Episode.40:義の果てのカタストロフ




「…………満足した?」


 苦しげに、壁に寄りかかりながら母さんは銃を下ろした。


 ────スペツナズナイフ。

 柄に備えられた“ボタン”を押すと、刃身が発射されるナイフ。俺は土壇場でそれの存在を思い出したのだ。

 祈る思いで放った刃は、母さんの右手の腱を正確に断った。同時に放たれた銃弾は、俺の頰を僅かに掠めただけだった。


「……………………」

「早く、殺しなさい。私の負けなんだから…………」


 落としていたナイフを拾い、母さんの目の前に来る。割れたステンドガラスから差し込む月明かりに照らされた母さんは────とても綺麗だった。

 その喉を切り裂いてしまえば俺の十年間が終わる。終止符が打てる。その為にここまで来たのだろう……?

 ナイフを喉に当てがおうと思うが、その手は自然に止まっていた。


「なんで、母さんはこの仕事をしていたんだ?」

「…………そうね、この仕事をするしかなかったからかな」


 にこやかに笑う顔は昔と変わらなくて、でもその笑顔はもう二度と向けてもらえないのだと悟った。

 だが、全ての真実を知るのが義務なのだろう。無為の死にするわけにはいかない。母さんは確かに、俺の正義の中では────悪だったのだから。

 手のひらを返すようなことは、今まで殺してきた犯罪者達の正義を認めることになる。


「断れなかったのか……?」

「ええ、私のお父さん、悟のおじいちゃんてね、昔からそういう話を処理する、いわば公安のドンみたいな存在だったの。だから、昔からすっごく鍛えられてね……」

「母さんじゃなくてよかったじゃないか……」


 母さんでなければ、こうやって殺すことにも躊躇なかったはずだ。

 俺は、ゆっくりと彼女の喉にナイフをあてがった。

 いつでも、このナイフを押せば命は奪える。


「私はね、超法規的措置を受けて任務を受けていた。それだからストーリーテラーを殺せたし、犯罪者を処分し続けたのよ。だから、私の仕事はもう終わりかしらね……」

「なんだ、もう終わりって、無責任じゃないか……」


 責めるような口調で、思った事が反射的に出てしまう。

 だけれども、母さんは責められるような事は、してきてないと思っているはずだ。ましてや殺すなんて事、そんな事は────


「…………母さん、一緒に、暮らさないか?」


 そんなつもりはなかった。いや、あったのかもしれない。何故、母さんを今殺さなければいけないのだろうか。そんな問いから、生まれた答えが漏れたのかもしれない。

 自分のやってきたことに反するとしても、その行いを責める人間はどこにいるのだろうか────


「何を言っているの、私はあなたの敵よ。殺さなければ、私が殺すわよ」


 言っていることは至極当然な、冷酷な話をしているのに、その声にはどこか温かみがあった。

 母さんは前から変わらない。悪い事は悪いといい、正しいことはやり遂げなさいと応援してくれる、優しい母さんだった。


「別にいい。母さんからは、色々教えてもらわなきゃ困る」

「なによそれ…………そうね、私もたくさん貴方とお話したかったっていうのもあるし……殺されるのは後にしてあげる。だから今は少し休ませて?」


 今の彼女の顔は間違いなく、息子を愛する母親の顔をしていた。俺はどんな顔をしているのだろうか。

 結局、人は自分本位なのかもしれない。いつ殺すか、殺されるかわからない中で、それでもその選択肢を選びたくなる、その方が幸せだと思うんだから、本当に不思議なものだ。


「ねぇ、聞いてほしい事があるの」


 久しぶりの、母さんからの話。俺は一言一句聞き逃さないように耳を澄ませた。


「確かに、テロを起こしたのはストーリーテラーだったわ。だけど、ストーリーテラーとてあの仕事はとある人間にインスピレーションを受けて、もとい依頼を受けてやった事なの。その依頼主はね────」




