23-2.ずっと前から


 十一年前、前世というものを思い出した時、私は落ち着いていた。

 人ひとりが生きた記憶がフラッシュバックしても、発狂することも気絶することもなく、横でニコニコと笑う女の人が母親で、向かいの席の男の人が父親だという事実を飲み込めた。

 だって、思い出す前の六年分の記憶がしっかりとあったから。ひとり娘としてこれでもかと溺愛された記憶と、そんな二人が大好きだという想いがあったから。

 だから取り乱すことなんてなかった。その場では。


 夜。六歳の子どもの部屋にしては広すぎる自室で、私は当時飼っていた大型犬を撫でながら……



「転生とか嘘じゃ〜ん。しかもなんでひま君の世界?しかも宝生寺桜子って、初恋こじらせたラスボス系メンヘラ悪役令嬢じゃないですかヤダ〜。生まれ変わるならお金持ちの家の子とか美少女とか考えたことあるけど、コレジャナイ感が天元突破してるなあ!こいつぁ笑うしかないわ!アッハッハッハ!」



 けっこう本格的に発狂していた。

 死んだ魚みたいな虚ろな目をしながらノンストップでしゃべり続け、愛犬を撫で回して高らかに笑う六歳女児。どうあがいてもB級ホラー。目撃されたら間違いなく病院送りだっただろう。

 けれど幸い誰にも目撃されることなく、私はひとしきり呪詛のような愚痴を吐き出し続けた。

 そして鏡に写ったサラツヤ黒髪にぱっちり二重まぶたの美幼女を見て、「わあ〜、漫画の回想シーンで見たロリ宝生寺桜子そのものだぁ。さすが少女漫画の悪役令嬢、もう顔が完成してるぅ。超かわいい〜時よ止まれ〜」と思った瞬間、糸が切れたように身体から力が抜けた。



「転生ってことは、私、死んだってことだよね……?」



 力なく愛犬に問いかければ、べろりと顔を舐められた。

 ヨダレがべっとりとついた顔をティッシュ拭く。でも、拭いても拭いても、幼女特有の丸いほっぺたはびしょびょしょに濡れていた。

 丸まったティッシュが三つぐらい床に転がってから、自分は泣いているんだと理解が追いついた。

 死んだという事実と、転生なんていう摩訶不思議体験と、生まれ変わった先で待つ運命にいっぱいいっぱいになっていて、目の前の感情まで処理しきれなかったんだと思う。



「やりたいこと、いっぱいあったのになぁー……」



 真っ先に思ったのは、両親のことだった。

 ひとり娘だったのに。初任給で親にプレゼントを贈るってやつ、やってみたかったのに。

 相手はいないけど、いつかウェディングドレス姿を見せたり、バージンロードを歩いたり、孫を抱かせてあげたり、娘の私にしかしてあげられないことはたくさんあって、全部してあげたいと思っていたのに。

 見せたのは白装束姿で、歩かせたのは焼香台まで。抱かせたのは遺影なのだから、とんだ親不孝者だ。


 次に思ったのは、友人達のことだった。

 みんなで旅行に行く約束をしてたのに。推しに貢ぐ金はあるけど、旅行用に新しく服を金はないと笑っていたのに。

 理想の男が画面の向こうにいるせいで現実がクソすぎるとバカげたことを言って、いざ誰かに彼氏ができたら裏切り者と全力で罵ってから全力でお祝いして、ご祝儀袋を渡す日はいつかなんて茶化し合っていたのに。

 旅行の計画は台無しにするし、渡させたのは香典袋。遺影に向かってバカと全力で罵られてもおかしくない、とんだ裏切り者だ。



「いつのまに、しんじゃったんだろ……」



 私には、自分が死んだ瞬間の記憶がない。

 仮にあったら毎晩それを夢に見て本当に発狂していたかもしれないから、ない方が精神衛生上はいいのは分かっている。しかしそのせいで、自分の死を飲み込んで消化するのにずいぶんと時間がかかってしまった。


 でも、それでも、時間はかかったけれど、私はもう宝生寺桜子なんだと納得せざるを得なかった。

 だって、愛犬が私のそばを離れないから。兄妹のように育った私以外の家族にはどこかそっけなくて、初対面の人には絶対に近づかない愛犬が、その夜はいつも以上に私にべったりだったから。

