閑話 皇妹ハンネローレ
ガエリア帝国皇帝アーダルベルトの末の妹。二人の兄と二人の姉を持つ、庇護される末の皇女。それが、私、ハンネローレ・ガエリオス。
私にとって、4人のお兄様とお姉様は、どなたもかけがえのない方です。幼い頃から私を可愛がってくださった皆様を、私は愛しております。与えられた愛情の分、私が皆様を慕うのは当然のことです。
けれど、平和で穏やかだった私たちの時間は、随分と昔に崩れ去りました。
発端は、お父様の急死でしょう。そこから全てがめまぐるしく変化しました。
皇帝を継いだアーダルベルトお兄様。私のように、皇太后様やお母様と共に離宮へと居を移されたクラウディアお姉様。離宮で生活した後、学びたいと学園都市ケリティスへと留学されたエレオノーラお姉様。
……そして、何が心を蝕んだのか、アーダルベルトお兄様の即位に異を唱え、幾度も反逆を企てたテオドールお兄様。
ずっと昔、まだ私が本当の幼子だった頃、テオドールお兄様は、アーダルベルトお兄様の背中を必死に追いかける方でした。兄上のようになるのだと、いつか兄上を越えるのだと、真っ直ぐな瞳で語るあの方を、私は確かに見ています。
けれど、何かがどこかでテオドールお兄様をねじ曲げてしまった。追い続けた背中に届かないことなのか。それとも、背中しか見せてくれぬことになのか。私にはわからない、けれどおそらくは確かな苦悩がそこにはあったのでしょう。
それを知るのは、テオドールお兄様ただ一人。庇護される妹である私には、決して見せていただけない何か。
そうだとわかっていても、私はテオドールお兄様を愛しています。他の三人のお兄様お姉様と同じように、今も変わらず慕っているのです。
幾度もアーダルベルトお兄様に牙を剥き、何度敗れても諦めないテオドールお兄様の心境を、私が計ることは出来ません。けれど、届く手紙の端々には確かに私への愛情が滲んでいて、変わらぬものがそこにあることも、私は知っていました。
知っていたからこそ、思い続けました。
非力で無力な私に出来るのは、テオドールお兄様が孤立しないように祈ることだけでしたから。二人のお兄様のどちらの味方にも付かず、二人のお姉様のどちらの言い分にも傾かず。ただ、愛された事実を胸に刻み、愛を返す。それだけでした。
私が、テオドールお兄様を思う私の存在が、お兄様の寄る辺や帰る場所になれば良いと思っていました。少なくとも、私に手紙をくださる限り、私が手紙を返す限り、妹としてテオドールお兄様に添うことはできるのだと。
そんな中、幾度目かのテオドールお兄様のクーデター。今までと違ったのは、それが未然に防がれたということ。誰がどのようにして防いだのかが離宮に知らされたとき、私たちは驚きました。未来を予言する者が、アーダルベルトお兄様の傍らにいると聞いて。
その方が、どんな方なのかを皆で話しました。誰一人近しい場所に置かなかったアーダルベルトお兄様が、親友と呼ぶ相手がどんな方なのだろう、と。
けれど、それがどんな方でも私たちは良かったのです。常に一人で佇むアーダルベルトお兄様の、弟妹相手ですら弱さを吐き出せないあの方の側に、友として佇んでくださる方がいらっしゃるなら、それで。それだけで十分でした。
そしてまた、テオドールお兄様も変わられました。何があったのかは私にはあずかり知らぬこと。けれど、幽閉先から届けられた手紙の文面は、かつてのテオドールお兄様の内面を表しているようでした。
兄を慕い、妹を慈しみ、父母を敬愛した、優しいテオドールお兄様。己に足りぬものを知り、他者に教えを請うことも頼ることも当然としておられた、あの頃のテオドールお兄様の姿がありました。
私が、ずっと願い続けた、私たちの愛しいお兄様の姿が、そこにあったのです。思わず胸をなで下ろしたのは、二人のお兄様の間のわだかまりが解けるかもしれないと思ったからです。昔の、平和だったあの頃が戻るのではないか、と。
そんな折、アーダルベルトお兄様から私に手紙が届きました。テオドールお兄様の様子を見てきて欲しい、と。
私に否やはありませんでした。外部との接触を制限されているテオドールお兄様。お会いできるならば、お話ししたいことがたくさんありましたから。
そうして訪れた私を、テオドールお兄様は温かく迎えてくださいました。まるであの頃のように。幽閉されているとはいえ、その表情はとても穏やかで、まるで憑き物が落ちたかのようですらありました。
――お久しぶりです、テオドールお兄様。
――久しぶりだな、ハンナ。……お前にも、色々と心配をかけたようだ。
――いいえ。私は、何も。……お元気そうで何よりです。
