連れ去る桜、みちびく桜
夕焼けの中咲き誇る満開の桜は、抜け目のない美しさを宿していた。
付き合い始めて1年。
惰性のように一緒にいた彼女に交際を提案したのは、私の方だった。
梅雨の雨のように降り注ぐ桜の花びらは、凶悪なほどに綺麗で、泣きそうになった。
昼間から花見をして馬鹿みたいに騒ぐ大人たちの気持ちが、少し分かった。
桜は、本当にたくさんのことを思い出させるから。
「どしたの?」
「……別に」
不自然な態度の彼女に、不思議そうに首をかしげて見せつつ、理由なんてもう分かっている。
頻繁な着信、楽しそうにそれに応答する私、最近着け始めた桜色のシュシュ。鞄には新しいストラップ。
じっと見詰めると、そっぽを向かれた。
耐えきれなくてついつい口元が緩んじゃうのはナイショだ。
「香織、ケンカ売ってるでしょ」
「喧嘩? どしてそう思うの?」
「反応が臭いから」
「へ」
予想外の反応にびっくりして固まると、「わざとじゃないなら、否定の前に根拠なんて訊かない」と拗ねたように口元を尖らせる。
う、鋭い。さすがは生徒会副会長。人を見る目が凡人とは明らかに違う。
私のちゃちな作戦なんて、由梨の前では算数の問題同然なのかも知れない。
「……ね、由梨、じゃあさ、」
仕方ない。作戦Bだ。
私の声色が変わったのを敏感に感じ取ったのか、由梨が顔を上げ、私の瞳を見詰める。
「私が由梨にそんなことしなきゃいけない理由って、何だと思う?」
「そう、ね……」
思案するように口元に手を当てた由梨は、「単純なことだけれど」と、前置きをする。
いつもの、そよ風のような心地良い声。滑らかな、それでいて耳にきちんと届く、綺麗な声。
「まず、自分から言わずに私に言わせようとしていることから、言いたくないこと——つまり、何らかの忠告であるとか、指摘であるとか、そういう内容のことだと思っているわ」
ロジックを並べる由梨は、窺うように私を見、口を噤む。
「続けて」
由梨の視線が、私の持つ通学カバンに向かう。
しばらく逡巡するような間があり、彼女は静かに口を開いた。
「……察するに香織には、私以外の、……恋人か何か、大切な人ができたんじゃないかしら?」
「それで、私に……その、遠慮してほしいと言外に」。思い詰めたように言葉を止め、頭上の桜を見上げた。得体の知れない、物の怪とでも言いたくなるほどの美しさを宿す、桜。
長い黒髪が枝とともにさらさらと揺れ、華奢な彼女くらい、簡単に連れ去ってしまうんじゃないかと恐怖する。
「違う?」
黙っている私に不安を感じたのか、静かに問うてくる。
さらさらと頬を撫でていた風が急に強くなり、轟音を響かせた。
「きゃ、」
舞い上がった砂から咄嗟に目を庇い、口をきつく閉じた。
ざあああ、と枝が激しく揺れる音がし、スカートを押さえる。
「香織、」
腕に何かが触れるのを感じ、驚いて目を開ける。
「行かないで」
腕に触れ、そのまま手を握られる。その手は小さく震えていた。
濡れた声。固く結ばれた唇。目の端に光る滴。
ざあああ、と、風の音が遠ざかって行く。
「な、」
こんな表情を見たのは、初めてだった。
「行かないで、お願い」
必死な彼女に、もう、意地悪をする気概なんてどこにもなかった。
「行かないよ」
「ほんと?」
「うん、行かない。大丈夫だから」
「だから、由梨も……どこにも行かないで」。縋るように発した言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。
「もしかして、」
「な、なに」
「ふぅーん? なんだ、そういうこと?」
私の手を弄びつつ視線を外さない彼女は、私の本心を察したのか、ニヤニヤと締まりのない笑顔になる。
「どういうことよ!」
「香織、そんなに私のこと好きなら、素直に言えばいいのに」
先輩のことでしょ?
そう口にした彼女は、悪戯に笑って私の手を弄んだ。
「先輩と私、そんなに親しそうに見えた?」
「だってあんな顔、私にだって見せたこと……」
真っ赤な頬、照れたような上目遣い、嬉しそうに歪む口元、ドア越しに聞こえた、「好きですよ」という弾んだ声。思い出したくもない、決して消えてくれない記憶。
「馬鹿ね」
しかし彼女は、そんな私を笑い飛ばす。
「あれは、香織の話してたの。先輩が、香織のこと好きなのかって訊いてきたから」
「へ」
なにそれ。
零れた言葉は、力無く下に落ちる。
何それ。もう一度だけ言って、彼女の言葉を待った。
「本当だよ。先輩なんか好きなわけないじゃん。盗み聞きするのは良いけど、ちゃんと最後まで話聞いてよね」
「盗み聞きなんか!」
「してたでしょ」
「して……た、けど」。もにょもにょと口を動かす。確かに盗み聞きはしていた。だって、一緒に帰ろうと思ったから。生徒会の作業が残ってるって言ってた由梨を、待とうと思ったから。……ううん、引っ掛かっていることは、それではない。先輩が、そんなに由梨を見てるってことは。
「……先輩、絶対由梨のこと好きじゃん」
「ばっか」
とうとう腹を抱えて笑い出してしまった彼女に、私は憤慨する。
由梨の魅力を知っているのは、私だけで良いのに。由梨を好きなのは、世界中で私だけだったら良いのに。
「例えそうだとしても、私が好きなのは、……ううん、好きになるのは、後にも先にも香織だけだよ」
「……由梨」
本当? と訊く。本当だよ、嘘なんか吐くと思う? と由梨。ううん、吐かないと信じてる。と答えると、由梨は擽ったそうに笑った。
「好きだよ、香織」
世界中の誰よりも、なーんて。
「そんな曲あったよね」。照れ隠しなのかそう続けた由梨に、「曲中だとちょっと意味変わってくるけどね」と返す。
「私も好き」
意地悪してごめん。大好き。
そう呟くと、由梨は私の手を握って「いいよ」と笑った。
「でも、次やったら許さないかも」
「も、もうやんないよ!」
「行こ」、と繋がれた手を引かれ、隣に並ぶ。
だって、好きだから。桜はどんなに綺麗でも、彼女を連れて行ったりしないって分かったから。
由梨のことを好きな人が、私だけなら。そんなことは言わないから、どうか由梨が、私をずっと好きでいてくれますように。
私だけをずっと、好きでいてくれますように。
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