EPISODE 01 全てのはじまり

 7日の入学式、そして8日の始業式から始まり、健康診断を兼ねた身体測定やら、部活勧誘期間やらも終わり、授業の方も1年では芸術系ぐらいしか選択科目がないということで、1年生の教室がある4階も、少しずつ落ち着いてきている感じがする。

 そして、1年生・2年生は全員、原則として部活動参加という『文武両道』も学校方針の1つに従って、何だかんだと下校時間(通常は午後6時、冬場は午後5時半)まで、俺も含めた1・2年の大半の生徒が時間まで学校内のどこかに残っている、そういう生活に身体も慣れ始めてきたところだ。


 俺と美香子みかこの所属する3組も、クラス30名、それぞれの居場所が出来上がったみたいで、俺は中学2年の時の同級生である三浦健一みうらけんいちと、市役所駅から通って来る田辺尚彦たなべなおひこ、この2人と居ることが普通になってきた。

 健一けんいちは、中学の時からバレーボール部で部活をしていて、緑が丘ここに入ってからもバレーボールを続けるということで、入学が決まった時点で入部届を出しているという、根っからのスポーツマンというヤツだ。

 ヲタク傾向のある俺と接点が無さそうに見えるのだが、いつだったかの席替えで席が近くなった時に、 健一けんいちがマンガ好きということが分かり、それ以降、中学の時には何度もマンガ単行本を貸し借りした間柄だったりする。

 そして、尚彦なおひこと出会ったのは、市役所駅近くにあるアニメショップとか画材屋とかで何度か見かけたことが最初で、俺や雄太ゆうたが参加していた関西地区の同人イベント、そこで偶然来ていた尚彦なおひこと話をするようになった。

 だから最初、入学式の日にクラス分けに従って3組の教室に来た時、先に来ていた尚彦なおひこの姿を見て驚いたのだっけ。


「でも、なぜ尚彦なおひこ創作活動研究会うちのところに入らなかったんだ?」

 昼休み、3人で弁当を食べていた時、ふと気になったので尋ねてみる。

 趣味とかといえば、俺や雄太ゆうた美香子みかこに近いはずなので、入部する部活に選んでも良さそうなのだが。

「ん?俺は緑が丘このがっこうなら新聞部かなと思って」

 弁当箱に入っているから揚げをつまみながら尚彦なおひこが答える。

真人まさと雄太ゆうたと違って、俺は絵を描くのが苦手というか、文章を書くのが好きでさ、で、まずは文章で正しく書けるようにって思って新聞部を選んだ」

「へぇ、ここの新聞部って、そんなに文章が上手い人が多かったりするのかい」

 少し意外だという顔をしながら、健一けんいちが口を開く。

「上手いかどうかは分からん。でも、文章系のコンクールで入賞している先輩が多いというのは、勧誘の時の説明で聞いたっけ」

 入学式の後の部活紹介の時、『若者の主張』みたいな真面目な論文、『ショートエッセイ』のようなやわらかな感じの文章、それらのコンクールで入賞しているとか何とか、そんなことを言っていたことは覚えている。

健一けんいちの方はどうなんだ、男子バレーボール部は」

 今度は逆に尚彦なおひこ健一けんいちに尋ねる。

「どうだろう。今のところは、秋にある新人戦に出ることが目標だから、そのことしか考えていないかも」

 緑が丘うちがスポーツで特別強いとは聞いた記憶はなかったと思う。しかし、県だか地域だかのトーナメント試合で、ベスト16とか何とかまで進んだと、中学の時に聞いたような気がする。


「そういえばさぁ」

 一足先に弁当を食べ終えた健一けんいちが、俺に身体を向けて座り直す。

真人まさとの部活に、2組の小野おのさんっているでしょ」

杏美あずみん……小野おのがどうかしたのか」

 まさかと思ったけど、健一けんいちの口から杏美あずみんの名前が出るとは思わなかった。

「放課後、内田うちださんと一緒に居る子だよな。少しカワイイ系の」

 杏美あずみんのこと、尚彦なおひこも知っているのか。

「で、小野おのさんなんだけどさ、つき合っている人とかいるの」

「……はぁ!?健一けんいち小野おののことが好きなのか」

「そうじゃなくて」

 あわてて「違う違う」と顔の前で手のひらを動かし否定する。

「先輩たちが聞いてくるんだ、小野おのさんや内田うちださんに彼氏がいるのかって」

 なんだそりゃ。部活で青春というよりは、彼女を作る方が優先ですか。

「で、同じ部活のヤツがいるなら、聞いておいてくれって」

「プライベイトな部分まで、立ち入って聞ける訳ないだろ」

 新学期早々、上級生が下級生を物色してくるとは。まして、恋愛事情とな。

 むすめLOVEな美香子みかこの親父さんが聞いたら、激怒して緑が丘がっこうに乗り込んでくる、その姿がリアルに想像出来るからこわい。

「でもさ」

 食べ終わった弁当箱を片付けながら、尚彦なおひこが続ける。

「俺の中学から来た奴らも、内田うちださんや小野おのさんがカワイイって言ってる奴、何人かいるぞ」

 一般的な男子高校生は、そういう評価をしているのか。

 俺の中では、少なくとも美香子みかこは、兄妹あにいもうともしくは姉弟あねおとうとみたいな位置づけだし、その前に雄太ゆうたもいるかられたとか何とかとかになるハズもないが。

