Episode.30:混沌なアキューズ
「……何故、俺の名前を知っている」
俺の名前を知っているのは、家族と憲兵局でも数人のはずだ。機密保護法で、『公認』の偽身分証明を使う事が義務付けられている以上、情報が漏れることはあり得ない。
それなのに、“男”は俺の名前を造作も無く言ってみせた。それがあたかも常識であるかのように、簡単に言ってのけたのだ。
「情報源は教えられないに決まっているだろう。だが、君が知っているところから推測し調査したまでだ。それ以降は君が考えるといい」
「……お前は、誰なんだ」
相も変わらず
モニターの中には、三人がテーブルを囲んで言い争いをしていた。その中央には、赤と青と黄色の三つのカプセルが置かれていた。今までの流れから考えると、一人が毒入りカプセルを飲まされるのだろう。
“男”はゆっくりとモニターの前に向かうと、マイクを手に取った。
『諸君、ここまで生存している事を私は喜ばしく思う。ここはこの宴の最後の部屋だ。まだ私は楽しみたかったのだが、時間というものは実に有限でね。君たちの部屋には別の空気を注入している……大体一時間もあれば誰がどれを飲むか、決められると予想している……。さて、自らを生かす為に是非足掻きを見せてくれたまえ……』
締めくくりに相応しい言葉を告げて、“男”はまた戻ってきた。新しい葉巻を手に取って、また定位置の椅子に戻っている。
「さて、彼らの足掻き苦しむ様を私は見たいが……それよりも君の話の方が、私の欲をくすぐる良い糧となりうるな……ああ、そこの君、例のガスの注入を止めてくれたまえ。録音を忘れずに頼むぞ……」
運営の人間に声をかけて、的確な指示を出す。彼らはテキパキとそれぞれの作業を始めていた。その様を眺めつつ、彼は白い背広の中から一枚の写真を取り出した。
「それは……」
「四ノ宮
父親は、交通事故で死んだと言われている。高速道路の幹線トンネル、その中で乗っていた車がトレーラーに轢き潰されたまま爆発炎上。死体の回収すら叶わなかった大事故として当時はニュースになった。
残された母と俺は、ただただそれを受け入れるしかない。あの時の俺の中には、悲しさよりも虚しさや怒りが先行していた。
『父さんはね……とても優しい人だったのよ……』
そんな時でも、母は笑顔を絶やさなかった。あの時、母がどうしてここまで薄情なのかと、どうして笑っていられるのだろうか。
母親の愛なんて物は全く理解できなかった。いや、今でも理解することはできない。
それから、細々と二人で生活してきた。九年前のテロが起こっても、普通の生活をしてきたはずだった。
「だが、君の母親、四ノ宮
「……ああ、そうだ。母親がいなくなって、俺は通っていた大学を退学した。今となっては懐かしい思い出でしかない」
紙巻きタバコに火をつけて、いつもの甘ったるい香りを味わう。目をよく
────この“男”を愉しませたくない。
携帯している灰皿に灰を落とす。男の手には──空の写真があった。
「鶴見 空。君の幼い時からの幼馴染で、婚約者。そうだな、若い内は惚れた腫れたをよくやるというが、君達みたいに長い間想い合うのは
「お前に……お前に何が……何を理解できる……!」
自然と、声が荒げられている。込み上げるこの感情、ああ、そうか。最後に『怒り』を抱いたのは、あの時だった……。
『空を、空を……何故殺した…………!!!!』
あの女は今も生きている。そう、今度はクラリスに手をかけて、意のままに俺を操ろうとしているのだ。
「今、君は私を殺す事に躊躇している。何故ならば、君の相棒たる彼女の命を救う大義で私を殺せば、彼女と同じ穴の
「だが、アレをけしかけたのはお前なのだろう、だったら……」
「どの道を選ぼうとも、君は己が理念から外れる事になる。何かの信念を捨てて、何かの理念を叶えることができる。まさに世の摂理通りの流れとなるではないか……」
男の言う通りなのかもしれないが、それを覆したい。久々に得た反骨の念に、心すらも躍る気分だ。
よく考えれば、“男”は何故あの修道女をけしかけたのだろうか。ただの愉悦からそうしたのであれば、まさに外道と言えるだろう。
だがその理由が、“男”の言う通りではない可能性は──限りなく低いだろう。
「…………何故君は、この道を歩むのかね?」
“男”の問いは深く考えさせられる。俺は確かに空を殺した犯人に極刑を下す為に、手をひたすら汚した。いや、その理由は後付けだったのかもしれない。
そう、俺が求めていたこと。それは極刑よりも“私刑”の方が、正しい言葉かもしれない。自分の手で、
『復讐って、虚しいよね』
空がポツリと呟いた、昔の一言が今になって思い出される。あの時は、テレビのニュースを見ていただけなのに、平和に暮らしたかっただけなのに。
今、自分の手はどれだけ汚れているのだろうか。その手の汚れは、今からなら洗い流せるのだろうか。
「…………お前に、関係ないだろう」
そう、この“男”には一切関係ない。俺はあの時、師匠に声をかけられた時に決めていた。
────空のような人間を、これ以上出さない。
だから、紛争地帯に自ら身を投じたはずだ。“執行者”の話が出た時に受け入れたはずだ。
それを、俺は忘れていた。まったく、感情を持って行動をするなんて、俺にはとんだ地雷でしかないじゃないか。
淡々と、目の前の悪を粛清し、善を保護する。それが俺の決めたことだった。
「しかし、その言い草はいささか悲しいな。君は一切の心を捨てて
「……お前が、空を殺させたのであれば、俺がお前を殺すことは造作も無い」
「そうか、君は自らの婚約者を絶対的な善として見ているのか……なるほどなるほど、それは実に興味深いよ……」
ゆっくりと立ち上がり、“男”はまたモニターの方へ向かう。
「人は、自分が善だと思ったものを守ろうとし、自分が悪だと思ったものを叩こうとする。では、その境目はなんだろうか。そうだ、境目というものはないのだよ。人の下に盤石な土台はない。あるのは自らが経験という物で作り上げた、脆弱な足場のみだ」
「空が、空が悪人だとでもいうのか!」
男の微笑が少し変わる。その笑みは死を弄ぶ少年らしいものではなく、人を知り事を知った老獪なものであった。
「ああ……彼女は、善人ではない。寧ろ、私よりも悪人だ…………」
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