7 どいつもこいつも

 いつも彼女と――ミナと会う喫茶店。


 アルドはコーヒーを少しずつ飲みながら彼女を待っていた。

 コーヒーを。冷めたコーヒーを。


 待ち合わせの時間から三十分過ぎているが、ミナは来ない。店内には穏やかな音楽が流れているが、アルドの心は焦燥が吹き荒れている。

 なぜ来ないのか。何か事故があったのか? それとも自分は彼女に嫌われる何かをしてしまったのか?


 前回会った時を思い返す。何度も思い返すが、何もおかしなことはしていない――はずだ。それとも、コミュニケーションが苦手な自分が及びもつかないことが、人を不快にさせることがあるのかもしれない。


 不安で不安で潰れそうになる。

 嫌われているかもしれないことが。

 いっそ、彼女が来ないのは事故に巻き込まれたから、という方がマシな気さえしてしまうほどに。

 それからアルドは二時間ほど待ったが、彼女は来なかった。


 連絡先は知らない。いつもの喫茶店で待ち合わせすれば彼女に会えた。彼女の方から連絡先を訊いてくることもなかったから、アルドは彼女に連絡先を訊く勇気が出なかった。

 構わないと思っていた。いつも待ち合わせして会った最後に、また待ち合わせの約束をする。そうしていれば会えていたのだから。


 それを今、後悔する。なんとか連絡の手段がないだろうか。それともまた、あの喫茶店でいつもの待ち合わせの時間に待っていればいつか来てくれるのだろうか。

 考えて、考えて、アルドは思い出した。彼女が彼女の学校名を語っていたことを。


 彼女の学校へ行って、校門前で彼女が出てくるまで待つ。

 そんなことをしたら、つけまわしてくる変態だとでも思われないだろうか。だが、思い切って連絡先を訊かなかった勇気のない自分を、今こんなにも後悔しているのだ。踏み込まなければまた後悔する。

 そうして次の日、初めて来た学校の校門前で、壁にもたれて人の流れを観察している。その日の最後の授業はサボった。彼女の学校の終業時間に間に合わないかもしれないから。


「ミナ」


 多くの人の声の中で、その名前を呼ぶ声が聞こえた。男の声で。

 アルドは校門の方に向けていた視線を、校門の外の数十歩前の方に向ける。

 声にならないほどに驚いた。


 ザンだ。


 いつもクールな顔をしているあいつが、やわらかく微笑んでいる。


「ザン」


 ごちゃごちゃとした声の中でもハッキリと聞き取れたミナの声。

 嬉しそうな声。


 丁度、大勢の女子たちが大きな声でおしゃべりをしながら校門から出てくる。彼女たちはザンの視線からアルドを隠した。

 小走りでザンに近づくミナは、壁に隠れたようになっていたアルドに気づかない。

 そうして二人はアルドに背を向けて歩いていく。


「は? は?」


 アルドの頭は混乱が吹き荒れる。

 今の状況が理解できない。できないが、あの二人を尾行するしかないと咄嗟に判断する。

 人の波に流されるように、しかし彼らを見失わない程度に波に逆らう。

 少し近づくと、気づく。二人は手をつないでいる。

 怒りで怒声を上げたくなるが、勇気のなさがその声を飲み込ませる。


 彼らは何か会話を交わし、しばらくするとザンがミナの手を引っ張り、人の波から外れる。

 人気のない静かな路地。他の人間の耳も声もない。

 そんな場所だったから、路地の外のアルドの耳に二人の会話はかろうじて届いた。


「もうフィルムは返した。だからもう、……とは関わるなって言ったのに、まだ何かする気だろう?」

「ザンが死ぬかもって時にジッとしてられない。ライもマッドも死んで、あいつに何かあるに…………じゃない」

「何かの手段は持っているだろう。だが、だからこそ……」

「二人が死んだのは呪いじゃないよ。偶然でもない。あいつは……なんて信じてない。あたしはそれを………………」

「俺の為を想ってしてくれのはうれしい。だが、それがミナに降りかかったらと思うと。頼むから言うことを聞いてくれ」

「ザンに嫌われるより、ザンが死んじゃう方がヤだよ」

「…………」

「…………」


 二人は何か小声でささやき合っているらしい。声が聞こえない。しばらくして、アルドは路地の中の二人を覗き見た。


 キスを、していた。


 ねっとりとした音が聞こえてきそうな、深い口づけを、長く長く。

 アルドは静かにその場を離れる。

 怒りも何もかもを、消沈した気持ちが静める。


 ――彼女の笑顔は全部、ザンを守るための、嘘の笑顔だったんだ。


 思い出せば、彼女の笑顔以外の表情を、ほとんど見たことがない。

 笑顔を貼り付けていのだ。ボロが出ないように。


 気づけば自宅の前だった。玄関のドアを開ける。買い物にでも行っているのか、いつもの家政婦の足音はなかった。

 やっと、金が目的で近づいてきたのではないと思えた人。自分の本当は大人しい部分を受け入れてくれた唯一の人。そう思ったのに――――


 もう、この世に自分がいていいのは『自分の部屋』と決められた、この家の二階にある自分の部屋しかないのではないか。いや、家族も自分のことを鬱陶しいと思っているのなら、自分の部屋すら存在を許されないかもしれない……。

 そう思いながら、階段を上りかけた。


「アルド、お帰り」


 リビングのドアが開いて、ユナが出てきた。

 ほんの少し、気まずそうに恥ずかしそうに、顔を赤らめている。


 ――いた……。


 自分が存在していてもいいと、認めてくれる存在。


「ユナ……」


 アルドは小さく彼女の名を呟いて、彼女に近づいた。彼女の腕を取り、自分の方に引き寄せる。

 ユナはきょとんとした表情で「アルド?」と問う。


 アルドは自分の唇をユナの唇に重ねた。


 ユナは、抵抗しなかった。だが、彼女は体を強張らせている。

 それを、アルドは受け入れられていると勘違いした。ユナの腰に腕を絡めて、不器用に、ザンとミナがしていたように、舌を入れようとした。


「ううううううう!」


 ユナが呻いた。塩の味がした。ユナの涙がアルドの口に入ったのだ。

 驚いてアルドはユナから体を離した。

 ユナはボロボロと涙を流していた。うれし泣きには見えない。俯いて必死に涙を拭っている。

 彼女がなぜ泣いているのか、アルドは本気で分からなかった。


「ユナ……お前、俺のこと好きじゃなかったのかよ」


 そう言っても、ユナは嗚咽を漏らすばかりで答えない。


「…………っ…」


 ユナが何か言ったが聞き取れなかった。呆然としたアルドの横を、彼女は抜けて行き、玄関のドアの開閉する音が鳴った。

 中にいるのは自分の方なのに、その音は、世界のすべてから締め出された音のように感じた。

 自分を受け入れてくれる本当に最後の、唯一の存在。そう気付いたと、そう思ってたのに。拒絶された。


「は、ははは……」


 自分を受け入れてくれる存在など、どこにも存在しない。


 だれもだれもだれもおれをあいしてない…………。


 アルドはその場に膝から崩れ落ちて、ひたすら笑った。


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