8.遊び程度がちょうどいい





 家から歩いて十分のところにあるバス停からバスに乗り、営業所の一つ手前で降りて、大通りから路地に入って歩くことまた十分。そこに、私の秘密の場所はある。

 少し錆びた重たいガラス扉を押して入れば、いつも聞こえるカーンという快音が聞こえない。先客はいないらしい。

 音はなくとも久しぶりのその場独特の空気を肌で感じながら奥へと進むと、カウンター内で雑誌を眺めていた男性と目があった。



「おっ!いらっしゃい、久しぶりだね。もしかしてもう春休み?」


「はい、今週から。なので久しぶりに来ちゃいました」


「いいなぁ、学生は。ちょっと待ってて、いつもの持ってくるから」



 何度来てもにこにこと笑って出迎えてくれる経営者である高橋さんは、今日も笑ってカウンター奥の扉に入っていく。そして戻ってくると、持ってきてくれた物を私に渡した。



「ちょうど他にお客さんいないから、好きなところ使っていいよ」


「じゃあ、肩慣らしに九十キロからいってきます」



 愛用のピンクの金属バットを受け取ると、私は意気揚々と球速九十キロのブースに入り、溜まりに溜まったストレスの発散を始めた。




 私がこのバッティングセンターを利用するようになったのは、去年の夏頃。秋人が千夏ちゃんを気にするようになり、女心のなんたるかを説明させられるようになった頃からだ。

 宝生寺桜子の生まれ変わった以上、それだけだったらいくらでも笑顔で協力したさ。でもあの二人のいつまで経っても進展せず、それどころか当て馬役の春原くんや学園のアイドルが現れて関係が拗れ始めたから、そばで見ていた私はやきもきしてストレスを溜めた。そのストレスの捌け口が食になり、甘いものをやけ食いしたから五キロも太り、さらにストレスを溜めた。

 そんな時にテレビで見たのが、仕事終わりのOLがバッティングセンターで上司の愚痴を叫びながらボールをかっ飛ばす映像だった。今の私に必要なのはこれだと直感した。

 とは言えど、宝生寺桜子がバッティングセンターでストレス発散をしていると知られるわけにはいかない。だから私は相棒であるスーパー人工知能ミーティスに、家からそこそこ離れているけど一人で行ける程度の交通の便があり、なおかつ知り合いに出会いそうにないバッティングセンターを調べさせ、ここへ来るようになったわけだ。



「毎回毎回近づいてきて鬱陶しいんだよ稲村コノヤローッ!!!!」



 打つ。



「あんたみたいな男がこの世で一番嫌いなんだよバカヤローッ!!!!」



 打つ。



「タンスの角に小指ぶつけれ骨折しやがれボケナスがあああ!!!!」



 打つ。

 とにかくこの一ヶ月間に溜めたストレスを力に変え、バットをぶん回して飛んでくるボールを打ち返す。

 そして稲村分のストレスパワーは渾身のアッパースイングとなり、打ち返したボールはネットにつけられたホームランボードに直撃し、チャラチャラと軽快な音楽をバッティングセンターに響かせた。



「いやぁ~あいかわらず良い打ちっぷりだね。見てるこっちもスカッとするよ」



 入れた金額分は全て打ったので九十キロのブースから出ると、いつの間にか見学していたらしい高橋さんに拍手された。

 私の特殊な打法は、高橋さんもご存じだ。でも改めて見聞きされると、ちょっとだけ恥ずかしかった。



「若いのにそんなにストレス溜めて大丈夫?桜田ちゃん?」


「まあ、ぼちぼち……あははー……」



 ここでは私は、桜田と名乗っている。

 最初は普通に宝生寺と名乗るつもりだったけれど、この店はホームランを打つと店頭のカウンターにある『今月のホームラン打者』というボードに名前を書かれてしまうのだ。

 初めてホームランが出た時には、すでに私は店員やごく一部の常連客から、愚痴を言いながらかっ飛ばす時代錯誤なロングヘアーのお嬢様っぽい女子高生として顔認知されてしまっていた。そこで宝生寺なんていう、いかにも一般家庭っぽくない苗字を知られたらどうなるか。

 そして世間は狭く、誰と誰がどこで繋がっているか分からない。もしも成瑛生に知られたら、私は社会的に死ぬ。

 だからとっさに、そうだ、偽名を使おうと思ったわけだ。



「というか、高橋さん、カウンターにいなくていいんですか?」


「いいの、いいの。今は平日の真っ昼間だよ?こんな小さいバッティングセンターに来るのは、桜田ちゃんみたいに暇な学生だけだよ」


「うわぁ、職務怠慢~」


「お客さんがケガをしないか見守るのが、おじさんの仕事なんですー」



 肩も温まったので、千円札を百円玉に両替してから百二十キロのブースに入る。

 さあ、ここからストレス発散の本番だ。ばっちこーい!



