原にはこの間一応デートコースを話してしまっていたんだよな。もしかして尾行していたんだろうかなんて思ったけれど、流石にそこまではしないような気もする。星原の表情からは何も読み取れなかった。本当の所は確かめようがないな。


「それで? 初デートの感想は?」

「……疲れた。しばらくデートなんかしたくもない。とっとと家に帰りたい。ベッドの上に寝っころがって漫画を読みふけりたい」

「……あ、そう」


 正直な気持ちではあったが、僕のダメ人間丸出しのセリフに星原もちょっと戸惑ったようだ。


 ふと僕は昨日の今頃、彼女との関係が深まることを期待して浮かれていたことを思い出した。女の子と付き合うことの難しさを知らず、あんな甘ったれた考えをしていた自分を張り倒したい。





 星原はそんな僕の顔を覗きこむように、柵にもたれながら口を開く。


「ねえ、月ノ下くん。今回、あなたは彼女のために悪役を演じたみたいだけど、他の選択肢もあったってわかっている?」

「他の選択肢?」

「全部正直に言えばよかったじゃない。『僕はあなたが彼女と喧嘩別れしたあと、彼女をデートに誘ったんだ。彼女も快く応じてくれたから一緒にいただけだ』って。一緒に帰る時には何も証拠なかったけど、今日会う時には携帯のメールのやり取りしていたんだから見せれば信じてもらえたでしょう。月ノ下くんは別にやましいことはしていないじゃない」

「そんなことしたら……」

「ええ、彼と彼女は気まずくなってしまうかもしれないわね。でもだから何? そんなの月ノ下くんの知ったことではないわ」

「星原、でもな。僕は一応落ち込んでいたあの子を慰めたくてデートに誘ったんだ。そりゃ、下心もなかったわけじゃないが、あの子を元気づけたくて誘ったんだ。だから……」


 星原は肩をすくめて、ため息をついた。


「そんな選択肢は思いつきもしなかったし、仮に思いついても選べないというわけね。まあそうだろうと思っていたわ。レストランに入って店員さんに気付いてもらえなくともクレームをつけることもできずにそのまま立ち去っていきそうな月ノ下くんだものねえ」


 人をどういう目で見ているんだ。いや、確かにそういう経験あるけれども。


「なあ、星原。僕にはこれと言って取り柄がない」

「え?」

「例えば、スポーツができる男だったら、スキーとかボーリングとかに連れて行って彼女をリードして楽しませるんだろう。会話が上手い男だったら、軽妙なトークで彼女を退屈させたりしないんだろう。行動力とか金とかがある男だったら、バイクでも買って彼女をツーリングにでも連れていったりするんだろう。だけど僕は運動神経がいいわけでもないし、女の子を楽しませるトークが出来るわけでもないし、どこか気の利いたところに連れて行くだけの行動力もない」

「……」

「映画とか食事とか定番のデートコースを回れば自分でもそれなりに彼女を楽しませられるんじゃないかと思ったけど、そんなの無理だった。彼女にすでに好きな人がいることを差し引いてもお粗末なリードだった。だけどこんな僕にもできることはある。それは彼女のために泥をかぶってやることなんだ」

「……月ノ下くん」

「僕のことを馬鹿みたいだって思うか? 実際その通りなんだろうな。でもさ。僕はたとえ人を裏切らないでいることが裏切られることと同義だとしても、そんな自分をやめたくないんだ。他の奴らから見れば僕は結局勝ち組になれない負け組なのかもしれないけどさ」 


 そう言って僕は笑った。こんな時には笑うしかあるまい。別に何かを失ったわけではないのだ。しいていうなら校内のお気に入りの場所が一つ無くなってしまったことぐらいだ。


 星原はそんな僕を見てじれったそうに頭をわしわしとかきむしる。それから「はあ」とため息をつく。ただ僕を見るその目はどこか暖かいものがあった。


「そういう考え方はどこかで直した方が良いと思うのだけれどね。でも、私もあなたのそういうところに助けられたし、それに今のあなたはほんの少し格好いいわ」

「……ほほう。それは皮肉のつもりか? 髪はぼさぼさ。顔は汗だく。服は汚れて、土手にはいつくばっている今の僕のどこが格好いいんだよ。まるでドブネズミだろ」


 正直言えば今の自分の姿なんて誰にも見られたくなかったくらいだ。


「写真に写らない美しさがあるってことよ」


 思わず苦笑いした。確か数十年前の有名なロックの歌詞だ。


「そういやこの間、星原と話したよなあ。『美しさは目に宿る』だったか? 確かにその通りだ。美しさは見る者の感性がそう感じさせる。主観する人間の目が世界の在り方を決めるんだ。そして僕と彼女は同じ場所にいて同じものを見ながら全然違うものを見出していた」


