Episode.35:苦悶のグリーフ




「ただいま……なんだ起きてたのか」


 埠頭から戻ってくると、クラリスがソファに座っていた。その後ろ姿はやけに疲れているようにも見える。こういう時は触らない方がいいのだろう。


「ご飯、お腹空いたから勝手に作った。そこに貴方の分もあるから」


 テーブルの上には、ご飯と麻婆豆腐が置かれている。匂いを嗅ぐ限り全て手作りしたようだ。クラリスは料理を作れないとまで思っていたが、意外と作れる事に驚きつつ俺はそれを温め始めた。

 パソコンを立ち上げて、師匠から貰った“座標”のデータを解析する。ここから北に一時間程車を走らせた野原の中の建物──修道院の跡地が示されている。

 電子レンジの加温が終わり、いい匂いのする皿を取り出す。炊飯器に入っていたご飯をよそって、ラップを取り外すと、丁度いい感じの湯気が出ていた。


「お前、辛いの苦手じゃなかったか?」

「甘いのが好きなだけで、別に辛いのが嫌いな訳じゃないから」


 いつにも増して素っ気無い返事に納得しつつ俺は、麻婆豆腐を口に入れた。

 程よい辛味と、際立つ苦味が──喉を焼くような感覚を味わせてくる。

 ────これは、毒だ。

 急いで吐き出して、口の中を洗浄する。水が大量に必要になる、これを早く薄めなくてはいけない。

 顔をあげると、先ほどとは全く違う氷のような表情のクラリスがそこにいた。

 これは料理の上手い下手じゃない、明らかに殺意を持った毒を盛られている──!


 身体が勝手に動いていた。マカロフを手にした彼女の身体をいち早くソファに押し倒す。抵抗させる隙を与えずに、彼女の首を両手で締め上げていた。

 このまま殺していいのか、だが殺しておかないとこの後の仕事に支障が出るかもしれない。


「あっ……んぅ……うっ、くぅぅ……!!」


 艶かしい声を出しながら彼女は身をよじっていた。だがそれだけだ。俺の手を引きはがそうともせず、俺の身体を引き離そうともしない。ただ身体をよじらせてその苦しみに耐えているだけだった。

 ────殺せ、殺せ、裏切り者は殺してしまえ。

 ────殺すな、殺すな、これには裏があるはずだ。

 二つの相反する指令が脳を駆け巡る。身体は殺そうとしているのに、心はそれを止めようとしている。

 彼女は必死に息を吸おうとしている。口からは涎を垂らし、涙を流して必死に生きようとしている。それなのに、彼女の手は、足は何も抵抗をしようとしない。


「はや……ころ…………せっ……!!」


 手が離れる。彼女の叫びを聞いて勝手に離したのだろう。一気に酸素がなだれ込んで来たのを制御できていないのか、彼女は喉を押さえ込んで咳き込んでいる。

 『早く殺せ』彼女はそう言ったはずだ。ならば殺せばいいじゃないか、だがそれは許されないと心がストッパーをかけてくる。

 彼女は着ていた服を乱しながら、苦しそうにこちらを睨んでいる。


「何故、何故私を殺さない────!」


 今度は向こうからナイフと共に、俺の首に手を伸ばしてくる。それなのに、いつも見せる正確な殺意とは違った──憎悪による感情的な動きにしか見えなかった。

 手をはねのけて、そのまま手首をひねり壊そうと試みる。だが、彼女は身体ごとよじらせてそれを回避した。そのまま俺の胸にナイフを突き刺そうとする。


「……!! お前──!」


 悔しそうな声はクラリスから。彼女のナイフは刃が曲がっていた。師匠に会うにあたって、防刃チョッキを着ていたのは正解だったようだ。

 刃通らぬ焦りから、首を締めようと俺の首に手を伸ばす。その腕を引いて、また上下を反転させる。今度の彼女は必死に抵抗していた。


「死ね、私に殺させろ、じゃなきゃ私を殺せ──!」


 悲痛な叫びと共に、手足をもがくように動かしている。もはや思考と行動がバラバラになっているようだ。こんなのは俺にもどうしようもない。ここが戦場ならば慈悲を下すのだが、そんな状況ではない────!!