「知っていたら聞いておいてくれって。電車の中で連れに言われたこともあった」

 他のクラスにも「あの子カワイイ」という女子がいたり、制服のリボンの色で上級生だと分かる女の子の中にも「綺麗な人だなぁ」と思う人はいるし、体育の時間、更衣室で着替えている時に、クラスメイトとそういう女子の話をすることもある。

 しかし、そういう恋愛云々うんぬん、彼女云々うんぬんという対象に美香子みかこ杏美あずみんがなっていたとは。

「何か考えているの」

 黙り込んだ俺を見て、健一けんいちが話しかけてくる。

「いや、そういう対象にあの2人を思ったことがなくて、実感がないというか」

真人まさと、お前、本当に健全な男子高校生か」

 呆れた顔をする尚彦なおひこ

「男子なら誰もがカワイイと思う、1組の鹿野しかのさんとか、5組の鈴掛すずかけさん程じゃないけど、内田うちださんや小野おのさんのことをカワイイと思う『隠れファン』は結構いると思うぞ」

 人の名前を覚えるのが苦手な俺でも、鹿野しかのさん、鈴掛すずかけさんはすぐに名前と顔が一致したし、他の男子と同じく美人でカワイイという意見にも賛成ではあるが。

「そういうものなのか」

「ああ、そういうものだ。だから、真人おまえの立ち位置がうらやましいと思っているヤツもいるぞ」

尚彦なおひこ、お前もうらやましいのか」

「いいや」

 速攻で否定しやがる、が。

「2人は悪い子じゃないというのは見ていても分かる。しかし、真人おまえ雄太ゆうたという、友だちが仲良くしている女に手を出す趣味はない」

 キッパリ言い切った尚彦なおひこを、健一けんいちが「ほぉ」と感心したような表情をして見つめていた。


「……という話があった」

「なるほどなぁ」

 放課後、食堂脇にある花壇、そこにあるテーブル席に座ると、雄太ゆうたに昼休みにあったことを一通り話した。

 部室に向かう前、飲み物とか買うために食堂に来るのも日課になりつつある。

 女子2人はそれぞれ掃除当番ということで、先に食堂に来ていた俺のところに雄太ゆうたがやって来たという形だ。 

4組うちの男連中も、杏美あずみんに特定の彼氏がいるかどうか、気になっているみたいだな」

 出会ってまだ一月ひとつきもしないのに、みんな、よく見ているなぁと素直に思う。

「まぁ、そう思われるのは仕方ないよなぁ」

「だなぁ。さすがに、ガキの頃から一緒のヤツらは気にもしていないけどな」

「と言っても、誤解させたままというのも良くは無いよなぁ。俺たちは良くても、あの2人までそういう風に思われたくない」

 雄太ゆうたと視線が合うと、お互いに大きく溜息ためいきをつく。

 変に誤解はされたくない。かと言って、今から急に接し方を変えてどうこうというのも違う気がする。

 それに、俺たちが態度を変えたら変えたで、逆に疑うヤツが出て来るかもしれん。

「彼氏のフリをするというのも、それはそれで違うしなぁ」

 そう言いながら机に置いたペットボトルを手に取ると、雄太ゆうたはぐびっと入っているコーヒーを飲み干していく。

「ところで、さ」

「なに」

 空になったペットボトルをゴミ箱に入れながら、雄太ゆうたは話し始める。

「入学式の日、部室で杏美あずみんと最初に会った時、なんで驚いたような顔をしてた?」


「……えっ」

 一瞬、俺の中で時間が止まる。

「何か、驚きというか迷いというか、いつもの真人まさとじゃない表情だったから、ずっと気になっていたというか、モヤモヤしたものを感じてた」

 手に持ったペットボトルのお茶を飲もうとして、途中まで上げていた腕を机の上に戻す。

真人まさと、分かっている。一目惚ひとめぼれとか、そういうヤツじゃないことも」

「そっか……」

 ありがたきは、幼馴染みでもある雄太ゆうたの、俺を気遣ってくれる気持ちだ。

 その言葉を聞いて、俺も踏ん切りみたいなものがついた。

「分かった。良ければ聞いてくれるか、雄太ゆうた

「もちろん」

 イイ笑顔でニコッと笑いながらも、視線で話すように俺にうながす。

 部室で初めて杏美あずみんと会った時に感じた感覚、初対面なのにどこかで会っていたかのような、既視感デジャブのような、不思議でつかみ所の無い感覚になったことを伝える。無論、姉貴に相談したことも含めて。

 説明とかは、どちらかといえば俺が苦手な分野だ。どこまで伝わったのか分からない、しかし、雄太ゆうたは最後まで耳を傾けてくれた。

「う~ん、そうかぁ」

 そう言ったきり、黙り込んでしまう。

「すまん。変な話を聞かせた。悪かった」

 真剣に考え込む雄太ゆうたを見て、そんな言葉が思わず出てしまう。

「いや、これは大事な感覚じゃないのかな、真人まさと

 そう言った雄太ゆうたの表情は真剣だった。

「人の顔や名前を覚えるのが、どっちかといえば苦手な真人まさとが、そこまで記憶に残っているというか、どこかで会ったような気がするというのなら、多分、その感覚は正しいのだと思う」

