吸引力の変わらない、ただ一つの愛

 声音自体は優しかったが、瞳には不気味な色が宿っている。


 この場から脱出しようにも、資料が邪魔で動かない。水面に浮かぶ睡蓮の花のように、丁度首から上だけ出てる状態だ。


 俺は観念して、とりあえず思っていたことを口にした。


「なぁ、ねこり」


「なぁに? はるくん」


「……風邪引くぞ」


 上半身裸のねこりを包むものは、絆創膏がわずかに二枚だけ。


 本来なら扇情的な姿のはずなのに、なんだろう、全くそんな気は起きなかった。


「心配してくれるの? ありがとう」


 にっこりと微笑んで、俺の頬から両手をそっと離した。


「でもね、大丈夫。……なんでかな、さっきから、なんか胸の奥がドキドキいって、すっごい熱いの」


「そりゃあ、あんだけ全力疾走してたら胸もドキドキするだろうよ」


「ねぇ。これが、きっと恋なんだよね?」


「人の話を聞け。きっとそれは疲労からくる動悸息切れだ。少し休んで心を落ちつけよう」


「うん……」


 俺の言葉を聞いて、少しだけねこりは大人しくなった。


 控えめな表情はまさに美少女で、文句のつけようがないくらい可愛らしい。


「さぁ、深呼吸をして。思いっきり新鮮な空気を吸って、心の邪気を外に出すんだ」


「うん、やってみる」


 こくりと頷いた後、ねこりはおずおずと俺の頭を掴み、


「ズオオオオオオオオオオオ!」


鼻から空気を吸い込んだ!


「なにぃいいいい!」


 ねこりの鼻の吸引力により、俺の周りの資料が軽々しく吹き飛んでゆく。


 嵐の如き風圧で、俺の髪は逆立ち始める。


「んふううううう! はるぐん! はるぐんの匂いぃ!」


「だぁあ! やめろねこりぃ!」


 俺の雄叫びが聞こえたかどうかは怪しかったが、ねこりはいったん深呼吸を止めて俺の顔を見つめた。


「はる、くん……」


 俺の動きを封じる資料たちはあらかた吹っ飛んでったので、俺は脱出することもできた。


 でも、この時の俺は、何故か動くことができなかった。


 ねこりの艶やかな表情が、それを許さなかったのだ。


「私のこと、好き?」

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