第24話 気まずい空気と逃走劇

 慣れないことをする緊張感からだろうか。見知らぬ人々の雑踏が僕を何とはなしに落ち着かない気持ちにさせる。翌日の午前十一時半、待ち合わせ場所の駅の改札で僕は大久保さんを待っていた。


 待たせてはいけないと思って十分前くらいに着くようにしていたが、時間になっても彼女は現れなかった。若干焦りながらメールを送ってみるとしばらくして返信がある。「ごめんなさい。出るのに時間がかかって少し遅れます」という内容が液晶画面に表示された。


 結局、約束の時間から十五分過ぎたところで彼女はやってきた。


「すいません。お待たせしました」

「いや、大丈夫だよ」


 丈の短いワンピースの上に半そでブラウスを羽織って現れた彼女は可愛らしくはあったが、少し硬い表情をしているように見える。


「それじゃ行こうか」

「はい」


 本格的に付き合っている恋人同士とかであればここで手をつなぐのだろう。けれど僕と大久保さんはまだ出会って間もないということもあって、とりあえず大久保さんのすぐ隣を歩くだけである。


「暑いね」

「そうですね」

「大久保さんは兄弟とかいるの?」

「兄がいます」

「そう、どんな感じ? 僕は一人っ子だからわからないんだけど」

「そうですね、ときどき説教とかする感じですかね。部屋を片付けろとか、あまり遅く帰って親に心配かけるなとか。お父さんも厳しいですね。……そういうところは」

「ふうん。園芸部ってそんなに遅いの?」

「ええ。雑草をとったり植え替えの準備をしたり。でもどちらかというと、友達と一緒に帰るので遅くなるほうが多いですね」

「そっか、僕は文芸部……といっても実質二人だけの同好会みたいなやつだけど。まあのんびり放課後おしゃべりするような感じかな」

「へえ、どんなこと話すんですか?」

「小説の構想とか感想とかかな」

「そうですか……」


 会話が途切れる。その後もどのあたりに住んでいるのかとか、趣味は何かなんて当たり障りのない話をしてみるが、どうにも続かない。一緒に帰った時にはそれなりに話題もあったのだが、大体のことはもう聞いてしまって何を言えばいいのかわからない。


 星原とか明彦とかと話すときには、話題なんていくらでも湧いてくるのだが。漫画とかこの前見た映画の話とか。でも大久保さんはあまり漫画とか読みそうにない感じだし、話題に出しづらい。そうこう言っているうちにレストランに着いてしまう。


「何にする?」と席に着いた僕は向かいの彼女に尋ねた。

「ああ、ではこのキノコとベーコンの和風パスタセットで」

「じゃあ、僕はカルボナーラのセットにするかな。……すいません」


 店員さんを呼び止めて注文を済ませる。


 料理が来るまでの間だけでも何か会話を、と思うのだが話題が思いつかない。これから見る映画の話でもしようかと思いついた時には、彼女は携帯電話をいじり始めていた。


 異性と過ごしているときに携帯いじる人ってどうなんだろう、一緒にいる相手に対して失礼じゃないかと僕は常日頃思っているのだが、実際に目の前でやられると何も言えない。これがもう少し親しい間柄なら何の遠慮もなく文句を言うのだが彼女と僕は知り合って数週間なのだ。初めてのデートで彼女の生活態度に注意をするというのも、さらに空気が気まずくなりそうでためらわれた。


 そして店に来て十五分ほど過ぎたのだがまだ料理が来ない。日曜日のお昼という時間帯もあって、予想以上に店が混雑しているのもあるのだろう。時間がかかっているらしい。とんだ誤算だ。


 その後「お待たせしました」と店員が料理を持ってきたが僕の分だけで彼女の方がまだだった。彼女の頼んだ分が来るまで待とうと思っていたのだが、大久保さんが唐突に口を開く。


「気にしないで、先に食べていてください」

「あ、うん」


 そう言われてしまっては、彼女の料理が来るまで待ち続けるというのも苦しい気がした。


 僕はもそもそとフォークを動かす。そして半分くらい食べたところで彼女の注文した分がテーブルに来た。


 食べ始めてすぐに彼女に話しかけるのはよくないかな、とタイミングを見ながら料理を口に運んでいたつもりだった。しかし、気が付くと僕が食べ終えてもまだ彼女の皿はほとんど中身が減っていない。



