22-3.ここまで来てしまったんです




 目の前を泳ぐのは、塩焼きにしたらおいしそうなニジマスや、甘露煮にしたらおいしそうなアユ。

 いつもなら私はこの時間、もうとっくに家に帰っていて、リビングでお菓子を食べながらドラマの再放送を見ている。でも今は水族館にいて、渓流を模した水槽の中を泳ぐ魚を見ていた。



「スジエビは、素揚げで塩かな……」



 秋人は下見をしてからじゃないと千夏ちゃんを誘えないという姿勢だった。しかしこうやって下見をしたということは、秋人は千夏ちゃんを誘い水族館デートをするだろうし、そんな二人を私が『目撃』することになったら、修正力の存在は確定だ。

 そうなれば私の運命は雲行きが怪しくなる。大雨強風河川の氾濫に高潮、特別警報を発令してただちに安全な場所に避難するレベルだ。

 しかも万が一こうやって三人でいるところを知り合い……例えば秋人と雪城くんのファンに見られでもしたら、夜道で背後からブスッと刺されるかもしれない。

 三人で水族館に来て良いことなんて一つもない。ハイリスク・ノーリターン。正直言ってめちゃめちゃ泣きたい。



「そろそろ機嫌なおしてくれた?」



 横に並ばれたので、その顔を見上げる。すると雪城くんは駄々っ子をなだめるような目をしていて、思わずムッとした。



「カバンを返してください」


「まだなおってないみたいだね」


「ここまで来てしまったんです、もう帰るのは諦めましたよ。それに……元を正せば、あのタイミングで秋人に招待券を渡した私がいけなかったんです」



 秋人の性格上、千夏ちゃんとのデートを成功させるために下見をしたいと言い出してもおかしくはなかった。

 そしてそれに私と雪城くんを同行させようとして、私達が今日は無理だと逃げたらじゃあ明日に、明日が無理なら明後日にと、行くまで延々としつこく誘ってくるだろう。

 つまり招待券を渡した時点で、どうあがいても三人で下見をすることは回避できなかったと思う。

 デートの下見ってなんなの、ほんと……。



「まあ、まさかあの場で寝返られるとは思っていませんでしたがね」


「そこはまだ怒ってるんだ」



 カバンを返してもらいながら「当たり前でしょう」とじとっと睨めば、ただ苦笑いが返ってくる。



「もしも今日のことが私の母や秋人のお母様に伝わって厄介なことになったら、どう責任を取っていただこうかしら」


「責任……その手があったか」



 日本淡水魚コーナーは水族館では序盤中の序盤。水族館の醍醐味はそれより先にある、暖かい南の海の中のような光景だ。

 順路案内の看板に従い、先に行ってしまった秋人の背中を探しながら言う。すると感心したような声色の呟きが聞こえた。



「安心して。何かあったら、僕がきっちり全面的に責任取るよ」


「言いましたね?もしもの時はブラジルまでの渡航費、雪城家に全額請求させていただきますからね?」


「……地球の裏側まで逃げるつもりなんだね」


「宝生寺と壱之宮が手を組んだら、国内ではすぐに捕まってしまいそうですので。ほとぼりが冷めるまで世界各地を転々としようと思います」


「宝生寺さんなら本当にやりそうで怖いよ」


「あら、私は本気ですよ。口で言って理解してもらえないのなら、行動で示すしかありませんもの」



 私も秋人も、長年お互いを幼馴染みとしか見ていない、恋愛対象ではないと自分の母親に言ってきた。それでも分かってくれないどころか、私達の意思を無視して自分の理想を押し付けようとするならこっちだって徹底抗戦するのみ。

