振り返ってはいけない

「いいですか? 決して振り返ってはいけませんよ」

 冥府の神様にそう言われて私は深く頷いた。

「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」

 真っ暗で自分の指先すら見えない中、私は亡くした娘だと言われた「それ」を負ぶって帰り道を歩き出した。

 道も何も見えはしない。ただひたすらに、上へ上へと向かって歩いていく。足元ではぱりぱりと乾いた軽い物が踏まれて転がり、あるいは割れる音がする。それが何であるか、必死で考えないようにしながら登っていった。

 どれだけ歩いただろう。半日、いや丸一昼夜程も歩いたかもしれない。すでに膝も腰も限界にきていた。

「ねえ」

 背中から不意に懐かしい娘の声がした。

「お母さま。お顔見せて」

 肉のない、小石を連ねたような手が私の顎に回ってくる。五つの子どもとは思えないその力に抗いながら、それでも何とか前へ前へと歩を進めた。

 と、急に辺りが明るくなった。見上げると深い森の木々の間から月が見える。

 戻ったのだ。

 そう喜んで振り返ろうとした時、娘の指に気がついた。

 私の顎に掛かったままのその指は、未だ小石のように硬いままだった。

 冥府の神様は「いつまで」振り返ってはいけないと言っただろうか。「いつになったら」娘の顔を見ていいと言っただろうか。


 それから私は背中を振り向かないで暮らしている。田を耕す時も、風呂を沸かす時も、寝る時も。

 決して寂しくはない。娘はいつでもそこにいるから。

「ねえ、お母さま。お顔見せて」

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800字ショートストーリー 石谷 弘 @Sekiya

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