「うん」

 雄太ゆうたのその言葉に、どこかホッとしている自分がいる。我ながら現金なヤツだと思うが、正直、気持ちが軽くなったのも事実だ。

「でも、真人まさとだけでなく、俺や美香子みかこも、杏美あずみんとは初対面だったし、以前会ったという記憶も無かった。雅美まさみさんも記憶が無いというのなら、どこで会ったことがあるか、場所の特定はなかなか難しいかも」

「そこで、俺も行き詰まってしまって」

 出会っているというのなら、どこで出会っていたのか。これまで何度も考えてはみたのだが。

 学校、買い物に行く店やスーパー、最寄り駅、市役所駅のモール街、中心都市からオレンジ色の電車に乗り換えて向かう習い事教室、中心都市ターミナル駅にある巨大な本屋、ターミナル駅地下に広がる迷路のような巨大地下街……等々などなど

 自分の行動範囲で思いつく場所を頭の中で描いても、そのいずれの場所でも杏美あずみんと出会っているという絵が浮かんでこない。

「思い出すための手がかりがりないと言うことか」

「多分、そうだと思う」

 手がかりが足りない、その通りだと思う。

 しかも、その手がかりを探すキッカケというか、どこを探せば手がかりが得られるのか、そういうものすら浮かんでこない。

 そして最後には、堂々巡りを繰り返してしまうのだ。

 と、その時。

「お~い!新入生ニューフェイス、もう時間だよ」

 不意に肩を叩かれた俺たちは、声がする方向に顔を向ける。

 そこには、「驚いた?」という問いかけをしている、いたずらっ子スマイルをした部長ちーさまと、その後ろ、少し離れて美香子みかこ杏美あずみんが立っていた。

「何、難しそうな顔をして向き合っていたの。ほら、部活の時間だよ」

 そう言って、手に持っているレモン飲料のボトルを俺たちに手渡すと、

「今日は大切な話をするのだから、ちゃっちゃっと歩く!」

 せき立てるような仕草をする部長ちーさまと、それを見てクスクスと笑う女子2人。よく見ると、自販機の周りに居る生徒たちも、つられるかのように笑っていた。生徒だけではない、そこにいた担任の洋子ようこ先生も笑っていた。

「あーっ、なんか恥ずかしいなぁ」

 あまり目立ったことは、したくなかったのだけど。その気持ちは、俺だけではなく雄太ゆうたも同じだろう。

「では」

「行きますか」

 テーブル席を離れ、自分の荷物をそれぞれ手に持つと、背中に女性陣3名の視線を感じながら、俺と雄太ゆうたは部室へ向かったのだった。


「「「「合宿!?」」」」

 1年生である俺たち4人、見事に?声をハモらせてしまった。

「そう、予定表にも書いてあったでしょ。黄金週間ゴールデン・ウィーク中に原稿を仕上げて、5月末に出す冊子に掲載するの。で、その原稿を、新1年生は合宿で作ってもらうの」 

 小学校の先生かのような口調で、部長ちーさまは俺たちに説明を始める。その後ろでは、上級生の先輩たちが「合宿かぁ」「頑張ってね~」「経験しておくといいぞ」などと、励ましのような冷やかしのような声を掛けてくれる。

「期間は、1日の日曜日から予定では6日の金曜日まで。で、泊まるのは7日の土曜まで延長は出来るからね」

 部活での冊子の発行が2月・5月・8月・11月の年4回、そのうち8月と11月は、日本で最も有名な創作系イベントに合わせるため、冊子と同時に映像や音楽が入ったメディアも出しているのだけど、2月と5月は文章やマンガといった「描く」ものが中心で、1冊の分量はそれほど多くはない。

 時期や内容を見ると、2月は「卒業おめでとう」で5月は「入学おめでとう」という感じになるし、実際、部室にあった過去の冊子を見ても、そのような色合いが濃い内容になっていた。

 また、家の事情で「どうしても、この日は参加出来ない」という時は、合宿から一時離れても良いことになっている。一応、未成年な俺たちが外泊をすると言うことになるので、入学の時、親に承諾書を書いてもらった記憶がある。

 で、部長ちーさまが言うには、1年生4人で8ページまたは16ページ分の原稿を、その合宿期間中に作るということだ。4人で4ページずつでも良いし、最大4人で32ページまでなら、印刷代とか紙代とかは問題がないという。

 希望としては1人あたり4ページは埋めて欲しいということだが、俺たちが担当するページ数の合計は応相談とのこと。

 そして、合宿最終日の金曜日には、合宿場所から印刷所に出向き、営業時間内に入稿を済ませるという縛りもあったりする。

 普通なら、ネットのファイル転送サービスを利用した入稿と、メディアに出力して宅配便で印刷所に送付する形での入稿で印刷所に原稿を届けるので、その都度印刷所の窓口まで持って行く必要は無いのだけど、新1年生には高校3年間お世話になる印刷所の人たちとの顔合わせ、そして印刷のやり方とかを勉強するという意味もあって、初めて作ることになる5月分の冊子については、実際に原稿を持ち込んで入稿まで済ませるのが部の方針だという。

 だから、実際に原稿が制作可能な日数となると、印刷所に持ち込むための移動時間分が差し引かれるので、正味5日間プラスアルファぐらいとなるし、そこから逆算して、5日間で仕上げることが可能な原稿の分量となると、4人で合計32ページというのは、実際には結構ハードルが高いことになる。4人で16ページでもあやうい。