 その先は、聞こえなかった。




 母さんの口は開いたまま閉じようとせず、声も出さなかった。後からやって来る轟音が、その事実を俺に認識させた。


「かあ……さん……?」

「あっ…………ははは…………なるほどね…………」



 その胸には、大きな孔が空いていた。絶えず紅い液体が吹き出し、その度に呼吸の音にノイズが混ざる。

 その事実は、今度こそ否定したい事実だった。どうしてこうなるのか。

 俺が、今までの信条に反した罰なのだろうか。それだったら俺のせいだ。


「ごめんね…………ほんとはね…………いっしょに……くらしたかった…………」

「もう、もう喋らないでくれよ──!!」


 母さんの頰に大粒の涙が転がる。そんな、最期まで大切な家族の涙なんて見たくなかった。指でそっとその雫を拭う。

 修道服にできたシミを見て、やっと自分が泣いていることに気づいた。


「なかないでよ……いじっぱりで……がんばりやさんの…………さとる…………」

「だって、だって…………母さんに……死んで欲しくないから……!!」


 暖かい手が、俺の頰を撫でてくれる。昔もこんな風に撫でてくれた。喧嘩して帰ってきたときにこうやって撫でて一言。


『お疲れ様、お風呂入ってきなさい』


 それだけだった。その言葉が、もう聞けない。


「かあさんね…………さとるに……ごはんつくるの…………すきだったんだ…………」

「だったら、もっと作ってくれよ! 母さんのせいでここまで、ここまで────!!」


 唇にそっと人差し指があてがわれる。その人差し指は鉄の匂いがしていた。


「ごめんね…………でも…………さいごは……さとるに………………」


 ────ころされたかったなぁ。

 母さんの言葉が、かすれるような声で紡がれたその言葉が、ゆっくりと俺の心に沁みていく。

 もう、母さんは喋ることはなかった。何故だろうか。

 もう喋ることのない、動くことのない人間の体を何度も何度も目にしてきたはずだ。それなのに、どうして今更悲しんでいるのだろうか。



「母さん、分かってやれなくて、ごめん…………」


 母さんの目蓋をゆっくりと閉じてやる。最期に息子の顔を見られたのは、幸せだったのだろうか。

 その体をゆっくりと抱き上げる。まだ温かみのある体を抱きしめて、持ち上げる。昔は逆だったのに、今こんな形で抱き上げるとは思っていなかった。

 そのまま、礼拝堂を出て行く。

 硝煙の臭い残る礼拝堂、その端に転がる弾を残して俺はその場所を後にした。


 修道院の向こうに、一本のイチジクの木が生えていた。

 昔、母さんはこの修道院にいた時期があった、この修道院の閉鎖のニュースが流れた時にそう言っていた気がする。


『よく院長さんに見つからないように、イチジクの実を食べていたのよ。悟にも食べさせてあげたいなぁ』


 あんな風に笑っていた母さんはもういない。もう笑うことはない。過去の話なんだ。だけれども、母さんにとってそれは確かに、大切な思い出だったのだ。

 この十年間、俺は自分の正義の為に生き続けてきた。自分の大切な人を殺した憎き敵、それを殺して、自分のような被害者を増やしたくなかった。それだけだった。

 母さんはも同じだった。自分の夫を殺し、自分の息子に近かった極悪人を殺すしかなかった。その役目のためだけに、愛する息子を切り捨てて非情な任務を遂行した。


 正義は、どこに在ったのだろうか。一体なんだったのだろうか。その答えはまだ見つかっていない。

 イチジクの木の太く頼もしい幹、固いところで申し訳なく思いながら、俺はそこに母さんを寄りかからせた。


「母さん、お疲れ様。まだ、待っててくれよ」


 ────うん、分かった。


 そう言われたような、そんな暖かい風が丘に吹いた。俺はそれを纏いながら、丘を降りた。



「やっと、終わったか。これからどうするかな…………」



 東の空は少しずつ赤らみ始めている。俺はまた森に戻っていった。 

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