閑話 皇妹クラウディア

 私の名前はクラウディア・ガエリオス。ガエリア帝国皇帝、アーダルベルト・ガエリオスの妹である。

 我が兄は、……我が、敬愛する兄上は、幼き頃より誰よりも皇族としての誇りと使命と共にあった。私達の前ではいつも優しい兄上であったが、同時にその背中に多大なる重責を背負っていることも、私は知っていた。そして、女子おなごの身に過ぎぬ私では、決して兄上の力にはなれないことも。

 皇帝になれるのはただ一人。だからこそ、兄上は誰の助けも得ようとしなかった。少なくとも、庇護すべき存在と定めた私達を、頼る相手にはして下さらなかった。至らぬ我らが悪いのだろう。兄上一人に全てを背負わせて、父上が亡くなったとき、よわい16の兄上に皇帝の座を押しつけることになったのは、紛れもない事実なのだから。

 いつの日か兄上の力になるのだと、せめて兄上の手を煩わせぬ程度にはと、武芸に励んだ。女である私達は、それだけで狙われることも多いだろうと。愛すべき妹達を、愛おしき母上達を守るのは、長姉として生まれた私の役目なのだと自分に言い聞かせて。


 けれど私は、本当は、女ではなく、男に生まれたかったのだ。


 母上より希少種であるユキヒョウとしての性質を受け継いだことも、客観的に見て女性として申し分の無い容姿で生まれたことも、私にとっては利点ではなかった。長所でもなかった。ただ女であるというだけで、私は兄上の隣に立てないのだから。

 せめて、女であっても獅子として生まれたかった。獅子は、我ら獣人ベスティの中でも頑健で知られる種族。女であってもその身体能力を保証される種でもある。父よりその性質を受け継ぐことが出来ていれば、私も今少しは、庇護されるばかりの妹ではなかったかも知れない、と。

 全ては詮無いことだと解っている。私がユキヒョウとして生まれたことも、女として生まれたことも、決して悪意あることではないのだ。兄上は、私を妹として慈しんでくださっている。それもしっかりと解っている。


 解っているからこそ、私は、己の立場を理解しない愚兄が許せないのだろう。


 テオドール・ガエリオス。私と兄上と母を同じくする存在。年の近い弟であり、幼い頃は確かに兄の背中を追う良き弟であった筈の次兄は、何時しかその存在を変質させた。ただ兄を慕っていた弟は姿を消して、越えられぬ壁を恨むような愚かな男に成り果てた。

 愚兄、と呼ぶことすら腹立たしい。アレを兄と呼ばねばならぬことが、今の私にはただ厭わしい。私が願って止まない全てを持ちながら、誰より兄上の苦労を見知っているはずでありながら、己のことしか考えぬあの男を、私はきっと、生涯許すことはないだろう。

 だからこそ、先だっての謀反が未遂に終わったことを、私は確かに喜んでいる。兄上に、兄上の治世にいらぬ汚点を刻まれずに済んだという意味で。愚兄の存在など、歴史からも人々の記憶からも消えてしまえば良いと思っているが、それはアレが勝手に滅んでくれれば良いと思うだけであり、兄上の手を煩わせることなど許せるわけがない。

 ……許可をいただければ、私のこの手で斬り捨てても良いのだが。確かにアレもそれなりの使い手ではあるだろうが、魔法を得手としている分、私に分もある。まぁ、兄上が許されないのだろうが。まったく、何故アレにそこまで温情をかけられるのか。

 そう、兄上は誰にでも優しい。平等に優しいのだ。昔から我ら弟妹には優しい兄上ではあったが、皇帝として即位されて後は、そこに全ての民への優しさが加わった気がする。けれど、誰にでも優しいと言うことは、誰にも心を許していないということだ。少なくとも私は、そう思う。

 兄上の世界は、途方もなく狭い。誰かに見せる世界が、本当に少ないのだ。皇帝というのは孤独なものである、とは祖父の言葉だった。並び立つ存在はいないのだと告げた祖父の言葉の通りに、兄上は独りだ。誰かが側に居て仕えていても、兄上の心に寄り添うことが許される存在は、いなかった。


