6 解放

 今日もミナに会えた。


 アルドは心に温かさを抱きながら帰宅する。

 家政婦の出迎えがうるさいことにも、家に父や母がいないことにも、何とも思わなかった。


「あ、アルド。おかえり」

「おかえりなさい」


 兄の柔和な笑みも、当たり前のようにユナが兄と一緒に夕食を食べていることも、気にならなかった。


「ただいま」


 答えたら、兄もユナも目を丸くした。

 二人と一緒に夕飯を食べることも抵抗を感じなかったが、食事は外でしてきたのでそのまま二階に上がり、自室に入る。


 目障りな人間は死を目前にし、好意を寄せている女性との関係は良好。

 幸せとはこういうことなのだろうか。

 そんなことを、自然と緩めた顔で思う。



    * * * *



 殺し屋の男にザンの死を依頼して、数日が経った。奴の命は後一週間。

 ザン本人に宣告はしていない。宣告すれば怯えた顔が見れるかもしれないが、高圧的に何かをするのは慣れておらず、体力を使う。なので、わざわざそんなことをする手間が面倒くさかった。


 その日もアルドはミナとデートをした。


 デートだった。ミナがどう思っているのかはわからないが、アルドにとっては少し遅くまで外で女性と会うことはデートで間違いなかった。

 そんな、いい気分で帰宅した。当たり前のようにユナが家のリビングにいたが、兄のキリルはいなかった。前日に友達の家に泊りに行くということは聞いていた。


「ユナ、おまえ。兄貴がいないのに来てたの?」


 少し呆れるようにアルドは言う。


「どんだけ俺の家の居心地いいんだよ」


 ははっ、とアルドは軽く笑う。ユナに笑顔を向けたのはいつぶりだろうか。

 彼女は何やら顔を赤くして俯いている。何か言いたそうにしているが、なかなか声に出せないらしい。


 ミナとユナ。名前は似ているが性格は正反対だ。はきはきしゃべって積極的なミナと、ごにょごにょしゃべって消極的なユナ。

 相対的に見て、やはりミナは素敵な女性だとアルドは思う。


「あの、ね。アルド」


 意を決したように、ユナが声を出した。


「最近、彼女とか……できたの?」

「は?」

「あの、あの。友達が、アルドが、女の子と一緒に二人きりでいたって言ってて……」


 女の子と二人っきりで……。ミナだ。

 他の人間とつるむことはあっても、二人っきりでいることはまずないから。

 しかしユナはなぜ、こんなにもオドオドとしゃべっているのか。いつもの数倍、挙動不審だ。


「いや、別に彼女じゃないけど……なんでユナがそんなこと気にする?」

「だ……だって、幼馴染だし、そういうこと、やっぱり……やっぱり……」


 声がフェードアウトしていく。アルドは首をかしげながら、ユナの次の言葉を待っていると、ユナは必要以上の大きな声を張り上げた。


「やっぱりそういうこと教えてくれないのは寂しいし!」


 アルドは硬直した。

 彼女はなぜそんな顔を赤くして、一大決心をしたように、そんなことを思い切ったように告げるのか。


「え? ユナ。おまえもしかして俺のこと好きなの?」


 半分は冗談で言ったことだったが、ユナの顔はさらに赤さを増した。


「え……。図星……」

 アルドが呟くと、ユナは手で顔を隠して「わ、私帰るねっ!」と、勢いよくリビングの扉を開け、バタバタと廊下を走っていった。


「ま、まじか……」


 全く予想していなかった事実がいきなり発覚し、驚きでアルドの手から持っていたカバンがずるりと落ちる。

 アルドも少し顔を赤らめながら、盛大なため息をついて、ソファに身を投げる。


「悪い気はしない……けど」


 ユナの好意が、嬉しいと感じている自分に驚くが……しかし。


「でも、俺が好きなのは、ミナちゃんで……」


 ――ごめんな……。


 また盛大にため息をつきながら、アルドはソファに崩れ落ちるように寝そべった。


    * * * *



 学校の、少し雰囲気が沈んでいる廊下で。ザンとすれ違う。


 

 何も言ってこない。


 アルドの顔を見れば何か挑発するようなことを言ってきていた男が、ただすれ違う。

 最初は『呪い』を信じていなかったザンだが、二人も死んでやっと信じ、そして怯えているのか。それとも、仲間が死んだ今、独りになり、独りでは何もできない男だったということだろうか。


 これほど意気消沈しているのならば、もう例の写真をばら撒くこともしないかもしれない。殺さなくてもいいかもしれない。だが、ばら撒かれたら全てが終わってしまう。世間にも、家にも、居場所がなくなってしまう。ミナも離れてしまう、きっと。

 ザンを殺す、という選択肢は変えられない。

 今日も、あの喫茶店でミナと会う約束をしている。


「おい」


 後ろから声がした。振り返ると、ザンが眉を寄せ、不審なものを見るような表情でこちらを見ている。


「もうはしないのか?」

「え?」

「お前は俺が首謀者だと思ってるんだろう。だったら、俺を一番苦しめて殺すんじゃないのか?」


 ザンの顔に、あまり怯えは感じられなかった。どこか、諦めたような表情に見える。


「信じてねぇんじゃなかったのか?」


 問う。思わず唇が嘲笑に歪む。が、ザンの表情は変わらず答えなかった。

 例の殺し屋には依頼している。死ぬということはすでに決まっている。

 ただ、今この男に恐怖を与えたいと思っているか、と自問するとよくわからない。勝手に恐怖を感じてくれると言うならば幸いだが、改めて自分の口から恐怖を煽る演出をするのかと思うとためらってしまう。

