mistakes


 正直、人に好かれる質だった。

 他人との付き合いに悩まされることなどなかった。


「はぁ……」


 定位置の出窓に腰掛け、煙草を取り出す。

 真っ暗な部屋の中、ネオンの光が寿命を訴え明滅しているのを横目に、煙草を咥え、火を付けた。


 複数人の恋人を同時にやることに、罪悪感はなかった。

 体力的な問題はあれど、大抵のことは上手くやったし、明るみに出てしまったことなど一度もなかった。


 何より、人から愛されることは、気持ちが良かった。


 仕方がない。

 人間だって動物、遺伝子に刻まれた命令に背くことなど不可能なのだ。


 いつかの恋人に教わった銘柄の煙草。

 ほんのりと、バニラの香りが鼻を抜けた。





 「ねぇ、私、好きかも」


「え?」


 確か、病院関係の職の人たちとの合コンか何かだったと思う。そこで出会った彼女は、周りに聞かれないように、男ではなく女が目的なのだと悪戯っぽく笑っていた。

 私の手に触れた彼女の指先があまりに滑らかで、かかりつけの病院を彼女の勤務先に変えたのに、下心が無かったとは正直言えない。


 彼女と仕事帰りに待ち合わせて一緒に帰るのが習慣になっていた頃、いつものように、屋台で買ったパック入りの焼き鳥をつまみに、うちでビールを飲んでいた。


「ふふっ」


 はにかむように、それでいて不安そうに上目遣いで私を見る彼女に、缶を煽りながら惚ける。


「……焼き鳥?」


「ばぁか、分かってんでしょ?」


 その、威勢を張ったような表情があまりに愛おしくて、缶ビールを置き、彼女を押し倒した。


「分かってるよ。好きなんでしょ?」


「……うん」


 彼女が、真っ赤に頬を染めて、潤んだ瞳を逸らす。


「……その、狡いところも、全部」


「へぇ」


 嬉しかった。

 私を好いてくれる人はみんな、私の純粋で可愛らしいところに惹かれていたから。


「ありがと」


 焼き鳥のタレが付いた唇に、そっと舌を這わし、唇を付ける。

 きゅっと瞑った瞼が可愛くて、親指を沿わせた。


「……好き」


「うん」


 私だけを求めるこの表情を、絶対に失いたくない。

 そう思った。





 ——そう思って、いた。

 いや、正確には、今もそう思ってはいる。実行に移せていないだけで。


 鳴り止まないスマホの通知を切り、まだ半分くらい残っている煙草を、出窓の角に放置していたビールの缶に突っ込む。

 中身はないと思っていたが、ジュッという火の消える音がし、まだ残っていたのかと、何の驚きも無く思った。

 空腹のような気もするし、数時間前に他の男と食べたコース料理がまだ胃の中を占領している気もする。


 下腹部を鈍い痛みが襲い、薬の飲み忘れに気付く。

 狭いワンルームの、たかが冷蔵庫までの道のりが遠く感じ、飲まなくても別に良いか、なんて思う。


 と、カタン、と食器の鳴る音がし、嫌でも耳が敏感になる。

 怠いながらに、身体中が緊張しているのが分かった。


「……誰かいるの?」


 真っ暗な部屋に問い掛ける。

 外のネオンも、溌剌とした都会の光とは違い、部屋の中までは照らしてくれない。


「……なんて、いる訳ないのに、私ってば何やってんだろ」


 一人の部屋で声を出すことほどに怖いものはない。

 知っていたはずなのに、つい、出してしまう。

 壁に反響して、やけに大きな声に聞こえてしまうから。身体中の神経が、返事を欲して周囲の音を拾いまくってしまうから。


「やめとこやめとこ」


 声を出すのはこれで最後。

 そう思い、なるべく楽しそうに声を出したつもりだった……だったのに。


 気付いてしまった。


 声が、言うほど反響しないことに。


 私は、この感じを知っている。

 ——誰か、いる。


「ねぇ、待って、誰かいるんでしょ? 何の用なの? 出てきてよ」


 明かりを付けるのが怖くて、その場で声を上げる。

