30-1.もう手遅れですわ
母の日を穏やかに過ごして月曜日。いつも通り、ちょっと早めに登校して図書室で時間を潰してから教室へ向かう。
するとその道すがら、すれ違う女子生徒の会話が耳に入ってきた。内容にえっマジでかと驚く一方で、へぇ珍しいこともあるもんだとあっさり受け流す。
しかし教室前の廊下でその人物とばったり鉢合わせした途端、つい好奇心に負けて、挨拶がてらそこを観察してしまった。
「あらまあ、本当だわ」
目を丸くする私に、カフェテリアから来たのであろう秋人と雪城くんは揃って何がだと言いたげな顔をした。
「えっと……どうしたの?」
「それは私のセリフですよ」
なぜか気まずそうな態度の雪城くんに首を振り、
「おでこの絆創膏、どうされました?」
前髪に隠された絆創膏を指摘した瞬間、場の空気が二極化した。
雪城くんはサッと額を手で隠し、秋人は「誰のせいだと……」と天を仰ぎ見る。どちらも顔色が悪い。
一方周りにいた生徒、特にずっと空気に溶け込みこちらの様子をうかがって雪城ファンと思われる女子生徒が「よくぞ聞いてくれました!」と期待と賞賛の目を向けてきた。おそらく彼女達は、ここに来るまでにすれ違った子達と同じように、推しの顔が傷物になったことを驚き悲しみ心配して、そのワケを聞く機会をうかがっていたのであろう。
私だって春原くんの顔が傷つけられたと知れば、秒で発狂して何があったか調べ上げる。
「これは……金曜に、その、ちょっと流れ弾に当たって……」
「流れ弾?!野球部のホームランボールですかっ?!」
女子生徒達が「おのれ野球部!」「球技ならテニス部やサッカー部の可能性も」「男子の力ならゴルフ部もありえますわ!」と血走った目で密談を始める。
すると容疑をかけられた部に所属しているらしい男子生徒達が、青い顔で蜘蛛の子を散らすように逃げていくではないか。容疑者にしてしまって申し訳ない……。
「それで、病院には行かれました?」
どの部の流れ弾を食らったか分からないけれど、頭に当たったとなれば最悪命に関わる。
というか、いつぞやは秋人に分厚い本をぶん投げられてもかわしたのに、どうして今回は食らったんだ。
めちゃめちゃ不意打ちの豪速球だったとか?
うわぁ、想像しただけで額が痛くなってきた。
「桜子、流れ弾は比喩だ。あとコイツのこれは病院行ってどうこうなるもんじゃない」
「でも絆創膏が……?」
「それはー……あれだ、あれ」
これとかあれとか主語を言わない秋人に、どれよと心の中でツッコむ。
すると「ちょっとぶつけただけだよ」との答えが雪城くんから返ってきた。
「大したことじゃないから大丈夫。心配してくれてありがとう」
にっこりと、王子の二つ名にふさわしい甘い微笑みに、周りからは黄色い声や吐息が聞こえてくる。
だがそれを真正面から見ている私の心と顔は、スゥンと落ち着いていた。
「ぶつけただけ、ですか」
表情だけを切り取れば「ヨッ!さすが少女漫画の公式美形キャラ!」と囃し立て、やんややんやと拍手を送りたくなる絵面だ。
しかし前髪の隙間からは、不釣り合いなベージュの絆創膏がチラ見えしている。そもそも、私と秋人が話している間に、それを隠すように前髪をちょいちょいと直しているのが視界の端で見えていた。
それにどうやってトキメキを感じればいいのか。ファンの子達の反応は、恋は盲目というやつだ。視力検査も裸眼でパーフェクト回答をしてみせる私に無茶を言わないでほしい。
「もちろん私も心配はしていますが……」
ちらりと周囲の顔ぶれを横目で見る。
「私以上に、何があったか分からないままでは不安で、事情を知っていそうな人に尋ねてしまう心配性さんがいますからね」
今日は体育の授業がある。絆創膏を謎にしたままでは、私は女子更衣室でファンの子達に質問責めにあってしまうのだ。
