憧憬
誰もいない、何もない。
殺風景なこの部屋で、ひとり、何をするでもなく佇んでいた。
悩みがあるわけでもない。何か問題があるわけでもない。ただそこに必要とされているから。それだけの理由で、私はひとりになれた。
外では雨が降り続いている。うんざりするような湿気も、肌を刺すような空気の冷たさも、あの人の帰宅を思えば何てことはなかった。とにかく早く会いたかった。
顔にかかる髪が気になって頭を振った。首元でカチャリと金属の触れ合う音がする。
「…………っ」
背筋を焦燥と快感が這い回り、小さく息を漏らした。無機質な南京錠を持つあの人の手が、月明かりに照らされて妖しく光ったのを思い出す。
憧れだった。綺麗で、美しくて……私なんかでは到底届かないはずだった人。
『手伝ってくれない?』……唐突に掛けられた声は、初めて聞いたにも関わらず、その人のものだと分かった。
『わ、私ですか』
後ろから掛けられたその声に恐る恐る振り返ると、彼女は美しい笑顔でそこに立っていた。長い黒髪が風に靡き、右肩の鎖骨の右端に、小さな黒子があるのが見えた。
『見ていてくれるだけで良いの』
遠くから見つめるだけで良い。そう思っていたはずなのに、そんな意思は簡単に崩れ去った。
是非、お力添えをしたい。そして、出来ることなら、ずっとお側に置いて欲しい——。
その人の完璧な笑顔は、崩れることなく私を捉えていた。……否、何にも捉えることなくただそこに在った。大好きな顔だった。絶対に壊したくないと思った。
もう少しで帰ってきてくれるだろうか? あの笑顔を見せてくれるだろうか? 真っ赤に染まった私の頬を撫で、哀れんでくれるだろうか?
楽しみで仕方がない。早く会いたい。大好きなあの人に。——あぁ、この身体さえ自由なら、このお部屋をあの人に相応しいよう整えておくのに。でも、例え出来たとして、折角着けて下さったこの首輪を外すなんて、絶対に有り得ないから。
せめてあの大きなゴミさえなければ、きっとあの人は帰ってきてくれるに違いないのに。
太い太い縄に吊り下がったそれに、嫌悪感たっぷりの視線を投げた。
あぁ、役立たずでごめんなさい。あなたがここへ戻って、この首輪を留める南京錠をあなたの手で外してくださったなら、きっと私が片付けますから。だから、どうか——。
ギシ、と軋んだ音がし、それがゆっくりと回転する。右の鎖骨の端の方、小さな黒子がひとつ、艶めいて見えた。
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