 そう。初めて話した時も、一緒に帰る約束をした時も。


 何もかもだ。


「僕が校舎裏の非常階段の上で夕陽に照らされる景色を見ていたとき、隣にいた彼女の目は野球部のグランドにいる彼の背中を追いかけていたんだ。僕が花壇で合図した彼女と一緒に帰る約束のメッセージは、彼女にとっては野球部の彼の気を引くためのものだった。そして僕が彼女と一緒に過ごした楽しい帰り道は彼女にとっては……」

「月ノ下くん」


 星原が唐突に僕の言葉を遮る。


「前に話した、才能には二種類あるという話を覚えている?」

「…………才能には身体能力みたいに単体で存在しうる才能と、容姿や絵を描く才能みたいに鑑賞する人間がいて初めて成立する才能があるって話か?」

「ええ。でも私は今思ったのだけれど。『人に優しくできる才能』は、誰かのために何かをしてあげたいとそう思える才能は果たしてどちらに該当すると思う?」

「優しくできるというのは、周囲へ共感する能力だろ。……身体的な能力の延長みたいなものだから前者じゃあないか?」

「私は後者だと思うわ。だって、その行為を優しさだと感じて評価する人間がいないと成立しないじゃない?」


 星原の言葉を聞いて僕は数秒ほど沈黙する。


 優しさは、人に何かしてあげたいと思う気持ちは、他の誰かが観測しないと成り立たないことなのだろうか。


「……いや。そんなことはないさ」

「……」

「だってその時は気づかなくとも後になってからそれが優しさだったとわかることもあるし。観測する人間がいなくとも……そう、たとえ誰にも気づいてもらえなくても誰かのためを想ってした行動に意味がないとか価値がないなんてことはないと思うんだ」


「あなたらしい答えだわ」と星原は否定も肯定もせずそうつぶやいて唐突に僕の前にしゃがみ込んだ。


 僕が黙ってみていると彼女は母親が子供をあやすように、僕の頭を優しく撫でた。星原の細い指が僕の髪の毛に触れ何度も愛撫する。同世代の女の子に頭を撫でられるなんて今までになかった経験だった。僕は何だか不思議な気持ちになる。


「……星原? 何しているんだ?」

「よくやったね、って褒めてあげているのよ。だって、彼女の方からしたら、月ノ下くんデートで上手くリードできなくて、いきなり悪口を言い始めた変な人としか思われないじゃない。私が褒めなかったら誰も月ノ下くんのこと褒めてあげないじゃない。月ノ下くんは月ノ下くんなりにその子のために頑張ったんでしょう」


 星原はそういって優しく微笑んで僕に手を差し伸べた。僕はその手を遠慮がちに掴む。


「星原。…………ありがとう」

「別にお礼を言われるようなことではないわ」

「いや、でもさ」


 僕は土手の上に上半身だけでもたれかかっている姿勢で、一方星原はスカートをはいて僕の前にしゃがみ込んでいた。つまり。


「パンツまで見せてもらっているし」


 次の瞬間、星原が無言で僕の手を引きはがした。


「おいっ!」


 声をあげるより早く、僕はずるりと土手から川面にすべり落ちていた。バチャンと音が響く。幸い深さはそれほどでもないので溺れることはないが、服はびっしょりと水につかり、川の中にしりもちをついていた。


「……慰めるためにわざと見せてくれていたんじゃなかったの?」

「そんな慰め方をする女子など、あなたの妄想の中にしか存在しない」


 同情して損をしたと言わんばかりに、星原は振り向きもせずに足早に去っていった。後に残されたのはおろしたての服を川の泥で汚して座り込む僕だけだった。




 ずぶ濡れになって服を汚して帰ってきた僕を見て、母さんはポカンと口を開けて僕を見た。


「あなた何しに行っていたの?」

「買い物ついでに映画を見てきただけだよ」

「最近の映画は服が濡れるほどの演出をするの?」

「……」


 流石に「デートをしていたらその子の彼氏が現れて逃げる羽目になったあげく、偶然通りかかった女友達に川に落とされた」とは説明できない。


 とりあえず「買い物帰りに不注意で転んだ拍子に公園の噴水の中に落ちたんだ」と苦しい言い訳をした。


 その後僕はシャワーを浴びて服を着替えて部屋に戻った。ベッドに身を横たえると、体が泥になって沈み込んでいくかのようだ。もう今日は動きたくないな、と頭の片隅で考える。


 疲労と水の中に落ちたのがこたえたのだろう。


 その日の夜、僕は風邪をひいて発熱し翌日の学校を休むことになった。

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