13-1.控えるべきだと思う
車を降りて、目的地である文化センターを目指して森林公園内を歩く。
東京を離れた一週間の間に桜は散ってしまったようだけど、代わりに芽吹いたばかりの若葉が風に揺れ、舗装された道に影をつくる。見上げた空は春特有の霞がかった青空で、視線を下げて横を見ると芝生広場を五歳前後の子どもたちが駆け回り、楽しそうな声が聞こえてくる。
すごく平和だ。ウィスパーボイスが売りの歌手の新曲ミュージックビデオにでも使えそうなぐらいに穏やかで、いい日だ。
腕時計を確認すると、約束した時間のちょうど十分前。正面に見える煉瓦敷きの階段を上がった先が目的の文化センターなので、時間配分はばっちりだ。
そう思いながら歩いていると、ちょうど私が上がろうとしていた階段の前に、一人の女性が立ち止まっているのが見えた。
なんとなく近づきながら観察すれば、肩には大きな鞄、右腕で赤ちゃんを抱いて、左腕でベビーカーを折り畳んで持ち上げようとしている。おっと、これは……。
「あの、差し支えなければ、お手伝いしましょうか?」
後ろからそっと声をかけると、振り返った女性は戸惑った表情。
腕の中からじっと私を見てくる赤ちゃんと鼻の形がそっくりだった。
「そんな、わざわざ……」
「階段の上に行かれるんですよね?私も行くので、もしよろしければお荷物運びますよ」
「……本当ですか?えっと、じゃあ、お願いしてもいいですか?」
控えめに差し出されたベビーカーを受け取り、ついでにベビー用品が詰まっているであろうパンパンのカバンも預かる。
最初は女性も遠慮しようとしたけれど、お子さんを守るのがお母さんのお仕事ですよ、と言えば女性は照れたようにはにかんで渡してくれた。
「可愛いお子さんですね。女の子ですか?」
「いえ、男の子です」
「わっ!ごめんなさい。可愛い顔立ちだからてっきり……」
「ふふっ、ありがとうございます」
私としたことが、女の子と男の子を見間違えるとは。審美眼もまだまだだな。でもベビーは男女問わず可愛い生き物だから、仕方がない。
赤ちゃんの日光浴にはいいお天気ですね、なんて当たり障りない世間話をしながら階段を上がりつつ、腕の中の赤ちゃんを見る。そういえば男の子はお母さんに似るとよく聞くから、鼻の形がそっくりなこの子が男の子だと納得できた。
大きくなったら優しくて賢い親孝行のできる男になれよ~。間違っても四股するような男になるなよ~。そう念じながら階段を上りきり、赤ちゃんを寝かせられるようにベビーカーを開いて、カバンもお返しする。
「ご親切にありがとうございました」
「いいえ。私も上へ行くついででしたから」
ぺこぺこと頭を下げる女性は、手伝われることに慣れていなかったのかもしれない。
でもあの状況を無視できるような人間がいたら、私はそいつの神経を疑う。よっぽどの急用があってのことなら仕方がないけれど、希望と愛情の結晶体である赤ちゃんと、それを大変な思いをして産んだお母さんは支えるべき存在だろう。
ベビーカーを押す背中をある程度の距離まで見送り、腕時計を見ると待ち合わせ時間の五分前になっていた。
ゲッ、やっば!文化センターは階段を上がったらすぐとは言えど、待ち合わせ場所である正面入り口まではもう少しだけ距離がある。ただでさえ腹を探ろうとしてくる男との待ち合わせに遅刻したら、それこそ私の印象が悪くなってしまう。
よし、走るか。
「宝生寺さん」
突然背後から聞こえた声に、私がすでにマンチカンなら軽く三十センチは跳び上がっていたと思う。
驚いてドッドッドッと暴れる心臓をおさえつつ振り返れば、想像した通りの人物。文化センターの正面入口で待ち合わせる予定になっていた雪城くんが、思っていたよりも近くにいた。
気配も足音もなく近づくって忍者かよ……。
「い、いつからそこに……」
「ちょうど宝生寺さんが階段を上がってきた時かな。声をかけるタイミングが見つからなくてさ」
「そうですか……」
さらっと言うけど、私は女性と話して見送っていたから、それなりに長い時間見ていたってことじゃないか。絶対にもっと早く声をかけるタイミングがあっただろ。