 部長ちーさま曰く「あんたたちが出来るのなら、4人で32ページ使ってもいいよ」と言ってはいるのだが。

「ま、今年に限っては、少なくとも3人経験者がいるから心配ないと、雅美まさみ先輩が言っていたから安心はしているけど」

 俺と雄太ゆうた美香子みかこと順番に視線を向けながら、合宿に関係する冊子とかペーパーとかを手際よく部長ちーさまが配っていく。

 姉貴よ、後輩である部長ちーさまに何か言ったのか。余計なことは言っていないと、弟としては思いたいところだけど。


杏美あずみんは作ったことはある?オフセットの同人誌とか、コピー本とか」

「原稿を描いて、載せてもらったことはある。入稿は経験が無いなぁ」

 いつだったか、部室ここ美香子みかこ杏美あずみんがしていた会話、それをふと思い出す。

 出会ってまだ半月ちょっとなのだが、この2人が話している姿を見ると、どこか血の繋がった姉妹しまいが会話しているように見えてくるから不思議だ。ただし、どっちが姉でどっちか妹というのは、横に置いてはおくが(言えるものでもないし)。


「ん、大丈夫!?」

 耳元に響く部長ちーさまの言葉で、ふと我に戻る。

真人まさとくん、どうかした?さっきも難しい顔をしていたし」

「い、いえすみません。なんでもないです」

「本当ぅ?」

 少し大げさにも思えるような感じで、部長ちーさまが俺の顔をのぞき込んでくる。掛けている大きな丸眼鏡の中、その焦げ茶色の瞳が動くのが見える。

「ふ~~ん、分かった。意識がどこか別方向に行っているのかと思った。じゃあ、続けて説明するから聞いてね」

 ……その言葉に反省しながらも、姉貴たちが部長ちーさまを「部長ぶちょう」という役職にけた、その理由の片鱗へんりんみたいなものを身をもって理解したのだった。


 一通り配るモノだけ配り終えた部長ちーさまは、簡単に合宿所の説明とか、今回作る冊子の内容とか説明をしていく。

 大体の内容は印刷物かみものに書いている通りなのだが、部室から持ち込む複合機や接続機器の設置と撤去、その確認も兼ねて、初日と最終日には顧問の先生と一緒に部長ちーさまも立ち会うという。

 ちなみに、使い慣れているペンタブレットとかは、自宅から持ち込み可ということなのだが、部室にあるモノの方が使いやすいのなら、それを持って行っても良いとのこと。

 渡された合宿の手引き書の冊子、まずは、合宿場所と印刷所の位置を確認する。

 この両方の間がどのくらい離れているか、移動にどれだけの時間が掛かるのかによって、原稿の最終締め切り時間とか制作するペース配分が変わってくる。

 こちらの方が気になったので、巻末に書かれている合宿所と印刷所の住所や名前を確認する。

 が、印刷所については杞憂きゆうというか、取り越し苦労に終わった。何のことはない、俺たちや姉貴も使っている印刷会社の名前がそこにあった。場所も分かるし、入稿に対応しているデータの保存形式も分かっている。

 そして、合宿所の名前を確認するのだけど、見慣れない名前が書かれていた。

皐月さつき温泉『岩清水いわしみずの湯』!?そんなのあったっけ」

「ん?真人まさとどうかしたか」

 隣りから雄太ゆうたがのぞき込んでくる。

 皐月さつき温泉というのは、府県境となる川を超えて北東方向に広がる山、そこにある避暑地というか観光地だったりする。

 古くから天然温泉や大きな滝、秋には紅葉もみじが広がる山、あと、野生の猿が生息している国定公園に隣接する温泉地で、テレビCMコマーシャルでも老舗の観光ホテルのものが有名だったりする。

 この老舗のホテル、家族で泊まりに行ったことは覚えているのだが、『岩清水いわしみずの湯』というのは初めて見る名前だ。

「なになに、何か気になることがあるのかなぁ」

 俺たちの様子を見ていた部長ちーさまも、雄太ゆうたの反対側からのぞき込む。

「ん~っ、『岩清水いわしみずの湯』……あれっ、今年は変わったの!?」

 部長ちーさまのその声に、上級生の先輩たちも反応する。「この何年かは、音楽学校近くのホテルだったのに」とか「ホテルの料理、美味しかったよな」と話す声が聞こえてくる。

「まぁ、いいか。原稿作りがメインだから、落ち着いて出来ればいいや」

「そうだよなぁ。ページ数とか考えると、準備万端にしておきたいな」

 日程とか時間の割り振りとか、雄太ゆうたも同じことを考えたのだろう。お互いに、自分の作品作りに取りかかるのだった。




「……真人まさと、ほらぁ真人まさと

 目を開くと、見慣れた雄太ゆうたの顔があった。

「朝早いけど、校門の前で寝るなよ」

 両肩をつかんだ雄太ゆうたが、俺の身体を前後に揺らしてくる。


 今日は5月1日の日曜日、朝の7時半過ぎ。

 どうやら俺は、夢の中で数日前のことを再生リプレイしていたみたいだ。


 休日の学校内を突っ切る訳にもいかないので、裏口である東門から入るのをあきらめた俺は、ぐるっと大回りして正門である西門、そこまで来て門の脇にあるベンチで座っていたら、いつの間にか眠っていたらしい。