 大仰な振る舞いをするのは緊張を強いられ、心が疲弊する。


 やはり自分は気の弱い人間なのだ。ミナと出会って、自分でそれを認めることができた。今、唇を歪ませてる笑みも、緊張から来るものだからだと今ならわかる。

 だから例の写真の公開を阻止できればそれでいい。公開は、ミナとの幸せが壊れるのと同じだからだ。


「ああ。死ぬよ。あんたが俺に、あのフィルムを渡さない限りは、来週の金曜日に確実に」


 だから、事実だけを告げる。

 コンピューターにデータが取り込まれ、テレビの様にそのデータが一瞬で世間に広がる……そういうSFのような技術がまだなくて安堵する。

 ザンはため息をついて、ポケットに手を入れながら、アルドの方に近づいてくる。そしてポケットから出した手を、ザンはアルドの方に突き出した。


「ほら」

「?」

「フィルムだ」


 アルドが手を出さないうちに、手を開く。アルドは反射的に手を出し、それを受け止めた。手の中に納まっているのは、ザンが言った通りフィルムケースだった。


「え?」


 アルドが戸惑いの声を上げたと同時に、ザンは体を翻した。

 そうして、廊下の喧騒の中へと紛れていく。


「は……ははっ」


 アルドの口から安堵の笑いが漏れた。

 脚が弛緩し、その場に崩れ落ちそうになるのをこらえた。



    * * * *



 夜の、ビルの屋上。

 例の男と会える、唯一の場所で。

 アルドが屋上の扉を開き外に出ると、男は屋上の端のフェンスにもたれて煙草を吸っていた。


「この時間、いっつもここにいるな」


 アルドは男に声をかけた。俯いていた男が顔を上げる。

 いつもの、感情の見えない表情で、黒い瞳で、アルドの顔を見る。

 ブラックホールの様に吸い込んでくる瞳だと思っていたが、今日はその瞳に吸い込まれることはなかった。


「煙草の煙が好きな人間もいれば、受け付けない人間もいる。人間は不思議なものだな」

「なんだそれ。おまえが人間じゃないみたいな言い方」


 小さく笑い声をあげてアルドは、男の隣に並んでフェンスにもたれる。煙草の甘いような苦いような匂いがする。


「悪いんだけどさ。この間、依頼したやつ。殺さなくていいや」

「……キャンセルか?」

「うん」


 男は煙草を深く吸い込んだ。アルドはそれが何か考え込むしぐさなのかと思い、ふと、思いついた可能性に少し焦った顔をする。


「え? もしかして、キャンセルってできなかったりする? え? 裏社会の厳しい掟とかあんたの中でもあったりすんの?」

「いや、そんなものはない。キャンセル、承った」


 アルドは安堵のため息を吐く。


「金は返さなくていいよ。あんたのおかげで、多分、幸せになれるから」


 ミナの笑顔を脳裏に思い浮かべてアルドは微笑む。

 実際にはミナと出会ったのは、あの二人が死んだからというわけではないが、しかし、だからこそ心の余裕ができた。だからこそ、彼女とコミュニケーションが取れたとも言える。


「人間を殺して、人間は幸せになれるんだな。不思議だな」

「……え?」

「人間を殺して、人間は幸せになれるんだな。不思議だな」


 問い返すと、男は律義に復唱した。


「え。でも、だって、殺したのはあんたじゃん? 俺じゃないでしょ」

「お前の意思がなければ俺は動かなかった。おまえの意思が、あの二人を殺したんだ」


 アルドは男の横顔を見たが無表情だった。

 男はアルドを責めているわけではない。それはわかった。だが、淡々と事実を述べられて、その事実がアルドの頭に浸透していく。

 喉に吐き気がせり上がってくる。寒いのに汗をかいた。


「ぅえっ」


 声に出るほどえずいて、むせて咳き込み、肩を上下させて激しい息をする。涙がにじんだ。


「いや、でも、あいつらは……死んで当然のやつなんだし……」

「死んで当然の存在などない」

「はぁ?」


 アルドは顔をしかめた。この男は、自分の存在の意味を自覚してこの言葉を口にしているのか?


「さっきも言ったけど、殺したのはあんたじゃん。よくそんなことが言えるな」

「死んで当然。人間は尊い。それは人間が勝手に判断した価値観で、人間がその価値をつけない限りは、生物はそのどちらの価値も持たない」

「じゃ、じゃあ、どちらの価値もないなら、殺してもいいじゃんか!」

「だが、人間は尊いという価値をつけたのは人間だ。そこから外れるということは、人間から外れることだと俺は思っている」


 アルドは顔を歪ませる。自分はすでに人間から外れているという指摘が受け入れがたい。そんなわけはない。自分がすでに人間ではないなんてことは。

 怒りがこみ上げる。


「んなこと言ったって! 俺はあいつらに虐げられて人間扱いされてなかった! 人間を人間扱いしないヤツが人間としての価値があるわけないだろ! 俺は! ただ、自分を守りたかっただけだ!」


 激昂するアルドに、男は相変わらずの無表情を貫く。


「そうだよ。自分を守る権利くらい、誰にだってあるだろ? 俺は、別に私欲であいつらを殺したわけじゃない。あいつらが尊いだとか、尊くないとか関係ないんだよ」


 アルドの声は徐々に自分に言い聞かせるように小さくなっていく。


「もう誰も殺さなくていいんだ。俺は私欲で人を殺すわけじゃない。だから俺とあんたはもう関係ないんだよ。さよなら。金で人を殺す化物野郎」


 アルドは歪んだ笑みを浮かべて、もたれていたフェンスから――男から離れる。中に入るためのドアを開け、静かに閉めた。

 夜の屋上には、男の吐き出した紫煙が静かに漂い、風にさらわれていった。

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