 その日のうちにブラジルまで逃げて、サンバを踊る綺麗な女性ダンサー達をじっくり見てからまた移動して、しばらく諸国漫遊してやる。

 白米大好きな私は絶対に日本食が恋しくなるだろうけど、今は世界中に日本食レストランがある時代だ。どうにでもなるだろう。



「おい、お前らなにダラダラ歩いてんだよ」



 水槽の様子が見やすいよう徐々に暗くなる通路を進むと、秋人が壁に寄りかかっていた。



「あなたが勝手に先に行ったんでしょう」


「お前らが遅いんだよ」


「僕らは秋人が団体行動できないのは知ってるからいいけど、朝倉さんと来た時はやらない方がいい思う」


「やらねぇよ」



 お前らとあいつの扱いが同じなわけないだろ、と秋人は舌打ちをした。

 あーハイハイ、千夏ちゃんは恋人という特別枠ですもんね。むしろ私としては、可愛い恋人を幼馴染みと親友なんぞと同じ扱いをしたら、その整った顔面に飛び膝蹴りをキメてやるところだ。



「でも実際、彼女と一緒の時は気をつけてちょうだい」



 薄暗い周囲を見回して、万が一にも知り合いがいないか確認をしながら通路を進む。

 よしよし、見える範囲にいるのは、大学生か社会人と思われるカップルだけだな。



「今日は平日だから閑散としているけど、休日は人で溢れかえってるはず。水槽ばかり見ているとはぐれてしまうわよ」



 平日夕方の水族館は初めて来たけど、休日に比べるとお客さんがかなり少ない。これなら知り合いに会ってしまうこともなさそうだし、一つ一つの水槽をじっくり見ることができるのはちょっとラッキーと思ってしまうぐらいだ。

 でも休日の昼間はこんなもんじゃない。



「気をつけるってどうすりゃ……」



 大きな水槽の中を銀色の塊になって泳ぐ、梅煮にしたらおいしそうなイワシの群を見上げていたけれど。横に並んだ秋人のその気だるげな声に、はあ?と思った。



「バカなの?手を繋げばいいだけじゃない。繫ぎ止める努力をしなさいと前に言ったでしょう」


「物理的にかよ」


「はぐれて、せっかくの楽しい時間が短くなってもいいの?」



 秋人はそれは嫌だと言いたげに顔をしかめた。そして千夏ちゃんと手を繋ぐ想像でもしたのか、自分の手をじっと見下ろす。

 水槽の青い光を浴びていても、その顔が普段より少しだけ赤みがさしているのが分かった。

 海外旅行には誘えるのに手は繋げないって、本当にこの男の羞恥心の設定はどうなっているんだろう。



「それに休日は人がたくさんいるけれど、これだけ暗ければ、万が一知り合いが来ていても誤魔化せるでしょう。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中よ」



 少女漫画の水族館デート回では、人混みを理由に秋人から手を差し出し、二人は水族館内だけでなく帰り道でも手を繋いでいた。

 秋人はぶっきらぼうながらも千夏ちゃんを想っていて、それを身をもって知った千夏ちゃんは照れながらも幸せを感じ、そんな二人の初々しさに読者は身悶えたのだ。

 漫画では手を繋いだせいで、それを目撃した宝生寺桜子が二人の関係に気づいて妨害を始めたわけだけど、私はそんな事をするつもりはない。水族館内で知り合いと鉢合わせというハプニングもなかったと記憶しているから、どうぞ思う存分イチャついてくださいな。



「あとは……」



 教えておくべき注意事項ってあったかな?

 きれいよりも先に美味しそうと思ってしまう日本近海に住む生き物のコーナーから、日本から遠く離れた暖かい海に住む生き物のコーナーへと移動しながら考える。

 通路の照明はどんどんと落ち、比例して水槽の青が鮮やかになる。そこを赤や黄、紫、白と黒の縞模様の魚が泳いでいる姿は、鮮やかすぎていっそ目が眩みそうなぐらいだ。



「水族館に下見が必要なことなんてないと思うけど……」



 少女漫画の水族館デートの記憶を引っ張り出しても、二人は手を繋ぐ以外は普通に水族館内を見て楽しんでいただけだ。改めてアレをしろコレをしろと言う必要はない。

 そもそも、これまで告白をしたこともされたこともない男運ゼロで恋愛経験ゼロの私が、それらしいアドバイスができるわけがなくない?