 まぁ、昨日の夜中過ぎまで、原稿の準備というか、素材データとか作っていたので、寝不足であることには違いなかったが。

「寝るのだったら、先生の車の中で寝ろ。風邪を引いても知らんぞ」

 呆れた顔をしながらも、雄太ゆうたは俺が着ているジャケット、そのファスナーを首まで上げようとする。

 5月といえども、周囲が山で囲まれているリバーハイツこのまちでは、未だジャケット類は片付けることは出来ないし、雄太ゆうたの言う通り、朝夕と昼間の温度差で風邪とか引きやすい時期だったりする。

「ありがとよ」

 自分でジャケットのファスナーの位置を直すと、視線で正門前の道路を確認する。

美香子みかこ杏美あずみんは来ていないのか」

 ベンチの向い側、正門前にあるコンビニ方向にも、それっぽい女子の姿は見当たらない。

「時間的には、来ても良いと思うけどなぁ。7時45分集合で、今は35分過ぎだし」

 左腕にはめた腕時計で、雄太ゆうたは時間を確認する。

部長ちーさまはどうするのだろう?先生と一緒かなぁ」

 部活の顧問でもあり、雄太ゆうたのクラスである1年4組の担任でもある西尾先生が運転する車で、合宿所となる『岩清水いわしみずの湯』まで向かうことになっている。

 電車でも最寄り駅から2回乗り換えた終点、皐月さつき温泉口の駅まで約30分、そこからバスで10分ほどで温泉街に到着する。市街地の近くだけど自然が残っているということでは、ある意味、リバーハイツここと良い勝負なのかもしれない。

 そんなことを考えていると、正門に続く坂道を歩いてくる人影、それが徐々に大きくなってくる。美香子みかこだ。

雄太ゆうた真人まさと、おはようっ。あれ、杏美あずみんは来ていないんだ」

 少し息をハァハァさせながら、黒いキャリーバッグをベンチに立てかける。

「おはよう、美香子みかこ

「おはよ。朝から元気だな」

「元気じゃないよ、雄太ゆうた。あ、朝ご飯買ってくるね」

 そう言い残し、美香子みかこはコンビニに向かって歩き出す。

雄太ゆうた、お前、朝飯あさめし食べたか」

「まぁな、親を起こすのもアレだし、自分でトーストとかハムエッグとか適当に作った。という真人まさとはどうなんだ」

「姉貴謹製きんせいのトースト、コーヒー、目玉焼きの定番セット」

 姉貴もどこかに出かけるらしく、「アンタの分も作ってあげる」って言っていたっけ。で、姉貴直々じきじきの朝食をありがたく頂戴したのだが、そんな会話をしているうちに、美香子みかこがコンビニから戻ってきた。

 手に持った小袋の中には、ペットボトルの紅茶に野菜のサンドウィッチ、そして蒸しパンが入っている。そういえば、昔から蒸しパンが好きだったよな、美香子こいつは。

「本当、好きだなぁ。蒸しパン」

「美味しいから、いいじゃない」

 小袋をベンチの上に置き蒸しパンの袋を取り出すと、「えいっ」と開けるや否や笑みを浮かべながら食べ始める。

「ハムスターがひまわりの種、手に持って食べてるみたいだな」

「何よ、それ」

 突っ込みを入れる雄太ゆうたをあしらいつつ、蒸しパンを食べ終える。で、食べている合間、時々紅茶をノドに流し込んでいる。

 何も食べずに坂道を登ってきたのでは、腹が空くのも当然というものだ。いつもなら何かしら反論する美香子みかこが、黙々と野菜サンドにも手を伸ばしている。


「もうすぐ時間だけど、杏美あずみんが来ないな」

 雄太ゆうたの声に、俺も自分の左腕につけた腕時計を確認する。あと2分かそこらで、集合時間の45分になろうとする時間だ。

 と、俺はふと気づいた。

「なぁ、雄太ゆうた杏美あずみんの家ってどこだっけ」

 部活が始まってこの3週間余り、下校する時は俺たち1年生4人一緒だったりする。で、坂道を下った先、メイン道路沿いにある商店街と交わる交差点、そのアーケードのところまで行ってから解散という形だ。

 そこから先、4人それぞれ別方向に向かうので、杏美あずみんの家がどの辺りにあるのか知らなかったりする。

「ん……池から少し下、幼稚園が近いって言ってた」

 このリバーハイツ、簡単に言えば、南北である縦が長い楕円形だえんけいになっていて、その中央を東西に走っているのがメイン道路、そして、楕円形だえんけいの西から3分の1ぐらいのところを南北に貫いているのが縦断道路と想像すると分かりやすい。

 そのメイン道路から北に向かうのは基本的に登り坂となり、反対に南に向かうのは下り坂という地形だ。

 また、雄太ゆうたが言っていた池というのは、リバーハイツにいくつかある池の中でも最も大きい、縦横が100メートル以上ある調整池のことだ。

 商店街から西に向かって徒歩で5分ほどの場所、メイン道路のほぼ真ん中辺りにその北端が接する形で広がっていて、池のほとりは雑木林に囲まれていたりする。

 ちなみに、俺の家だけでなく、雄太ゆうたの家も、美香子みかこの家も、メイン道路の北側かつ縦断道路の東側に位置している。

「あれ、2人共杏美あずみんの家、知らなかったの」

 野菜サンドも食べ終え紅茶を飲み干した美香子みかこは、携帯ケータイの画面にリバーハイツここの地図を表示させる。

 池のほぼ真下、道路2本分隔てた区画に幼稚園の表示があって、そこから少し左、池の南端からだと斜め左下あたりを、美香子みかこは指で指し示す。

「あたしも直接杏美あずみんの家には行ったことが無いけど、この横のところにパン屋さんとか酒屋さんの名前があるでしょ、この辺りにあったお店が移転した区画ところが再開発されて、そこに引っ越してきたんだって」