「離せ、死ねよ────んんっ?!」


 唇を重ねて、彼女を静かにさせる。息をさせないほど濃密に、だが情を抱かせないように冷酷に。彼女は空気を求めて離そうと顔を背ける。だが、それをさせないように頭に手を回して、重ね続ける。彼女の目には、涙が溜まっていた。

 そっと唇を離すと、彼女は放心したような表情を見せていた。そして一言、


「…………どうして?」


 問いを投げかけてくる。彼女に情があった訳ではない。そんなはずは無い、だが身体が衝動的に動いていた。

 つくづく自分の衝動に呆れてしまう。空が殺されてからそんな情欲を一切抱いてこなかったはずだ。

 それなのに、咄嗟にとった行動がキスこれか。


「ねぇ、どうして殺してくれないの、私は貴方を殺そうとした──!」

「……死ぬのは今じゃない、そう思ったからだろうな」


 この先、殺しておけばよかったと後悔する時が来るのかもしれない。だが、今殺すには惜しい女だ。そう思ったからこそ、今殺さなかった。きっと、そうなのだろう。


「なによ……殺してくれたっていいじゃない……誰も私を殺してくれないのに……!!」


 彼女は息を詰まらせ、咽び泣きながら心中を吐露していく。震える筈の無い肩が小刻みに震え、彼女の碧い瞳は、しきりに涙を流していた。

 自分を殺してほしい、そんな願いを抱く程に彼女は追い詰められている、疑いのない事実だ。


「なぜ、何故お前を殺さなくてはいけないんだ」

「私は、祖国に身命を捧げてきた。たとえ故郷が焼かれようとも、家族を殺されようとも私は! 自分に与えられた仕事を忠実にこなそうとしてきた。だからこそ、だからこそを殺そうとしたんだ!」


 彼女の慟哭が、リビングに響き続ける。仔猫の足音が聞こえるが、それ以外には無音だ。彼女の心の叫びだけがこの部屋に存在を許されている。そんな錯覚に陥るほどだった。


「それなのに、お前は、お前は必死に生きようとしているじゃないか。敵であるはずの私ですら邪険にせず利用して、馬鹿みたいに背中をこっちに向けて。そんなに生きたがっている姿を見せられたら……私には殺すことなんてできない……!」

「……だったら、殺さなければ────」

「祖国に身命を捧げた以上、命令に背く事の結末は死しかないんだ!! ママやパパみたいに、兵士たちに嬲り殺しにされて終わりなんだ!! 自分の全てを祖国の為に捧げてきた二十年間が一瞬にして消し飛ばされる、その苦痛がお前に、お前に分かってたまるか──!!」


 力無い打撃がしきりに肩を襲う、彼女の苦しみを理解することは、今は出来ないのだろう。だからこそ、俺は一緒に戦ってやらなければいけない。

 柄にもないことを、と嘲ってみつつも彼女を放っておけない自分がいる。俺はゆっくりと彼女を抱きしめた。

 彼女の咽び泣く声が肩に響く。ひたすらに泣かせてやるしかない、彼女は今泣くことしかできない筈だ。


「…………ゆっくり休め、明日の夕方出発だ」

「…………なによ、分かったように……分かったわよ、寝ればいいんでしょ…………」


 彼女はふてくされたかのように呟いて、また眠りについたようだ。彼女の頰には涙の跡が何条も残されていた。それを一つ一つ拭ってやる。そうすれば、また元どおりの彼女が見られるのかもしれない、そう信じて拭っていた。

 元通りになる事は彼女にとって辛い事なのかもしれない。だが、死ぬより辛い事はない筈だ、それを知ってなお俺は殺し続けてきている。

 だからこそ、“無為な死”こそ俺は止めなければいけないのだろう。

 偽善と言われても仕方あるまい、だが、俺にはこれしかやることがないのだ。ゆっくりと立ち上がって、自分の部屋に向かおうとする。だが、シャツの裾をすでに掴まれていた。


「しょうがないな、今日は」


 彼女を抱き上げ、俺はそのまま自室のベッドへと向かった。もう既に、日付が変わっていた事実を頭に入れながら俺は眠りについた。

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