 ……そう、いなかった・・・・・、だ。


 天の気まぐれか、女神の祝福か。何の因果かは誰にも解らないが、兄上は無二の半身と呼ぶべき友を得られた。それが異世界からの召喚者であろうと、妙齢の女性であろうと、そんなことはどうでも良いのだ。重要なのはただ、兄上が彼の人を友と呼んでいるということなのだから。

 ミュー様と我らが呼ぶあの方は、兄上の生まれて初めての友となられた方だ。異世界から召喚され、この世界の未来を予言する力を有した不思議な女性。けれど、決して奢ったところなど存在しない、どこまでも真っ直ぐとした気性の持ち主だ。

 裏も表も打算も下心も持たない存在。そして、ガエリア帝国の皇帝である兄上を相手に、何一つ気負わない存在。兄上を、ただの一人の青年として見てくれた、得難い存在。兄上が心を預けるのも納得できるというものだ。

 だからこそ、お会いしたいと思っていた。けれど、実際に顔を見て、言葉を交わしても、この胸に抱えた感情の半分も伝えることが出来なかった。貴方がいてくれて良かったと。貴方の存在に感謝しているのだと。そう思っているのに、言葉にするとひどく空虚になりそうで何も言えなかった。

 異母妹いもうとであるエレオノーラに提案された、ミュー様の護衛を私が引き受けるという話は、兄上によって却下されてしまった。私もエレオノーラも、それが最善だと思ったのに、兄上のお考えは違ったようだ。男であるライナーよりも、女の私の方が常に側に侍れると思ったのだけれど。


――兄様はきっと、姉様の身を案じておられるのですわ。

――だが、それでも私は兄上のお役に立ちたかったのだ。

――えぇ、わかります。私も同じ気持ちですわ。


 エレオノーラに言われずとも、わかっている。兄上が私の提案を却下されたのは、私を庇護されるべき存在として考えておられるからだろう。どれほど戦う術を身につけても、その実力を兄上に認められても、私は結局、皇女や皇妹というしがらみからは抜け出せないのだ。

 ミュー様がして下さっていることは、私にも、エレオノーラにも、ハンネローレにも、そしてあの愚かな次兄にも出来なかったことだ。こちらが寄り添おうとしても、決して傍らを許してくれない兄上の隣に、当然のように存在すること。それを容易くなしえていながら、ミュー様はどこまでも気負ったところがなかった。皇帝に友と呼ばれても、彼女はどこまでも自然体だった。

 手合わせの合間、エーレンフリートに訪ねてみた。あの男は、私と同じように兄上第一主義だ。他者のように血筋や家柄、役職と言ったしがらみなど考えもせず、ただ兄上のみを判断基準にする男。だからこそ、その男の彼女に対する評価を聞いてみたかったのだ。

 私の問いかけに、エーレンフリートは心底面倒そうにしながら答えた。あの男は兄上だけが忠義の対象で、だからこそ私が相手でも口調こそ丁寧ながら態度は決してかしこまらない。ライナーと違って。


――時折腹の立つ言動もありますが、基本的に行動理由と目指す先が陛下の御為であることに疑いはありません。

――お前が断言出来るというのは、珍しいな。

――普段はアホのようですが、陛下の平穏な日々の為に必死だというのは事実です。それに……。

――それに?

――……おそらくは、あの方が側にいるということが、陛下の心の安寧に繋がっているかと。

――そうか……。


 付け加えた内容に関してだけはどこか嫌そうに告げていたが、まぁ、そこがあの男らしいということだろう。だがそれでも、あのエーレンフリートにそこまで言わせる存在というのは、素晴らしいものがある。

 そして、私は自分の判断が間違っていないことも理解した。あの方は、兄上が生まれて初めて手にした友。次期皇帝として生まれ育った兄上が、望めもしないと最初から諦めていた対等な存在。ミュー様と言葉を交わす兄上の姿は、私達の慕う長兄ではなく、敬愛する皇帝陛下でもなく、ただの一人の青年だった。