 昭和の高度成長期、リバーハイツここの開発は楕円形の南東側から北西側、言い換えると、高度が低い方から高い方に向けて進められたとか。

 で、商店街やスーパーはおろか、メイン道路もまだ完全に出来上がっていない本当に最初の頃、美香子みかこが示した辺りにいくつか店が出来たというのは、中学の頃、『地元の歴史を調べる』の授業か何かで聞いたことを思い出したのだった。

「商店街からも結構遠いよな、それにずっと登り坂だ」

「でも、時間が時間だし……」

 と言いかけた俺は、視線の先にだんだん大きくなる人影を確認する。

「あ、来た来た。よかったぁ」

 美香子みかこにも見えたのだろう、坂を登ってくる杏美あずみんの姿が近づいてくる。

「遅れてごめんなさい」

 校門の前に到着して、息を切らせながらもぺこんと俺たちに頭を下げる杏美あずみん

「いいよいいよ。とりあえず、コンビニで何か飲み物でも買っておいで」

「ありがとう」

 雄太ゆうたの言葉にうながされて、杏美あずみんは持っていたピンクのキャリバッグ、それを美香子みかこの横に置くと、コンビニに向けて早足で歩いていく。

 指定の集合時間、7時45分を過ぎて50分になろうとしていたけど、冊子に書いてあった出発時間が午前8時なので、風紀委員でもなければそう気にする問題ではない。

「眠気覚ましに、俺も何か買ってくる」

 それにしても、起きてから1時間は過ぎているのに未だ眠気が取れる気配がない。それどころか、この調子だと本当に車の中で寝てしまいそうだ。

 目で「行ってこい」と語る雄太ゆうたに見送られてコンビニに向かうと、ドアの前にあるレジで精算している杏美あずみんの姿が視界に入ってくる。

「あ、真人まさとくんも買い物?」

「まだ眠気が取れなくて」

 清算中の杏美あずみんの後ろを通り抜けて、壁側にあるドリンク棚に移動する。

 本当は、ブラックコーヒーとかが良いのかもしれないが、朝から続けてコーヒーというのは胃に悪そうなので、ペットボトルに入った濃いめの緑茶をチョイスする。あと、鮭のおにぎりでも買っておこうか。

 レジを済ませると、入口の前で杏美あずみんが立っていた。

「ん、どうかしたの」

「早かったね」

 俺が店を出るのに合わせて、杏美あずみんも店を出る。

「あ、これ濃いお茶でしょ、にがくないの」

「言うほどにがくはないというか、普通にお茶として飲めるよ」

 手に持った袋の中を見た杏美あずみんに尋ねられる。美香子みかこほどではないが、杏美あずみんも好奇心は旺盛な方らしい。

 部室でも、俺たちだけでなく先輩たちにも話しかけたり質問する姿をよく見かける。そういう点でも、美香子みかことは気が合うのかもしれない。

「眠気覚ましに、そのお茶、わたしも飲んでみようかな」

「苦いと感じても、俺は責任持てないよ」

 最初は無口な方だと思った杏美あずみん、実は話をするのも結構好きらしい。人見知りと言われている俺が言えた義理ではないのだが。

 2人でそんな話をしながら正門前に戻るが、先生と部長ちーさまはまだ来ていない様子だ。

「そろそろ時間だよね」

 美香子みかこの声で、それぞれ自分の持っている時計を確認する。

 時計の時刻は午前7時59分、あと1分で合宿の出発時間だ。


 ガシャン……ガタガタガタン。


 アーチ型の屋根でおおわれた正門の中央部分、校内への道路をさえぎるようにふさいでいた金属製のゲートが、音を立てながらゆっくりと左右に開いていく。

「へえっ、ゲートの開け閉めって自動なんだ」

 目の前で動いていくゲートを見ながら、思わず言葉が出てしまう。自動で開いていくゲートを、受付の外に出てきた警備員さんが見守っている。

 俺たちがいるベンチとは反対側、そこには屋根の支柱と一体となった受付の建物があって、警備員さんの詰所つめしょも兼ねているのだけど、いつしかその前には、制服姿やらジャージ姿やらで自転車に乗った生徒が集まっていた。

「ん、日曜日も運動部は部活をするのか」

「どこかと試合でもするのかなぁ」

 吹奏楽部以外、日曜日に文化部の部員が学校に来ることはまずあり得ないのだが、運動部だと他校との交流試合とかで緑が丘うちの施設を使うという。

 ゲートが完全に開いたのを確認するかのように、待っていた自転車の一団が校門を超える姿が確認出来た。

 その時だった。

 正門から続く道路の途中、駐輪場に向けて左折する生徒の横を黒の大型車(ミニバンというのか?)が通り過ぎ、ゆっくりとした速度で正門に向けて近づいてくる。警備員さんの横で一時停止をした後、再びゆっくりと正門を超えて校内から出てくると、斜めというか、左折するような形で俺たちのいるベンチの前に停車する。