「お、美味しくなかった?」

「いえ、ちょっと脂っこくて。半分くらいで充分でした」

「そう」


 メールで聞いた時には特に嫌いなものはないって言っていたはずだが。


 結局、大久保さんは料理をほとんど残して食事を終えることになる。


「僕が会計持つから先に行っていて」

「はあ、どうも。ごちそう様です」


 後から思い返しても、料理の味なんてほとんどわからなかった。ただただ、ほとんど会話もなく胃の中に食べ物を詰め込む作業をこなしていた気分だ。


 いや、でも面白い映画でも見れば、気持ちも盛り上がるんじゃないか?


 僕は淡い期待を抱きながらレストランを出て、彼女と映画館に足を向けた。




 映画館入場口のパネルで上映内容を確認したが、僕が見たいと思っていた名作と評判高い洋画はすでに次の上映のチケットが売り切れていて二時間待ちになってしまう状況だった。そのためたまたま上映時間が近かった、特に有名俳優が出ているわけでもない、やっていることさえ知らなかったアクション映画を見ることになった。


 一応、彼女に事前に「何か見たい映画ある?」と聞いたところ「特にないので実際に行って何を見るか決めませんか?」という風に切り出されたので指定席のチケット予約等はしなかったのだが、それが裏目にでてしまったのだろうか。


 映画の内容はアクションは派手だが、特にストーリーが目新しいわけでもなく主人公の刑事が犯人を追いつめて逮捕したところで唐突に終わった。正直面白いともつまらないともいえない感じだ。


「終わったし、出ようか」

「…………はい」


 映画館を出たところで、大久保さんの顔をうかがう。特にどうということもない無表情だった。一応予定ではこの後、綺麗な夜景が見える公園に行くことになっているが、こんな雰囲気で行っていいものだろうか。


 いや! そもそも漫画とかアニメとかの中だと「可愛い女の子とデートをする」という行為はもっとこう楽しいものなんじゃなかったか!?


 もう僕ははっきり言って気まずくって、胃に穴が開きそうなんだが!


 一応彼女の好みをメールで聞いてそれに合わせたつもりなのに、彼女はまだ今日一緒に過ごした中で一度も笑顔を見せていなかった。


 何とか。何とかしてこの雰囲気をどうにかしないと!


 映画館を出て道路の横断歩道に来たところで、僕は彼女に話しかける。


「ああ、そういえばさ」

「?」

「子供のころ横断歩道を親と渡るときに、僕の足が遅いから母親が僕を早く渡らせようとして『あの青信号は今日最後の青信号なのよ!』って言ってせかしたりしたんだよ」

「……」

「だからさ、それを本気で信じた子供のころの僕は走って渡ってさ。渡れずに赤信号で引っかかった人たちを見て、『あの人たち今日ずっとあそこで待っていないといけないんだ』とか思っていたりしたんだよ」

「……あはは」


 一応自分としては、それなりに受ける漫談のつもりだったが、大久保さんはあまりピンとこなかったらしく愛想笑い程度に反応しただけだった。




 夕日に照らされる公園の入り口まできた時だった。


「すみません」

「?」

「やっぱり私帰ります。そういう気分じゃなくて」

「え」


 夜景の見える公園に行きたいって言ったのは、あなたなんですが。


「あ、いやちょっと待ってよ。のど乾かない? 映画館でも何も口に入れなかったしさ。そこの自販機でお茶でも買って、公園のベンチで飲んでから帰らない?」

「……はあ」


 何だか気乗りしないというか、しぶしぶといった雰囲気である。僕はとりあえず自販機まで走ると紅茶を二つ買って彼女の所に戻ろうとした。その時だった。


「可奈子!」

「……卓人くん!? どうして、ここに」


 一人の少年が大久保さんの所に駆け寄ってきた。息せき切ってはあはあと苦しそうに息をもらしながら、それでも伝えたいことがあると言わんばかりに大久保さんに声をかける。


「携帯に出なかったし、お前の家に電話したら出かけたって聞いてさ。……きっとここだって思ったんだ。一年前にここで夜景見て、来年も見ようって約束してただろ?」

「お、覚えていてくれたの?」

「忘れるわけないだろう。俺にとっても大切な思い出だったんだ。……何よりお前の誕生日じゃないか」


 誕生日? 今日が? 大久保さんの? 