 それを、私はただ、喜ばしく思った。兄として、皇帝として、兄上はいつも己を律して生きてこられた。その兄上の心が自由でいられる相手を見つけられたというのなら、これに勝る喜びはない。

 風の噂で聞いていた話が事実だったとわかって、私はホッとした。母上も、側室様も、きっと安心されるだろう。兄上の傍らにいるのが頼れる参謀殿であるというだけでなく、二心ふたごころなく兄上を思ってくださっている方であり、兄上もまた誰より心を預けておられるというのだから。

 ……まぁ、侍女や女官は何故か知らんが兄上とミュー様の間に男女の情愛のようなものを期待しているようだが。何をどうしたらそんなものがあると思うのか、まったくわからない。お二人の絆はむしろ、男女の情愛が絡んでいないからこそのものだと思うのだが。不思議なものだ。

 出来るならば、あの兄上のお姿を母上たちにお見せしたい。ごくありふれた若者のように楽しげに過ごされる兄上の姿など、私たちは誰も見たことが無かったのだから。けれどそれは難しいだろうとわかっているので、私は己が見聞きしたことをきちんと伝えようと思うのだ。この喜びを分かち合う為に。

 そういえば、他愛ない雑談をしていたときに、ミュー様が随分と奇妙な顔をされたのは気にかかる。私は別に、妙なことは言っていないと思うのだが。


――クラウさんって、本当に、本っ当にアディのこと好きですよねぇ……。

――はい。私にとって兄上は、この世で一番尊敬するお方ですから。

――アディが一番なんだ……。


 正直にお答えしただけだというのに、何故かミュー様が奇妙な顔をされた。私が兄上を誰より敬愛しているのは事実だというのに、何がいけなかったのだろうか。何度考えてもよくわからない。

 とはいえ、私の発言を不快に思われたわけではないらしい。ご機嫌を損ねたのでなければ、私にとってはそれで十分だ。あの方に嫌われたくはない。

 私が離宮へ戻る日、ミュー様はわざわざ見送りに来てくださった。兄上は政務で忙しいので不在だったが、むしろ私はそれで良いと思っている。兄上のお手を煩わせるつもりはないのだ。元より、私の我が儘で滞在を許されていたようなものなのだから。

 だから、見送りに来てくださったミュー様が「アディは忙しくて見送りに来れないって言ってた。ごめんね、クラウさん」とそのことを詫びてこられたのには、心底驚いた。

 それを素直に伝えると、ミュー様は「いや、家族なんだからそれで普通でしょ?」とまるで何でも無いことのように言われた。この方は、どこまでも兄上をただの青年として見ているのだと気づく。……その割に、私やエレオノーラを相手に畏まっておられるのが理解できないのだが。まぁ、おいおい慣れていただこう。

 別れのとき、必要ないと思いつつも私はミュー様にお願いをしてしまった。どうしても、奇跡のようなあの方の存在を確たるものにしておきたくて。


――ミュー様、どうぞ、これからも兄上をよろしくお願いします。

――いきなりどうしたんですか?

――私は兄上のお役に立てないようですので、せめて、ミュー様にお願いしておこうと思いました。

――大丈夫です。お願いされなくても、一応あいつの役に立とうと思って頑張ってますから。

――……ありがとうございます。


 私の言葉に、ミュー様は当たり前のように笑って答えてくださった。その言葉に、安堵した。この方はきっと、何があろうとも兄上の側にいてくださるのだろうと。兄上がその存在を望む限り、変わらず友でいてくださるのだろうと。それが私には本当に、嬉しかった。

 いつか、もしも兄上やミュー様が私の力を必要としてくださる日が来るのならば。そのときには、持てる全ての力でお二人の役に立とうと、そう、決意を新たにした。それが、私たちをずっと護ってくださった兄上に出来る、せめてもの恩返しだと信じて。




 願わくば、兄上とミュー様に女神の祝福を。お二人の、末永く平穏な日々をと、私はただ、願うのである。




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