 校内に車が入っていくのならまだしも、逆に校内から現れたということで、俺たち4人、何が起きたのか理解出来ていなかったのだが。 

「おはよう。みんな、そろっているね」

 開いた助手席側の窓から、安心したかのような部長ちーさまが顔を出す。

 それでもまだ、事態が把握出来ていない俺たちなのだが、

「……部長ちーさま、何をやっているんですか!」

 いち早く立ち直った雄太ゆうたが、やけくそ気味に声を上げたのだった。


 車の横にあるスライド式のドアが開くと、車内の中央から後ろにかけて座席が2列あって、その後ろには、荷物を積み込めるスペースが見える。

 荷物スペースに俺たち4人分の荷物を置くと、前に美香子みかこ杏美あずみん、後ろに雄太ゆうたと俺が座る。

 俺たちが座ったことを確認した西尾先生は、ドアを閉めて車を走らせ始めた。

「驚かすつもりはなかったんだけどなぁ」

充分じゅうぶん驚きましたぁ!」

 部長ちーさまは少し言い訳っぽいトーンの声で話しかけてくるが、美香子みかこの一言であえなく玉砕というか、「ゴメン」と頭を下げて前にむき直した。

「でも、なんで先生は校内にいたのですか」

「宿直も兼ねてかな。学校が長く休む時、部活に出てくる生徒たちに対応出来るように、交代で泊まり込むこともあるんだよ」

 杏美あずみんの言葉に運転しながら西尾先生が答える。

 夏休みや冬休みにような連続して休みが続く日には、部活とかで学校に出てくる生徒に対応するため、常駐する警備員さんの他に先生たちが交代で泊まり込みをすることがあるのだとか。

「そうなんだ。で、部長ちーさまは」

「あんたたちに渡す上級生の作品データを作っていたの」

 2年生の先輩たちが期限ギリギリまで作っていたので、学内のサーバーに保存しておく分とメディアにして俺たちに渡す分、その2つを作るのに土曜日の放課後では終わらなかったとかで、朝の6時半過ぎに学校に来て続きをしていたという。

「ちゃんと先生に許可証を出してあったから、裏門の警備員さんが通用門を開けてくれたよ」

「……ん、部長ちーさまって、うち、どこでしたっけ?」

 正門ではなく裏門からという言葉を聞いて、思わず俺は尋ねてしまう。

「あれっ、言ってなかったっけ。昭和団地だよ」

 昭和団地というのは最寄り駅より電車で北に向かって2つめの駅、その東側に広がる大規模開発団地のことで、リバーハイツとほぼ同時期に開発が始まったこともあり、昔から緑が丘うちに通学する生徒が一定数いたとか。

 確かに、昭和団地あっちから電車で通学してくるというのなら、緑が丘うちの敷地の西側にある正門より東側にある裏門の方が駅に近いし、歩く時間にしても正門と裏門とでは5分ほど違ってくるので、当然といえば当然かもしれない。

 

 正門前で俺たちを乗せて出発した車は、東西を結ぶメイン道路まで下っていくと東に向きを変えた。

 このリバーハイツから外に出るには、東側を南北に走っている国道に出るか、西側を同じく南北に走っている県道に出るかのどちらかを通ることになる。

 が、国道沿いには私鉄の最寄り駅があることや、国道を南へ5分程度行った場所には大型スーパーやロードサイドショップが集まっていること、また、南方向に15分程度走ると都市高速の出入口があることから、少なくとも縦断道路より東側に住んでいるのなら、東側の国道に出る人がほとんどではないのかなと思う。

 入学式の前日に訪れた携帯ショップや、ショップの後に家族で行った定食屋も、この国道沿いにあったりする。

 そして、普段の日曜日の朝がどんな状態なのかは知らないけれど、今日に限って言えばメイン道路はそこそこ混雑していた。

 混雑していると言っても、渋滞で長い時間止まっているという訳ではなく、普段の日曜日よりも車の数が多いとか、赤信号で止まっている時間がやや長く感じられるという程度ではあるが。 

 だんだんと車内がエアコンで暖かくなってくると、朝早かったこともあるのか、運転している先生以外、顔を下に向けて眠り始めていた。

 窓側に座っていた俺も、寄りかかってくる雄太ゆうたの重みで「あ、寝たんだな」と感じていたのだが、いつの間にか俺自身も眠っていたらしい。


 次に俺が目が覚めたのは、車が登り坂を走っていると感じられた場所だった。

 窓の外を見ると、緑色の木々が道路の脇を埋めているので、皐月さつき温泉がある山に入ったのだろう。それにしては、裏道っぽい感じにも思えるのだが。

「これ、どこを走っているのですか」

 こちらも目を覚ましたらしい、雄太ゆうたが先生に声をかける。

「お、起きたのか。裏道をショートカットして温泉に行く途中だ」

 あっけらかんとした感じで先生は答えてくれる。その自然体のような話し方、確かに『仏の西尾にしお』と言われるのも納得する声のトーン、声量だ。

 先生が言うには、国道に沿って一度南に出て大回りするよりも、温泉の西に位置し桜の名所でもある卯月山うづきやま、そこから東に続いている道を走った方が、道路の渋滞なくスムーズに温泉まで行くことが出来るのだとか。