 大久保さんに近づいた少年は、僕の存在に気づかずになおも話をつづけた。少年の顔を見てあれ、と僕は思わず首をかしげる。この顔は確か……。


「この間は感情的になってごめんな。実はこれを渡したくて……、準備していたんだけど、驚かすために内緒にしたかったんだ。プレゼント。受け取ってくれないか」

「え? あ、これってもしかして」

「お前が欲しいって言ってた腕時計。お店の人に言って、取っておいてもらったんだ」

「卓人……くん。私、わたし……」


 僕は落ち込んでいたのを慰めようと、どうにかして笑顔にして見せようとした彼女が、その日初めて心から嬉しそうに笑う瞬間を目にすることができた。


 ただし、僕以外の他の男の人に対して笑う所を。




 それにしても、この少年の顔には見覚えがあるような気がする。そうだ。確か昨日、「日野崎のスーパーで店員をしていたあの実直そうな少年」である。名前は確か市ヶ谷くんだ。


 僕は先週、喫茶店から出てきて泣いていた大久保さんが言っていたことを思い出す。


『あ、ええと。私、友達と喧嘩しちゃったんです』

『少し前はいつも一緒に帰っていたのに、最近何だか用事が出来たって言って、一緒に帰らなくなって。……理由を聞いてもはっきり答えてくれないし。あまりしつこく聞くなって怒り始めちゃって、私もそれでかっとなって口論になってそのまま喧嘩別れしちゃって』


 喧嘩した相手というのは、友達というより彼氏同然の男友達だったということか。ついでに彼に用事が出来て一緒に帰れなくなった理由も、昨日の日野崎の言葉から想像がつく。


『うちの学校の一年なんだよ。この間から高校生でも大丈夫なら自分もバイトさせてほしいって頼み込んできて、働いているんだ』

『でも、まあ短期間だけってことでお願いして来たし』


 市ヶ谷くんは彼女の誕生日のプレゼントのために短期間のバイトをしていたのだ。そしてそのことを秘密にしておきたかったのに急に一緒に帰らなくなったことを咎められて口論になったというわけだ。

 

 それで大久保さんは、彼とのことを吹っ切るつもりだったのか、それとも喧嘩別れしてしまったけどせめて一年前の約束を自分だけでも果たしたいと思ったのか、夜景の見える公園に行きたいと僕に言ったのだろう。


「あ、あの」

「? 可奈子? あの人がどうかしたのか?」


 大久保さんがここでようやく少し離れたところに立っている僕を見た。僕の存在を一瞬忘れていた様子だ。市ヶ谷くんも二人分の飲み物を持って立っている僕に気がついて不審そうな顔になる。どうやら僕が昨日会った客だとまだ気づいていないようだ。


 大久保さんの方はどうしようかとでも言いたげな、焦って困った顔をしていた。それはそうだろう。喧嘩別れしていた好きな男の子と仲直りできそうな機会が訪れたのに、自分は他の男、つまり僕とデートしているところだったのだから。


 だが、ここで市ヶ谷くんは予想外の言葉を口にする。


「もしかして、お前が最近加奈子につきまとっているっていうストーカーか? 一度見張ってみたときには現れなかったから加奈子の勘違いかなにかと思っていたが、本当にいたとはな」