 だって、部屋あった郵便物の住所や本の出版社名は、思い出した記憶のものと少しだけ違う、まるで間違い探しのようなものばかりだったから。

 かつての私の生きた世界によく似た、違う世界に生きる女の子なんだと納得せざるを得なかった。


 思い出したそれらは、思い出。過ぎ去ったもの。戻りたいと願っても、戻れない。私だった人の記憶が、うっかり宝生寺桜子わたしの中に入ってきちゃっただけ。

 愛犬に寄り添われながら布団を頭まですっぽり被って、声を殺して一晩中泣いて。いつのまにか寝てしまって起きたら、そう思えるようになった。

 ずっと寄り添っていてくれた愛犬に「もう大丈夫だよ」と言えば、私の顔を確認してからベッドを降りて、私に開けさせた扉からスタスタと部屋を出て行った。

 それを見送り扉を閉めた私は……



「寝れば夢落ちパターンになるかと思ったらダメだったわ!うん、これ確実に私死んだな。よっしゃ、死んじまったもんは仕方がねぇ!戻れないなら死ぬ気で生き抜くのみ!宝生寺桜子だとしても漫画の内容は覚えてるし、幼少期からのスタートならシナリオ改変も余裕、余裕!あれ、まって、よく考えたらこの世界には推しが……春原駿が、いる?はあ?動いて喋って息してる春原くんが見られるなんて、やっぱりボーナスステージじゃん。成瑛に入るしかないじゃん。小学校お受験頑張らないと!お父さん、お母さん、親友達よ、私は推しのいる世界で今度こそ長生きしてみせまーす!」



 唯一の長所であるポジティブシンキングを発揮していた。

 泣き腫らした目でノンストップでしゃべり続け、朝日を浴びながら高らかに宣言する六歳女児。これはこれで怖い。やっぱり目撃されたら病院送りだっただろう。

 この場合は開き直りとも言うけれど、とにもかくにも、私は宝生寺桜子わたしとして生きることを受け入れた。

 かつての私ができなかったことを、今度こそ全部やり遂げる。そのために悪役を放棄して、会うたびに「さくらこ」と舌ったらずに呼んで駆け寄ってくる美少年幼馴染みの恋に全面協力してやろうと決めた。


 そうして十一年の間に色々ありながらも、今こうして、立っている。宝生寺桜子として生きている。

 壱之宮秋人の頼みで水族館に来て、朝倉千夏とのデートプランを考えて、雪城透也が私の言葉を待つように後ろにいる。

 漫画では絶対にありえなかったこと。

 今のこの時間は、宝生寺桜子であって宝生寺桜子ではない、私が私として生きてきた証のようだった。



「昔、友人と四人で、こうやって水族館に来たことあったんです」



 十一年間、私は自分の運命に関わる漫画の記憶以外、前世の記憶は思い出さないようにしていた。

 どれもこれもいい思い出で……いい思い出すぎて、続きを突然奪われたことに立っていられなくなりそうだったから。

 こればかりはポジティブに考えることはできないと思っていたから。



「その時のことを、思い出してしまって……」



 せっかく、宝生寺桜子の人生は波乱万丈。三日に一回ぐらいは面倒ごとがあるから、その忙しさに自然と思い出さなくなっていたのに。

 水族館という場所。若い女性客四人という人物。昔のことを思い出すという動作。

 条件が揃ってしまって、芋ずる式に、ペリカンよりもさらに昔のことまで思い出してしまった。なんとも不甲斐ないことだ。



「ハリセンボンがいい思い出ってなんだ、と思っているでしょう?」


「え、あ……そう、だね」



 かける言葉が見つからなくて、とりあえず同意する。そんな雰囲気に、少し笑った。



「友人達と訪れた水族館にはハリセンボンがいて、それを見ていたら一人が指切りの歌の話をしたんです。小さい頃、歌に出てくる針千本は、縫い針千本ではなく魚のハリセンボンだと思ってた、と」



 人が、人を忘れる時。声から忘れていくと、前になにかの本で読んだことがある。

 事実こうして久しぶりに思い出そうとしてみると、もうあの子達の声は思い出せない。

 十一年前にあれだけ鮮明だった思い出は、いつのまにか字幕付きのモノクロ無声映画のようになってしまっていた。



「それで……本当にくだらない事だけど、仮に飲むのがハリセンボンでも、魚なら食べられるんじゃないか、ハリがあるんだから無理だという話で盛り上がって……。最終的には私が沖縄にはアバサー汁っていうハリセンボンのお味噌汁があることを教えたら、じゃあ次の夏に沖縄旅行をしようという話に落ち着いたんです。でも……」