「雪城くん、何か気をつけるべきことはありますか?」



 今更なので隠すことなく「この手のことは経験がないのでよく分からないんです」と言えば、困り顔で首を傾げられた。



「さあ、なんだろう。秋人が何をしたいか次第じゃないかな?」


「だそうよ、秋人。朝倉さんとここへ来て何がしたいの?」


「何って……別に……」



 秋人はぐっと言葉を詰まらせると、眺めていた手のひらを握りしめてそっぽを向いてしまった。



「……べ、別に俺は……あいつが楽しければ、それで、いい……」



 聞こえたそのしぼり出したような言葉に、少し離れた場所にいるカップルの仲睦まじい会話が聞こえるぐらい言葉を失う。

 私がパァンと慌てて自分の口に両手を押し当て笑いを堪えるのと、雪城くんが額に手を当てこれでもかと大きなため息を吐くのは同時だった。



「ん、ふっ、ふっふふふ……」


「秋人、お前って本当に、なんていうか……」


「な、なんだよ?!」


「なにって、だって、あなた……ふふっ」


「ニヤニヤすんな!」



 熱帯魚よりも真っ赤な顔で睨まれても、迫力なんてまったくない。

 俺様何様秋人様のプライドエベレスト男が、こんなにも健気なことを言うなんて、いったい誰が想像しただろう。こんなの笑うに決まってる。

 おかげでうっかり猫をかぶるのも忘れて、その顔を指差し大口を開けて笑いそうになってしまったじゃないか。手で隠しながら下唇を噛んで、それだけはどうにか耐えた私は本当によく頑張ったと思う。



「そうよね、朝倉さんが楽しいかどうかは何よりも大事よね。まったくもってその通りだわ。んふふふふ」


「おい桜子、マジでいい加減にしろよ」


「そうだよ、宝生寺さん。それ以上笑うのはさすがに可哀想だ。くっ」


「透也!」


「しょうがないだろう。今までの自分の言動思い出してみなよ。そういうこと言うキャラじゃなかっただろう」


「キャラってなんだよ!」



 食ってかかる秋人と、それをあしらう雪城くんの会話を聞き流しながら深呼吸をして笑いの波を遠ざける。

 とはいうものの、本当にあの壱之宮秋人の口からあんな発言が飛び出すとは思わなかった。

 さっき言いかけてやめた言葉なんて「なにって、だってあなた、朝倉さんのことどれだけ好きなのよ」だ。言ったら秋人は間違いなく今以上に怒るだろうから言わなかったけれど、でも、言ってしまっても良かったかもしれない。

 だって、



「そこまで想える子と出会えて良かったわね、秋人」



 それはすごく幸せな、唯一無二との出会いによる美しい変化なんだから。



「は?なんだよ、急に」


「何があっても彼女の手を離すなという意味よ」


「それはさっきも聞いた」


「そうね」



 生まれて十七年、前世を思い出して自分の運命を知って十一年。

 ずいぶんと長い間その様子を近くで見てきたけれど、高等部に進学して、千夏ちゃんと出会ってからの秋人の変化は著しい。

 『ひまわりを君に』でも序盤の壱之宮秋人はまさに暴君だったけれど、第二部では一途に千夏ちゃんだけを想う誠実さを身につけた。

 きっと本来の宝生寺桜子は、それを嫌だと、その想いを自分に向けてほしいと思ったんだろう。

 でも私にとって秋人は手のかかる弟のようなもの。その変化を喜んで、幸せを願って、背中を押してやろうと思うのは当然のことだ。



「方向性が決まったのなら、秋人の言う通り、朝倉さんが笑顔でここを満喫できるように考えましょうか。三人寄ればなんとやらです」



 修正力なんていう厄介なものに気づいてしまったけれど、まだ確定じゃない。もしもあったとしても、対処法を考えればいいだけのこと。


 確かにここは少女漫画『ひまわりを君に』の世界で、私は『宝生寺桜子』だ。

 でもすべてが漫画の通りになっているわけではない。

 それは私が私として、悪役の役割を放棄して好き勝手にやった結果。修正力が修正しきれなかった部分があるから、今は『ひまわりを君に』に似ているけど違う世界になってきているんだろう。

 だったら最後まで、異物として私のやりたいよう好き勝手に生きて、結末も修正ができなくしてやるまでだ。



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