 その分、道路には曲がるカーブが多くて、身体が左右に揺らしていくことになるのだけど、寝起きの身体にはちょうど良い振動みたいな感じだったりする。


「ほれっ、着きました」

 温泉街に入って少し走らせた所に、目的地である皐月さつき温泉『岩清水いわしみずの湯』があった。

 先生の声を聴いて車外に出て、目の前にある建物を確認する。

「着いたぁ~~っ!」

 真っ先に声を上げたのは、やはりというか部長ちーさまだった。

 この旅館、簡単に言えば、スーパー銭湯を中心に温泉旅館と温泉療養施設が両側から挟むような形になっていて、旅館部分を改築した時に名前を『岩清水いわしみずの湯』と変えたのだとか。

 以前の旅館の名前を聞いてみると、「ああ、何か聞き覚えがある」という感じだったりもする。

 先生が旅館のフロントで宿泊手続きをしている間、従業員さんたちが俺たちの私物を運んでくれたのだが、合宿で使うプリンターとかは俺たちで手分けして持って行くことになり、2往復して指定された会議室に持ち込むことが出来た。

 が、さすがは温泉旅館と言うだけことはあるのか、会議室の前に『私立みどりおか高等学校 創作活動研究会御一行様』という仰々ぎょうぎょうしい電飾看板を見ると、「高校生が使うのは場違いじゃないのか」という気持ちにもなる。

 しかも、フロントからは土足ではなくスリッパを履いてカーペットの上を歩くことになるのだから、俺だけでなく雄太ゆうたたちも「本当に、ここで良いのか」という表情をしているのだろう。

 会議室から戻ってくると、先生から4人それぞれに部屋のカードキーとスーパー銭湯用の小ぶりのカードを渡されたのだった。

 旅館にも大浴場はあるのだけど、温泉についてはどちらに入っても良いのだそうな。

「じゃあ、俺は一旦帰るからな。事故とかケガとかだけは気をつけるように」

 先に宿泊費の精算とかを済ませると、駐車場の方に歩き出す先生。なんでも、合宿期間中はご家族でこの旅館に泊まるとかで、迎えに行くためにご自宅(市役所駅の近くだそうな)まで戻るのだという。

「毎年のことだから、いいんじゃない」

 そう言ってのけるのは部長ちーさまだったりするのだが。

「あれっ、部長ちーさま旅館ここに泊まるのですか」

 1年生だけの合宿なのに、旅館ここにいることが当然という雰囲気の部長ちーさま美香子みかこが尋ねると。

「わたし?わたしはここで受験勉強よ」

 自信満々に答える部長ちーさまの顔がそこにはあった。

「さて、会議室の配置とか先に片付けちゃいますか」

 先生を見送った俺たちは部長ちーさまの掛け声で再び会議室に入ると、1年生4人は昼から作業が出来るように机やパソコンなどの機材を配置したり、パーティションでお互いの席が見えないような位置決めをしている間、部長ちーさまは配置した機材の接続設定など、俺たちでは出来ない部分の作業をしていた。

「これで問題なく作業できるわよ」

 やり終えたという満足そうな顔をして話す部長ちーさま。その顔を見てしまうと、自然と「ありがとうございます」と言う言葉が口から出てくる。

「で、部長ちーさまはこの後、どこかに行くのですか」

 余ったLANケーブルを片付けながら雄太ゆうたが尋ねる。

 1年生である俺たち4人はここで初めて聞くことになるのだけど、部長ちーさまは難関と言われている美術大学を受験するのだという。

 このことは上級生の先輩たちや先生方は知っていたのだけど、「美術部に入部して美術だけしか知らないというのは嫌だ」という部長ちーさまの意思もあり、普段は創作活動研究会こっちで活動しつつ、週末は美大受験のための絵画教室に通っていたとのこと。

 そして、その絵画教室の先生が関係する美術展が、黄金週間ゴールデン・ウィークの間にこの温泉街にある美術館で開かれることになり、また、絵画教室の先生も温泉街ここに来ているということで、今回、合宿に便乗して泊まることに決めたのだとか。

「ん、わたしは一度部屋に戻ってから、先にご飯に行くわ」

 俺たちに説明をし終えて、会議室から出ようとする部長ちーさまだったのだが。

「あの、食事、出来れば一緒に食べませんか、朝と晩だけでもいいので」

「多分、あたしたちも相談とかすることが出てくると思いますし」

 杏美あずみん美香子みかこの女子2人による「お願いします光線」を全身から出している姿を見た部長ちーさま、「仕方ないなぁ」という顔で俺と雄太ゆうたに視線を向けてきたので、

「お願いします」

「一緒に食べてください」

 ここは女子2人に合わせて、俺たちも深く頭を下げるのだった。

「……あんたらには負けるわ。ご飯、一緒に食べましょ」

 どこかホッとしたようにも見える部長ちーさまの表情や声が、この時は素直に嬉しかった。いつも見せるキリッとした感じより、今のやわらかな笑顔の方が、年相応というか「部長ぶちょう」じゃない部長ちーさまっぽく見える。

「じゃあ、4人も部屋に戻って準備して。フロントの前で待っててね」

 こうして、俺たち4人の合宿は始まったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る