心配している子はたくさんいますよと言う私に周りの女子生徒達は、気恥ずかしそうな、申し訳なさそうな、曖昧な表情でそそくさと各々の教室へと消えていった。
「見事なもんだな」
途端に人の減った廊下を見回して、秋人は感動したように呟く。
「派手なやり方で影響力強くして、遠回しの一言で騒ぎを終わらせる。こういうことか」
「おかげでこれ以上、触れらずに済みそうだ……」
雪城くんは守るように額に触れ、ホッと息を吐く。
結局どういう経緯でケガをしたのか分からないけれど、とにもかくにも頭への衝撃は時間差で症状が出る。でも様子を見るに顔色や呂律に問題はないし、絆創膏一枚で済んでいるなら、本当に大したことないはないのだろう。
しばらくこっそりと見上げていたけれど、気づかれる前に目をそらした。
「今さら遅いかもしれませんが、透明の絆創膏を差し上げましょうか?少しは目立たなくなるかと」
「……そんなに目立つ?」
「貼ってあると知っている人には分かりやすいですね」
「つーか、なんで知ってたんだよ。お前さっきまで図書室にいたんだろ?」
「ここに来るまでの間に、女の子達が話しているのが聞こえたの。何があったかは分かりませんが、顔に傷なんて作るべきではありませんよ」
カバンに入れてあるポーチから、透明の絆創膏を予備を含めて三枚出す。
どうぞと差し出せば、雪城くんはさっき以上に気まずそうしつつもしっかりと受け取る。そしてお礼の次に「ちょっと貼り替えてくる」と言いながら、足早にどこかへ行ってしまった。たぶん鏡のある男子トイレだろう。
「そういえば、雪城くんが顔にケガしたこと、昔にも一度だけあったわね」
ふと思い出したことを口に出せば、秋人もすぐに「あったな」と頷いた。
「中等部の時のやつな」
「体育でバスケットボールの試合中に告白されて、パスされたボールが顔に直撃ってやつね」
「コートの中心で愛を叫ばれたやつな。……男に」
その瞬間のことは、私も秋人もクラスが違ったので見ていないし、事が事だけに本人に聞くわけにもいかず詳しくは知らない。
そもそも当時は聞く以前の問題だった。
秋人が保健室に様子を見に行けば、そこには無言で氷のうをギチギチと握りつぶしている親友。そっと扉を閉めて、私にどうにかしてくれと駆け寄ってきたのだ。
「わざと茶化して気分変えてやろうと思ったけど、俺はあれ見た瞬間、自分の死に顔が見えたな」
「その上で私に押し付けてきたあなたの根性、嫌いじゃないわよ」
秋人のみならず、雪城くんのクラスメイト達もどうにかしてくれという空気を漂わせていたので、私は渋々重い腰を上げた。
でもやっぱり本人には怖くて近づけなかったので、コートの中心で愛を叫んだ男子に説得と提案をしたのだ。
なまじ雪城くんはその辺の女の子よりよっぽど綺麗な顔をしているし、性別に囚われない愛は素晴らしいと思う。でもさすがに告げるタイミングがまずかった。
ツラいだろうがここはひとまず冗談だったということにして場をおさめ、気持ちが変わらなかったら後日改めて二人きりの時に言い直したらどうか、と。
かなり残酷な提案だったが、その翌日には荒御魂はどうにか鎮まっていたので、当事者の間で何かがあって丸く収まったということだろう。かくして犠牲となったのは氷のう一つで済んだのだった。
「ねぇ、もしかして今回も……?」
あまり思い出さない様にしていた過去に、背中に冷や汗をかきながら秋人を見上げる。
するとじとっと恨みがましく見下ろされた。
「透也の名誉のために言っておく。今回は違…………」
不自然な部分で言葉が止まった。
なんだそのクイズ番組の「答えはコマーシャルの後!」みたいな引っ張り方。世界一嬉しくない焦らしテクだぞ。
「違うような、似たようなもんのような、雲泥の差のような……」
「そ、そこまで濁すって、つまりそういうことなの?」
「いや待て、待て待て待て!やめろ!話がややこしくなる!」
「また氷のうがパァンって握り潰されるの……?!」