言いたかったことはたくさんあったはずでした。聞きたいことも、多くあったはずなのです。けれど、テオドールお兄様の顔を見て、私に言えたのは当たり障りの無い言葉ばかりでした。
胸が詰まったのかもしれません。お父様が死んでから見ることのなかった、あの頃のテオドールお兄様を見出して、喜びが溢れたのかもしれません。そこに至るまで、お兄様が何を思い、何を悩み、何を悔やみ、何に足掻いたかを知らぬ私に、言える言葉などなかったのだと思います。
それでも、あの頃からずっと変わりないものがありました。
私を慈しんでくださるテオドールお兄様の眼差し。そのお兄様の傍らに、静かに佇む猫
言葉を交わせる時間はあまり多くはありませんでした。それでも、あの頃のように穏やかに雑談を交わせる時間が、私には嬉しかった。今のテオドールお兄様なら大丈夫だと、そう思えました。
まだ、アーダルベルトお兄様への感情を完全に整理することは出来ないと告げたテオドールお兄様。それでも、自分自身の心と向き合おうと決められたというだけで、十分だと思いました。立ち止まり、踏みとどまり、振り返り、落とした多くを拾おうとされているだけでも未来が見えるのですから。
ふと気になって、私はテオドールお兄様に彼の方についてお聞きしました。未来を見通す予言の参謀。アーダルベルトお兄様が友と呼ぶ方が、どのような方なのか、と。
テオドールお兄様の答えは、私の予想とは違いました。
――変な女だ。
――……え?
――気味が悪いほどにこちらの状態を把握している。発言に容赦がない。遠慮もない。
――テオドールお兄様?
――だが、知恵者というのとは違う。アレはこう、感情で動いている類いの人間だ。どう考えても兄上とは対極すぎる。
自らが敗れた相手への感情がそんな言葉を告げさせるのかと思いましたが、どうやら違うようです。困ったような顔でお兄様の背後に控える青年が、それでも時折頷いていたので、おそらくはそういう方なのでしょう。
それと同時に、言葉は辛辣でもテオドールお兄様の中に悪感情はないようでした。不思議な方、というのが私の印象。敵対し、完膚なきまでに叩き潰されたテオドールお兄様が恨みを抱かないような方。お会いするのが楽しみだと、そう思いました。
テオドールお兄様と別れ、言いつけ通りにアーダルベルトお兄様の元へ足を運んだ私は、そこでミュー様と顔を合わせることになりました。
黒髪黒目の、少年のような女性。子供のような闊達さと、大人としての分別と、少女の無邪気さとを兼ね備えたような不思議な人でした。私が出会ったことのないタイプの方。
それが、第一印象。
言葉を交わせば、真っ直ぐな方なのだとわかりました。自分の感情を表に出すことを厭わない。相手が誰でも素直に生きる方。その自由さが、多くの柵に縛られたアーダルベルトお兄様の心に届いたのだと、そう思いました。
少しだけ不思議だったのは、アーダルベルトお兄様に対しては砕けた態度を取られるのに、私相手には畏まってしまわれたこと。皇帝に畏まらず、皇妹に緊張するなんて、奇妙な方です。でもそれは、それだけアーダルベルトお兄様と親しいということなのだと思うと、胸が温かくなりました。
ミュー様と言葉を交わすアーダルベルトお兄様の姿は、私の知らないお兄様でした。誰の前でも見せることのなかった、剥き出しの青年らしい表情。気を許した相手にならば、懐に入ることを許した相手にならば、こんな顔をされるのだと思いました。
庇護する相手であるのは、私たちと変わらないのでしょう。非力な人間である彼女のことを、お兄様が案じておられるのは言葉の端々から伝わります。けれど、同時に対等な存在として言葉を交わしておられるのも事実。
何という、得難いお方。孤高の皇帝であったアーダルベルトお兄様の隣に、当たり前のように佇んで笑える方。その存在が、どこか遠い存在だったアーダルベルトお兄様を引き留めているように、私には見えました。
テオドールお兄様の傍らに、あの青年がいるように。アーダルベルトお兄様の隣には、ミュー様がいてくださる。妹である私たちでは添えない場所に、お兄様たちは友と呼ぶ大切な存在を見出した。……これならきっと、私が心配するようなことはもう、起こらない。
一人ではないのなら、大丈夫でしょう。私にはお姉様たちがいてくださるけれど、お兄様たちはひとりぼっちに見えました。友を得て、支えられることを知ったお兄様たちが、いつか互いの手を取ってくださることを、私は夢見るのです。
いつか、皆で笑って共に過ごせる日が来ますように。そのために私に出来ることがあるならば、精一杯務めましょう。皆の、妹として。
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