「えっと、私が待ち合わせに遅れたから、わざわざここまで来てくださったんですよね。ごめんなさい」
「まだ五分前だから遅れてないよ。それに僕が勝手にここまで来ただけだから、気にしないで」
なんでだろう。雪城くんの微笑みは見慣れているけれど、今まで見てきたなかで一番胡散臭いものに見える。
これは考えていた通り、今後は第二部での宝生寺桜子と雪城透也の関係と同じで、私が秋人達の破局を狙っているのかどうか腹を探られることになるかもしれない。
秋人に合せてデートなんてもっともらしい単語を使って、腹を探る機会をつくった。その時たまたま澪ちゃんのバレエ発表会という自然な理由が見つかったから、利用した。といったところだろうか。
でも今日のこれで、春休みに一緒に出掛けるという約束は守ったことになるはずだ。言質を取られて渋々感はあるけれど、今日会うことで疑いが晴れるかもしれないならどうぞ存分に腹を探ってください。私は潔白です。
とは言えど、やっぱりこの人との距離感は今のままか今以上に離れたものにしておきたい。疑われたりするのは嫌だけど、強引に疑いを晴らそうと自分から近付いてやぶ蛇を食らうのはもっと嫌だ。
行こうか、と言われてもなるべく近づきたくなくて、一応横を歩くけれど気持ちススッと距離を開けた。
「どうかした?」
「いえ……。えっと、開演は何時なんですか?」
「十時半。まだ余裕があるから、焦らなくても大丈夫だよ」
なんてことを言っている間には目的の文化センター入り口に到着。
子どもの習い事の発表会なのでチケットなんてものはなく、建物に入ってすぐに雪城くんに「ちょっと待ってて」と言われて素直に待っていると、バレエ教室の関係者らしき人がやっている受付からパンフレットのような物を持ってきてくれた。
「それが受付を済ませた証になってるらしいから、一応持ってて」
「分かりました。ああ、演目だけではなくて、通っている子の紹介も載っているんですね」
「澪は新一年だから、後ろのページに小さく載ってるだけだけどね」
パンフレットによると、今日はバレエ教室の中でも小学六年生から五歳までの子が在籍するクラスの発表会らしい。そうなると中心になるのは、新年度になれば中学生となりクラスが変わってしまう小学六年生達。それ以外の子はおまけ的な扱いだ。
雪城くんの言葉の通り、新小学一年生の澪ちゃんの紹介はパンフレットを後ろからめくっていった方が早いページに載っていた。でも教室の先生が書いたと思う生徒紹介は短いけど愛情があって、澪ちゃん自身のコメントも「しょうがくせいになってもレッスンをがんばります」で、毎回楽しく教室に通っているのが想像できてほっこりする。
「そういえば宝生寺さんも、バレエ習ってたんだっけ?」
「習っていたと言っても、小学三年生までですよ。六歳の頃に母の強い希望で通うことになって、でも切っ掛けがそんな感じだからやる気が出るわけもなく、上手くなることもなく……」
「へえ、意外だなぁ。宝生寺さんって、なんでもそつなくこなす人だと思ってた」
「あなたがそれを言います?雪城くんこそ、どんなことでも涼しい顔でやってのけてしまうじゃないですか」
「僕が?」
不思議そうに首をかしげられた。自覚なしかこの男……。
秋人といい雪城くんといい、どうにも昔から自分が家柄と容姿、頭脳、運動神経、全てが高水準の超人という自覚がないんだよなぁ。
小さい頃から同じレベルの人達に囲まれて育つとそうなるんだろうか。
「宝生寺さんには、僕がどう見えてるのか気になるね」
「どうって……」
あれ?もしかして今、腹を探られています?会って十分そこそこで探りを入れられています?
ほら見ろ、やっぱりそういう裏のある誘いだったか!
私は今まで何度だって、恋愛偏差値ゼロのプライドエベレストお坊っちゃんの恋路を手伝ってたじゃないか。近くで見ているはずなのに、なんでそんなに疑うのだろう。
十年来の幼馴染みだのデートだの言って距離を詰めてきたと思ったら、これだもんなぁ。雪城透也って生き物は宝生寺桜子を信用しないことが遺伝子に刻まれてるのか?