「やめろって!思い出させるな!」
「思い出すって何を?」
二人揃って、ひっと息を呑んだ。
ゆっくり振り返った先には絆創膏がベージュから透明に変わった、氷のう殺害の前科持ちの姿が。しかし幸いなことに話を聞かれた様子はなく、何の話だと不思議そうに首をかしげるだけだった。
「別にただ、桜子のせいで先週はしんどかったって話をしてただけだ」
「それも今日の放課後、茶道部のお茶会に出席すれば元通りになると話していただけです。あら真琴だわ。話さないといけないことがあるので失礼します」
しれっと吐き出された秋人のごまかしに、私も全力で乗っかるが、親友の姿を見つけた瞬間すたこらさっさと逃げた。
おぉ友よ。救世主よ。素晴らしいタイミングで来てくれた。
後ろから秋人の「あっズルッ!」と非難するような声が聞こえたが、ずるくなんかない。私は自分の親友に挨拶をしに行くだけだ。
そんなことがあった朝から放課後まで、私はひそかに周りの様子を観察した。
私、秋人、雪城くん。ウワサが嘘だと知れ渡ってから始めて当事者三人が揃ったけれど、周りは日常風景として受け入れていた。
付き合っているだの、片思いだの、婚約者だの。ましてや三角関係だの略奪だのと言っている人は一人たりともいない。もう完全にウワサは消えたと見ていいだろう。
しかしその反動で、先週同様、秋人と雪城くんは肉食系女子の皆様方に狙われていた。
「自分の不始末は自分で……!」
帰り支度を済ませ、茶道部員からもらったお茶会の招待状を見ながらヨシッと気合いを入れる。
その時、廊下の方から「さくらぁ〜」と聞き慣れた高い声が聞こえた。しかし声だけでどちらか判別するのはさすがの私にも無理なわけで、
「ああ、瑠美…………あら?」
そちらへと顔を向ければ、ニコニコとご機嫌な瑠美に続き、とある女子生徒が教室へと入ってきていた。
「
「ごきげんよう桜子様」
あごに沿って切りそろえられたショートボブの髪を耳にかけながら、端麗な微笑みを浮かべる彼女。
来栖川さんこと来栖川
「来栖ちゃんも茶道部のお茶会行くんだって。だから一緒に連れてきたの!」
「そういえば、二人は同じクラスだったものね」
「うん。おんなじ七組〜」
「桜子様、ご一緒してもよろしいですか?」
小走りで飛び込んできた瑠美を受け止めつつ、私はもちろんと大きく頷く。
「あ、でも私の方も瑠美と璃美以外にも一緒に行く方が……」
「棟方優奈さん達ですよね。構いません」
「もしかして親しいの?」
「彼女達とは同じクラスになったことがありますし、趣味も合いますので」
「そうでしたか」
一緒に茶道部主催のお茶会へ行く棟方さんと北園さんの方を見る。すると二人はちょうど帰り支度を終えたらしく、こちらへとやってきた。
お待たせして申し訳ありませんと律儀に言う棟方さんに、来栖川さんは私もご一緒するわと言う。とても自然な流れで、なるほどこれは本当に親しいようだ。
そのまま璃美の待つ一組の方へと向かおうとすれば、瑠美が「あれ?」と首を傾げた。
「さくら、いつも四人と一緒にいなかった?あとの二人は?」
「南原さんと傘崎さんのことね」
少し前の出来事を思い出して苦笑すれば、その光景を一緒に見ていた棟方さんと北園さんも同じような顔になる。
「南原さんは吹奏楽部の練習、傘崎さんはお家の用でもう帰ってしまったわ」
「ずいぶんとごねていましたけど、最終的には吹部の人に羽交い締めで引きずられていきました」
「茜さんは……すんなり帰りましたけど、なんだか気が重そうでしたよね。どんな用事なんでしょう?」
棟方さんと北園さんが、私の雑な説明をそれぞれ補ってくれる。すると瑠美は「部活ならしょうがないね。まこちゃんもそうだし」と言い、来栖川さんも納得したような声を上げる。
それを聞きながら、私は芽生えたモヤモヤにひそかに笑みを消した。