 せめてもの虚勢のつもりだったが、自分でも声が震えているのがよく分かった。


「お願い、出てきて。話そう?」


 縋るような自分の声に苦笑する。

 ほら、返事もないし、きっと気のせいだ。

 そもそもどうやって人の家に勝手に入るのだ。現代日本のセキュリティはそんなものなのか? 答えは否だろう。


 馬鹿馬鹿しい。

 自分の先程までの無様さに失笑する。


 気分直しにもう一本吸うか、と煙草を取り出す。

 火をつけようとしたその瞬間、スマホのディスプレイに、パッと明かりが灯った。


「っ!」


 思わず肩が跳ねたが、出窓から下り画面を確認すると、着信があっていると伝えていた。

 発信主は、彼女。


「びっくりさせんなよな、ったく……」


 そういえば、大量の通知は何だったのだろう。

 それを確認してからの方が良いのではないか。


 都合のいい言い訳を頭の中で唱えながら、着信が途絶えるのを待つ。体の怠さと、面倒臭さが勝っていた。

 随分掛かって、ディスプレイから明かりが消える。


「はぁ……」


 軽く溜め息を吐き、スマホのロックを解除する。

 山のような、いつもよりも格段に多い通知の山に、嫌な予感が過ぎる。


 他の人からのメッセージもあったが、やはり異常に通知が多いのは、彼女とのチャットだった。

 1日数通の未読メッセージが続き、数が大幅に増えているのは昨日からだ。


『何してるの?』

『元気?』

『お仕事頑張ってね』

『最近会えてなくて寂しい。今日会いに行ってもいい?』

『仕事中?』

『仕事中でも返信ぐらい出来るでしょ?』

『もー、焦らしプレイなんて要らないんだけど』

『こんな時間になっても返信ないなんて変じゃない?』

『え、もう夜中だよ? もしかして誰か他の人といる?』

『おはよう……何してるの?』

『ねぇ、私、おかしいのかな……何も手につかないよ』

『早く返信して』

『ねぇ』

『何してるの?』

『今アパートの前にいるんだけど』

『ラッキー、玄関入れたよー』

『部屋の前にいる』

『おーい、もしかしていないの?』

『屋上開いてる。屋上にいるね』

『早く来て』

『ねぇ、もしかして私のこと、もう飽きたの?』

『……送ってもらってた男の人、誰?』

『新しい恋人?』

『ねえねえねえ返事して』

『早く』

『もう待てないよ』


 そして、2分前。


『ここから飛び降りたら、部屋に行けるかな?』


 ゾクッ、と背筋に寒気が走る。

 心臓が早鐘を打つ。


 早く連絡を取らなきゃ。

 早く電話を掛けなきゃ。


 そうしないと、彼女が、


 着信履歴を呼び出し、折り返す。

 頼む、繋がってくれ。

 冗談だと言ってくれ。


 窓の方を振り返り、スマホを握りしめる。


 と、呼び出し音が止まり、風が強いのか、雑音が耳を不愉快に撫でる。


「っ、もしもし、今どこなの?!」


 ——私には、スローモーションに見えた。

 上から落ちてきた彼女が、私を見て笑ったのだ。

 髪を振り乱し、目を見開いた彼女が、裂けた口で私の名前を呼んだ。


『××、やっと見ーつけた』


「いやあああああああっ!!!!!!」


 電話から聞こえたその声は、彼女のものとは思えないくらいに枯れて低く、怨恨に満ちていて、震える手がスマホを取り落とし、腰が抜けて床にへたり込む。


 直後、ドサッともバキッともつかない音が聞こえ、スマホから、通話が切れたことを知らせる電子音が鳴り響く。


 彼女の声が、衝撃音が耳に残り、脳裏には、最後に見た彼女の姿がこびりつき、体が震えて力が入らない。

 嫌、嫌、嫌、嫌。


 そんなことは望んでいなかったはずなのに。


 どうして? どこで間違えた? 何が違った? 初めから? 全て?


 スマホからは、電子音がいつまでも鳴り続けていた——。

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