「そういえば、今月のホームラン賞ってなんなんですか?セイッ!」


「ああ、おしい……!今月はホームラン一つで、駄菓子の詰め合わせが一つ。月間賞は炭酸水メーカーだよ」


「よぉし、頑張っちゃお!おおりやああ!」


「おっ、当たった。さっきのと合わせてホームラン四つ目じゃん、ホントよく当てるねぇ~」



 肩慣らしの九十キロと違って、久しぶりだからたまにバットの中心を外してしまう。それでも空振りは一度もしていないから調子はいい。

 炭酸水メーカーも欲しいけど、月末だから月間賞を狙うのは無理かなぁ。駄菓子の詰め合わせって何が入ってるんだろう。宝生寺桜子になってからそういう物は入手するのすら気を使うから、なるべく多くもらっておきたい。

 駄菓子大漁ゲットのため、一ヶ月分のストレス……特に先日の懇親パーティーで溜めたストレスを力に変えて、私はバットを振り回し続けた。



「はあー!スッキリした!」



 九十キロのブースで一ゲーム、百二十キロのブースで三ゲーム、百球以上打てばさすがに溜まった鬱憤も晴れた。ホームランも九回出て、しばらくおやつには困らないぐらい駄菓子も貰えた。大満足だ。

 というわけで自動販売機でスポーツドリンクを買って、一時休憩。



「桜田ちゃん、高校で部活は何も入ってないんだっけ?」


「はい。中学も高校も帰宅部です」


「もったいないなー。あれだけ打てるなら、やればいいのに。女の子なら間違いなく四番打者だよ。高校にないの?」


「ソフトボール部なら女子もありますけど……。私の行ってる高校はスポーツ推薦があるので、ちょっと打てるだけの私が入る余地なんてありませんよ。それに私、遊び程度がちょうどいいんで」



 私も体を動かすのは嫌いじゃないけれど、わざわざ部活に入って、それに青春を捧げられるかと聞かれたら無理と答える。そこまでの根性はない。

 それにあの乙女思考のお母様が運動部なんて許すわけがない。入るなら文化部、それも茶道部か華道部ぐらいでないとすんなりオーケーはもらえないだろう。

 このバッティングセンター通いも両親には秘密にしているから、学校の知り合いはもちろん、会社関係の知り合いにもバレないようにしないとなぁ……。ああ、厄介だこと。

 なんだかいろいろ考えたら、またバットをぶん回しかっ飛ばしたくなってきた。



「よしっ、百四十キロいってみよう!」



 ホームランの賞品はもうたんまりと貰ったから、今度はとにかく速い球をかっ飛ばしたい。愛用の金属バットを肩に担ぎ、三百円を握りしめて百四十キロのブースに入った。

 飛んでくる百四十キロを腰を使って力いっぱい打ち返し、私しかいないバッティングセンターに快音を響かせる。ここの最高球速は二百キロだけど、私がヒットを出せるのは百四十キロが限界だ。前に怖いもの見たさで挑戦したらバットにかすりもせず派手に空振った。


 でも高橋さんの話では、二百キロでヒットを量産する常連客が一人だけいるらしい。メジャーリーグのエースピッチャーが投げる球ですら百六十キロぐらいなのに、二百キロを打ち返すとは化け物すぎる。しかも私と同い年で、高校で野球部に入っているわけではないらしいのでさらに化け物じみている。

 いつ来てもカウンターの『今月のホームラン打者』のボードに名前があるSさんとやらは、会ったことはないけれど甲子園目指した方がいいと思う。

 そんなことを考えながら、ストレスはさっきので全部吐き出したので叫ばずフルスイング。すると最後のボールはカキーンと理想的な音を奏でて高く上がり、ホームランボードに当たった。



「えっ、うそ、当たった……」



 今まで百四十キロでヒットは出せても、ホームランボードに当てられたことは一度もない。



「あた、当たった!高橋さん見てました?当たった!」


「見てた見てた。おめでとう。次の目標は百六十キロでホームランだね」



 嬉しさのあまりブースから出て、見ていた高橋さんに駆け寄ってハイタッチする。

 それに今ので本日のホームラン十本目だ。かなり調子がいい。嬉しくてバットでバトントワリングしちゃいそう。



「最初は八十キロでバットにボール当てるのが精一杯だったのに、あっという間にコツ掴んで、今じゃホームラン量産だもんなぁ。若い子の成長スピード恐ろしいよ」


「賞品くださいな」


「はいはい」



 カウンターに戻って、店の奥から十個目の駄菓子の詰め合わせを取りに行く高橋さんを見送る。

 手持ちぶさたなので、『ご自由にどうぞ』と紙が貼ってあるバスケットからコーヒー飴をひとつ頂戴して口に放り込み、なんとなく店内を見回した。

 建てられてそれなりに時が経っているけれど、掃除がいき届いていて、古さはあまり感じられない。それにいつも来るのは週末だから、今日のような貸切状態は初めてだ。誰かがボールを打ち返す音が聞こえているはずの場所は、自動販売機の稼働音すら聞こえて知らないところのように思える。

 壁に貼ってあるポスター類もじっくりと眺めていると、ふと一枚だけ、気になるものがあった。



「あさがお商店街春祭……?」


「あっ、もしかしてそれ気になる?」



 奥から戻ってきた高橋さんは、賞品に駄菓子と一緒にチラシを渡してくれた。



「ここからはちょっと離れてるけど、あさがお商店街ってのがあって、そこで毎年春にやってるお祭りなんだよ」



 手書きの柔らかい文字に、可愛いイラストが書かれた手作りのチラシを見て、首を傾げた。

 『あさがお商店街』という名前に覚えがある。でもチラシをじっくりと見ると、今日から四日後の日曜に、商店街にあるお店が近くの神社で出張販売したり、フリーマーケット的なことをやる地域密着型の小さなお祭りらしい。行ったことはないはずなのに、なぜかこの名前が頭に引っ掛かる。



「この商店街、テレビか雑誌で話題になったことってありますか?」


「ここ?いや、ないと思うよ?」


「そうですか……」



 なんで覚えがあるんだろう。不思議に思って記憶を探っても、ちっともピンとこなかった。

 だがその疑問は、翌日に解けることとなる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る