真琴と南原さん。バレー部と吹奏楽部では全然違うけど、友達が自分のやりたいことを頑張っている裏でのん気にお茶会ってどうなんだろう。
除け者にするつもりはないし、私自身もやるべきことがあってお茶会に行く。遊びに行くわけではない。でも少し、申し訳ない気持ちになるなぁ……。
なんとも表現しがたい気持ちにううむと考えている内に一組に着き、璃美と合流。六人で野点会場である中庭へと向かう。
「桜子様」
生徒用玄関で靴に履き替えたところで、来栖川さんにちょんちょんと肩を突かれた。急にどうしたのか尋ねれば、「念のための確認なのですが」と先を歩く四人には届かない小さな声で耳に入ってくる。
「茶道部の部長はどなたかご存知でしょうか?」
「部長さん?いいえ、存じ上げないわ」
お茶会の誘ってくれたのは同学年の前野さんと岩下さん。部長は三年生なのだろうとはぼんやり思っていただけで、具体的に誰なのかは知らない。
素直に首を横に振れば、来栖川さんは「やっぱり……」と息を吐く。
「よろしいですか桜子様、心して聞いてください」
「待ってちょうだい。この感じは絶対によろしくないことをおっしゃる流れよね」
やめて聞きたくないとブンブン首を振れば、肩を掴まれ、少し青ざめた真剣な顔が迫ってくる。
そして、ワァ〜美少女〜勝気なつり目は個人的に超好き〜、なんて感想を抱く余裕は一瞬にして奪われた。
「茶道部の部長は寒鳥様ですわ」
「え?今なんと?」
「茶道部の部長は、
「ごめんなさい。私最近、耳の聞こえが悪くって。やぁね、お医者様に診ていただかないと。オホホホ」
あ〜ダメだわ。これ完全にダメなやつだわ。
青いデルフィニウムが似合いそうな美少女の口から、聞きたくない名前が飛び出してくるなんて。これは今すぐに耳鼻科で検査してもらわないといけない。
「桜子様。残念ながらもう手遅れですわ」
「私の耳が?」
「状況が」
すっと指差された方を見れば、もうすでに中庭。
五月の新緑の中、鮮やかな朱色の野点傘が立ち、季節の花を描いた和装の茶道部員が招待客達をもてなしている。
華やかでありながら淑やかな空間。そのど真ん中にいる、豪華なバラ柄の着物をまとった女子生徒──寒鳥緋鞠の姿を見つけてしまい、「ヒエッ」と小さく悲鳴が出た。
「見つけられましたか?」
「残念なことに、視力はとってもいいもので……」
会がつつがなく進むよう、他の部員に指示を出している。しかしそれは何かお目当ての物を探すような、そわそわと落ち着きなくも見える。
しきりに着物のえりや結い上げた髪を気にして、まるで彼氏との待ち合わせ中のようなあの人とは、私はこれまで極力関わらないようにしてきた。
何を隠そうあの寒鳥緋鞠という紫瑛会の三年生は、少女漫画にも登場する人。
しかも千夏ちゃんと秋人の障害となる悪役キャラ。悪のカリスマ系ラスボス宝生寺桜子を崇拝する、忠実なる側近キャラの一人なのだ。
そして関わらないようにしてきたのに、なぜかあの人は、
「まあまあまあ桜子様っ!お待ち申し上げておりましたわっ!」
目ざとく私を見つけると、遠距離恋愛だった彼氏と空港で再会したような輝かしい笑顔を浮かべ、駆け寄ってくる。
そう。なぜか寒鳥緋鞠は、年下である私に異常なまでに懐いて……いや慕っているのだ。
三年生が二年生を盲信。そんな異常性は紫瑛会内では有名な話であり、彼女の凄まじい熱量を私が苦手とし、さりげなく距離をとっていたことも有名な話だった。
漫画のこともあり、私は本当にあの人が苦手なのだ。
「来栖川さん……」
「ええ。できる限りサポートいたしますわ」
「よろしくお願いいたしますわ……」
ああ、なぜウワサ騒動を終息させる場をこのお茶会にしてしまったのだろう。
遠回しの一言で終わらせると言ったけど、その前に私の心が折れるかもしれない。
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