 クラゲが漂う水槽に添えていた手に、かすかに力が入る。



「でも、その約束は、果たせなかった。私のせいで、台無しになってしまった」


「台無しって……その三人は速水さん達じゃないの?」



 真琴達とのことじゃない、と。私はゆるく首を振った。



「もう、どうしたって、どれだけ悔やんだって、その約束だけは絶対に果たせないんです」



 腐れ縁とすら言える関係だった親友達は、真琴みたいにちょっと口が悪いけど優しい子、瑠美と璃美みたいに子どもっぽいけどいつも楽しそうに笑う子、芽衣ちゃんみたいに押しは強いけど真っ直ぐな子だった。

 もしかしたら私は、無意識にあの子達に似た子を求めていたのかもしれない。

 でも彼女達を、あの子達の代わりにするつもりは毛頭ない。

 あの約束は、あの子達との約束で、もう過去のことだ。



「……つらくは、ないんだよね?」


「ええ。それどころか、なんだか今は、思い出せてよかったと思っています」


「思い出さないようにしていたのに?」


「そうだったんですけどね。久しぶりに思い出して、初めて他人に話してみたら、思っていたより寂しくも悲しくもないんですよ」



 前世という単語は出さないで、あくまでちょっと昔のこととしてだけど、初めて他人にかつての私の思い出を話してみた。すると自分でも驚いたことに、私の心はとても落ち着いているのだ。

 もちろん寂しさも悲しさもあるし、約束を守れなかった罪悪感なんかもあるけれど、声が震えることもなければ涙も出ない。


 それどころか、遺影の写真は卒業アルバムの写真を使い回すのではなく、生前最高に可愛く盛れた写真を使ってくれただろうか、とか。

 携帯電話とノートパソコンは中のデータを見ずに、お湯を張ったバスタブに沈めてぶっ壊してほしい、とか。

 誰しも一度は考えるであろうが死後の心配事が、ものすごく今さらながら次から次へと浮かんでくる始末だ。



「過ぎたことと割り切ったつもりだったけど、ずっと、不完全燃焼だったのかもしれません。でも今、ようやく消化することができた……と、思います」



 自分の感情は、意外と自分では分からない。

 少し前にもそう考えたけれど、これも同じなんだろうか。それすらもよく分からなかった。

 しかしそうは言っても、前世の記憶と感情の処理方法なんて世界中の誰も教えてくれないんだから、分からなくたって仕方ないだろう。うん、仕方ない仕方ない。ここはいつものポジティブさで区切りをつけたってことにしておこう。



「とにかく、つらくなんてないですし、むしろ変な話を聞かせてしまってごめんなさい」



 振り返ったって、どうせ戻れない。だったら前向きにと思って生きてきたけれど、たまには過去を振り返ってみるものいいのかもしれない。前を向いて進み続けるためには、一度ぐらい。

 その一度が、たまたま今日の、この瞬間だったんだろう。



「それにホラ、こうやって最近人気のクラゲを貸し切り状態で見ることができるなんて、得をした気分です。……だから、そんな顔をしないでください」



 LEDライトに照らされた水槽のすぐ近くにいる私と違って、周囲のどの水槽からも少し離れている雪城くんの表情ははっきりと見ることはできない。けれどまったく見えないわけでもない。

 喜怒哀楽のどれとも言えない、全部が複雑なバランスで混ざっているような曖昧さ。あえて表現するなら、どうにかしてそこに踏み止まっているような顔だった。

 こういう場合、他人に歩み寄ることに慣れている人なら、どうしてそんな顔をするのか聞いたり、明るい水槽の方へとその手を引っ張ったりするのだろう。

 でも今の私には、そんなことをする勇気はなくて……。



「雪城くん」



 動いてくれない足の代わりに、呼んで、手招きをすることぐらいしかできない。

 すると一瞬ためらうような素振りをしてから、雪城くんは私の方へ来て水槽を眺めた。



「……なにかあったの?」



 ほんの少しの沈黙の後、先に口を開いたのは彼の方だった。



「……続けるんですね、この話」


「だって宝生寺さんは……なんていうか、聞けばある程度は教えてくれるけど、聞かないと何も言ってくれない。何を考えてるかわからない秘密主義な人なのに、聞かなくても詳しく教えてくれるなんて、なにかあったとしか思えないよ」