 ストーカー? ああ、なるほど。


 僕は彼の一言で、時折不自然に思えた彼女の行動や今自分がやるべきことが何なのか、すべてが急にはっきりと見えてしまった。


「おいおい。ストーカー? 誤解するなよ。僕は大久保さんと一緒にいようとしただけだろ? どこの誰か知らないが、邪魔するなよな」


 僕はいら立ち紛れに大久保さんを自分の方に引き寄せようとする。


「触るな」


 市ヶ谷くんは僕からかばうように大久保さんの前に割り込んだ。


「これ以上、加奈子につきまとうようならただじゃ済まさないぞ」


 市ヶ谷くんは僕をにらみつける。僕よりも背は高いし、精悍な顔だちなので迫力があった。僕は内心びくびくしながら言葉を続ける。


「僕はただその子と付き合っているだけだよ。今日だって誘ったらちゃんと来てくれたんだからさ」

「そんなのお前が強引に誘って、彼女を脅えさせていただけだろ」

「おいおい。自分が目をつけてた女がほかの男と付き合うような尻軽だからって、むきになるなよな。僕は本当のこと言っただけだぜ?」


 その時だった。


 市ヶ谷くんが俊敏な足さばきを見せつつ僕との距離を一気につめたのは。


 自分が好きな女の子を侮辱されて激高したのだろう。もっとも僕がそう仕向けたのだが。


 だが市ヶ谷くんの行動を予測していた僕はその場から逃げだす算段をすでに心の中でしていたのである。とっさに飛びのいて、手に持っていた紅茶の缶を投げつける。これには彼も一瞬ひるんだ。


「こわあっ! つきあってられないよ」


 そう捨て台詞を残して僕はその場から逃げだした。


 これで僕という邪魔ものが消えて、後は二人だけで思い出の場所で再会できた絆を確かめ合って、いいムードになるはずだ。はずだったが……。


「待てよ! おい!」


 目論見に反して、彼は僕を追いかけてきてしまったのだ。 




 正直これは予想外だった。大久保さんをほったらかして、逃げる相手を追いかけてくることはないだろうと踏んでいたのだが。よほど腹を立てているらしい。


 僕はショッピングモール内の通路を走り抜け、息もたえだえになりながら車の通行が激しい大通りの歩道までどうにかたどり着いた。息をついて振り返ってみたら市ヶ谷くんはまだ諦めずに鬼のような形相で僕を道路の向かい側でにらんでいた。


 やれやれ。勘弁してくれ。


 運動神経で劣っている僕がまだ追いつかれていないのは、たまたま市ヶ谷くんが車の往来が激しい大通りの信号に引っかかったからだが、彼は歩道橋を見つけるやいなやこちら側に来ようと歩道橋の階段を駆け上がろうとしていた。


 仕方がない。もうひと頑張りだ。


 僕は限界に近づいていた心臓と肺と筋肉に鞭を打って走り出した。しかし大通りから駅の裏ぐらいまで来たところで、もうこれ以上走り続けるのは無理だと感じ始める。心臓がドクンドクンと鳴っていて息も苦しげに僕の口から耳障りな音を立てて漏れていた。あと数十秒で追いつかれてしまうだろう。


 その時、駅の裏から延びる道路の先に河川が目に入った。もうこの手しかなさそうだ。


 河川には二メートル半くらいの高さのコンクリートの土手があり、その下に足が付く程度の深さの川が流れている。土手の上には鉄柵が立てられていた。僕は急いで柵を乗り越えて土手に懸垂の要領でぶら下がった。


 もしも河川のすぐそばまで近づいてきたら見つかってしまうだろうが、遠目にはわからないし逆の方向へ向かったとパッと見で判断してくれるかもしれない。そこは正直賭けだった。


 僕は激しく息をつきたくなるのを懸命にこらえ、必死に気配を殺していた。両腕に全体重がかかって指が痛くなってくる。汗が全身から流れ出して服が張り付き不快感を催す。頭が割れそうなほどに僕の胸の鼓動だけが響いていた。


 ……どれくらいの時間がたったのだろう。


 実際は一分か二分ぐらいだと思うが、僕にはその数倍に感じられた。とその時、誰かがこっちに近づいてくる気配がある。


 頼むから気づかないでくれ、と僕は祈った。


 しかし祈りもむなしく、足音はだんだん近づいて僕のすぐ近くで止まった。


 僕は恐るおそる顔を上にあげる。


 土手の上から見下ろしていたのは予想外の人物だった。


「ほ、星原!? 何しているんだ、こんなところで!」

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