やだぁ、遺伝子組み換えされてください。ジャガイモみたいに。
「えっと、妹思いの素敵なお兄さんに見えていますよ?」
とりあえず、敵対心なしアピールのために好意的なことを言っておく。
「妹のお願いを叶えてあげるために、こうやって貴重な春休みの一日を使ってあげるなんていいお兄さんですよね。昔から颯真くんとも仲がよろしいですし、私はひとりっ子なので、二人が羨ましいです」
「……いいお兄さん、ね」
えっ、なによ、その反応。もしかしてミスった?
お前みたいな女、できれば妹に関わらせたくねーよ。調子にのるな、みたいな感じ?さてはシスコンですか?
申し訳ありませんねぇ。私は美女と美少女と美幼女を眺めるのが好きなんですよ。あなたには関わりたくないけど、あなたのお母様のお美しさと妹君の愛らしさに釣られてホイホイ来てしまったんですよ。
最強に可愛い美幼女澪ちゃんに会えたらさっさと帰るんで、その感情の読めない微笑みはやめてください。怖い……。
ふいっと視線をそらした時、「透也」と雪城くんを呼ぶ美声が聞こえた。
声の聞こえる方へ視線を移せば、美の女神ヴィーナスもクラウチングスタートで逃げ出すレベルの美女が笑みを浮かべてこちらへ来ていた。雪城三兄妹の母親だ。
その横には、そんな美女の心を射止めた雪城社長が付き添うように歩いている。
雪城夫妻とは先日の成瑛の懇親パーティーでも顔を会わせなかったから、ずいぶんと久しぶりに会う。でも三兄妹の美形遺伝子のもとである容姿は相変わらずだった。
「お久しぶりです。本日はご招待いただき、ありがとウヒャアッ!?」
私の挨拶は、途中で奇声に変わった。
「母さん!」
「ああ、サラの悪い癖がでた……」
親子の声よりも私の耳に入ってきたのは、ちゅっ、というリップ音。しかもそれが右耳と左耳に一回ずつ。
花の甘さのなかにスパイスの混ざるアルデハイディック系香水のセクシーな香りに包まれ、私の慎ましい胸には柔らかくご立派なモノがこれでもかというほど押し付けられている。
ちょっと待って、理解が追い付かない。どうして私、雪城夫人に熱烈ハグからのチークキスをお見舞いされているんですか?
「桜子さん!来てくれたのねぇ、待ってたわ~!」
オオ、ファビュラス……。日本とフランスのハーフで美女なのは知っていたけれど、こんなにも至近距離でご尊顔を拝むのは初めてだ。
まつげ長いけど、これ付けまつげじゃなくて自前だ。毛穴だって一つもない。圧倒的に画素数が違う。一般人がハイビジョンなら、この人は4Kのウルトラハイビジョン。なんかもう色々と同じ女を名乗っててごめんなさいって言いたくなるレベルだ。
なに食べたらこんな風になれるの?手作りスムージー?ナッツ?スーパーフード?このレベルになるとバラの朝露という説もあり得る。
ご機嫌でぎゅっと抱きしめられて、これは私も背中に腕を回した方がいいのかなと思っていると、動かしかけた腕を後ろから掴まれベリッと引き剥がされた。
「母さん。日本でこういうのは控えるべきだと思うって、何度も言ってるよね」
美女との貴重な抱擁を妨害したのは、雪城くんだった。
あ、もしかしてお触りNGでしたか?さっきのはあなたのお母様からだったのでノーカンでお願いします。
「あら透也、心の狭い男は好かれないわよ」
「そういう話じゃなくて……。澪もマネをするからやめてよ」
はあ~~?澪ちゃんもぎゅってしてちゅってするって~~~~??
なにその罪深い英才教育。可愛いの化身かよ。とんだご褒美だよ。
私がやられたら膝から崩れ落ちる自信しかない。
「まあまあ透也、その辺でいいじゃないか。妻が失礼したね、桜子さん。娘だけでなく彼女も今日を楽しみにしていて、つい昔からの癖が出てしまったんだ」
「いいえ、私の方こそ失礼しました。慣れていないもので……」
苦笑いを浮かべた温厚そうな紳士、雪城社長にそう声をかけられ、瞬時に剥がれかけた猫を被りなおして微笑んで答える。
どこでこんな美女引っかけたんすか?、という下世話な問いは一欠片も残さず飲み込んだ。
というか、雪城くん。いつまで私の二の腕を掴んでいるんですか。
半袖シーズンじゃないからダイエット前でお肉がついていて、触られたくないんですけど。今すぐ離して。
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