 学校でもいつもと違うことをするとって言ったいたし、と念を押すように言われてしまった。

 何を考えてるかわからない、ね。真琴にも同じようなことを言われたけど、私ってはたから見たらミステリアスキャラなのか。そりゃあ周りから距離も置かれやすいな。

 なにを考えているか分からない、そもそも考えるだけの意思があるのかも分からないクラゲを眺めながら、他人事のように思った。



「んー、実はちょっと、他人との関わり方……距離の取り方を変えようかなぁと思いまして」


「距離?」


「こういう言い方をすると自分を正当化するようで嫌なんですが、私、『相談に乗るからなんでも言って』と言って踏み込んでくる人がちょっと苦手なんです」


「……ごめん」


「え?あっ!違います、今の雪城くんが不快と言っているわけではありませんよ!?苦手なのは、言いたくないと拒んでもズケズケ踏み込んで来る人ですから。踏み込まない程度に心配して尋ねるのは、すごく正しくて優しいことです」



 なんでも言ってという言葉は、本人は百パーセントの善意で言ってくれているんだろう。そうやって手を差し伸べられることで、救われる人もたくさんいるだろう。

 でも私は、その言葉が、行為が、時おりものすごく無責任なものに思えてしまう。

 誰にでも言えない秘密や悩みはある。それなのに強引に聞き出して、もしも聞き出したものが受け止めきれないものだった場合、どうするつもりなんだろうと思えてしまう。

 差し伸べられた手は、がっちりと握って引っ張り上げてくれるんだと信じていたのに。いざこちらから伸ばした手が思っていたより遠かった場合、どうするつもりなんだろうと思えてしまう。



「だから私は、自分がされて嫌なことはやりたくなくて。相手が言いたくないことは聞かない。言いにくそうにしたら身を引く。気になっても、相手が言ってくれるのを待って、その時が来たらきちんと聞けばいいとずっと思っていたんです」



 でも、と言葉を続ける。



「私はどうも、引き際が良すぎると言いますか……。去る者を追わないのではなく、我が身可愛さからすぐに耳を塞いで、一歩下がるから、永遠に周りとの距離が縮まらないんだと気づいたんです。それを変えていこうと思ったわけです」


「確かに、たまに意地でもこっちの話を聞かなくなるし、逃げ足も野生動物並みに速いもんね」



 ハア〜〜〜〜〜ン?!

 せっかく人が真面目なトーンで話しているのに、野生動物並みとはずいぶんな言い方をしてくれますねぇ?!お望みなら次にあなたから逃げる状況になったら、サバンナまで逃げてやりましょうか?!逃げ切れる自信しかありませんけど?!

 いつだか人のことを誘蛾灯と言ったこともあるし、この男は私をなんだと思っているんだろうか。

 ふっと思い出したように小さく笑う姿を、横目で睨んだ。



「でもさ、それは宝生寺さんの優しさだと僕は思うよ」


「野生動物並みの逃げ足の速さが?斬新な優しさですね」


「そっちじゃなくて。言いたくないから黙るんじゃなくて、言いたいことはあっても、うまく言葉になってくれないってこともあるから。言えるようになるのを待っていてくれるのは、すごく優しいことだよ」


「……それこそ、正当化です」


「正当化じゃなくて、最初から正しいことだよ。言いたくないことは言わなくていいし、言いたいことがあれば聞いてくれる宝生寺さんの優しさに、いろんな人が救われているんだから」


「……そんな人……」


「いるよ。君にとっては、聞かないことが当たり前すぎて気づいていないんだろうけど、たくさんいる」



 断言するような、それ以上は否定するのは許さないと言いたげな声色に、思わず押し黙った。


 この人は、なにを言っているんだろう。

 今日ここに来る前、これまで「桜子様」と遠巻きにされているからと諦めていた子達に歩み寄ったら、これまで遠巻きに眺めているだけだった野点に誘われた。

 それはつまり、これまでが間違いだったってことじゃないか。

 間違いだったと、これからはちょっとずつでも変えようと思ったばかりなのに。その日のうちに正しいことだなんて言われて、理解できるわけがない。



「確かに『なんでも言って』って手を差し伸べるのは、間違ってないし、誰にでもできることじゃない」



 だけど、と言葉が続けられる。



「言えるようになるまで待っていてくれることだって、同じぐらい正しくて、誰にでもできることじゃないよ」



 ちょっと待ってほしい。

 今、私のなかではいろいろなものが砕けて、崩れて、ぐるぐると回って、これ以上なにか予想外のことを言われたら頭が破裂しそうなっている。



「そういうことができる宝生寺さんのこと……僕は、ずっと前から──」



 言うのを待つのが救いなら、聞くのを待つのだって救いになるだろう。

 今度はなにを言うつもりかは分からないけど、お願いだから、今は──



「桜子!透也!」



 アッ。





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