夏編〈summer〉

1

――言うべきときを知る者は、黙すべきときを知る。


遠い昔の数学者、あるいは技術者の言葉なのだが、大事なことは相手が話を聞く気のある時に言った方がいいという意味であるらしい。


しかし逆に、相手に聞く気のない時は黙っていた方がいいという意味でもあり。それは俺の今までの人生でごく自然にできていたことだった。


だが、物事はふとしたきっかけで大きく有り様がかわってしまうものである。たとえば、今まで当たり前に接してきた幼なじみの普段とは違う姿を見て、思わず「うおっ」と心の中で思ってしまったり。


けどそれと同じタイミングで頭に思い浮かんだ褒め言葉を、素直に面と向かってコイツに言ってしまっていいのかと、俺は少し考えてみたりもして……。







「で、遅刻した本当の理由は?」


「クーラーのついた部屋でアニメを見ていました」


「今日、何時集合だったか言ってみなさい」


「んーと、6時!」


「で、今は6時半だな?」



携帯の画面を目の前に突き出し、俺はついさっきまで言おうとしていた褒め言葉なんか知らんとばかりに栞里に詰め寄る。



「大体、花火の時間が7時からだって、それまで出店回りたいって言ったの栞里じゃん。なのにまさか、アニメを視聴して待ち合わせに遅れるとは……」


「ひとつ言い訳をさせて匠?」



こちらの瞳を覗くように、少し前かがみになって栞里は言った。



「今日はね、レジェンド妖怪が出る話だったんだよ」


「はいアウト」







――8月中旬。


毎日ろくに宿題もせず家でゴロゴロとしていただけの俺は、そろそろ行事に参加しないといけないという謎の使命感に見舞われて、栞里とともに近所でおこなわれる祭りへと足を向ける事となった。


栞里に待ち合わせ場所と時間を伝え、そこから別行動で先に会場に向かった俺は、神社の壁に背を預けながら、そわそわした気持ちで栞里を待つこととなり。


それは端から見ると、彼女の到着を今か今かと待つ一途な彼氏にも見えなくはないだろうが……実態はこの通りそうでもなく。



「で、いくら俺相手とはいえ、遠慮しなさすぎるのもさすがにどうかと思うわけで」


「そうだねぇ……いくら匠相手とはいえ、待ち合わせに遅れたのは悪いと思ってるよ。本当にごめんね?」


「せめてそう言うならそう言うで俺の顔を見て言ってほしいものだが」



栞里の目線は今や完全に、奥に向かって伸びている夜店の行列のほうを向いていた。軽くため息をつくと、俺はあらためて栞里の格好をまじまじと観察する。


――水色を基準としてそこに幾重もの花柄を散らした、清楚寄りの浴衣姿。


たったそれだけの違いなのに、いつも見慣れたその顔も、肩までしかない髪も、途端にその神秘さを増したように見えるから驚きだ。


と同時に、さっきまで思い浮かんでいた褒め言葉ってやつが……その瞬間、何故だか頭の中に再浮上してきて。



「……なぁ栞里。その格好……」


「うん、ベビーカステラはやっぱり鉄板だよね」



こいつ全然聞いちゃいねぇ。しかし、ある意味これも予想していた事だった。


――栞里は昔からマイペースな奴だった。


けど俺の言った事には、基本なんでも素直に返してくれるし、悪く言えば冗談が通じない。


その栞里が今は話を聞く気がないって言うなら、俺も今は黙っていた方がいいのかもしれない。……なんて自問自答のようなことをしたところで、最初から俺の言葉は決まっているのだが。



「……とりあえずどの店からだ?」


「んっとねー、やっぱ最初はリンゴ飴から! ここの屋台は青森県産のりんご使ってるのかどうか、ちゃんと食べて調べてみなくちゃ!」



カランカランと早足に鳴り響く下駄の音を追いかけながら、俺は浴衣姿の幼なじみとともに祭りの喧騒へと入っていく。


ちなみに、俺の無計画じゃないこの計画は、家に母親とレンタルの浴衣を配置しておくところから、栞里がそれを着て祭りにくるところまでが該当する。


……アニメが原因による遅刻は、さすがに計画の範疇にはなかったけど。







「今日はあとどれくらい食べる予定だい栞里さんや」


「ひとまずの目標として、被らない飲食はすべて網羅するつもりですぞ匠さんや。というわけで、次はあそこのくじびきにれっつごー」


「いましがた自分で言った事忘れたんかお前は?」



手当たり次第の店を回ってはどんどん金銭を消費していく幼なじみに、呆れながらもいつもの冗談じみた言葉を返す。


こんなことはいつものことだが、今日に限っては少し言葉に緊張が見られた。誰かと言うともちろん俺だった。一見すると何も変わったところはないが、つまるところそれはニュアンスの問題なのだ。


例えば口には出せないことがあるとして、それを言動の差異で他人が見抜けるかどうかと問われれば……それは非常に難しい。何故なら、他人は所詮他人だからだ。


なら、それに気づくことができるのは、自分という当たり前を除外すれば――自分という人間を限りなく知り尽くした他人しかいない、ということになる。


そして俺の場合……目の前にいる幼なじみが、それに該当するわけなのだが……。



「たくみー、見て見て? 吹いたら紙が飛び出る笛みたいなのもらっちゃった」


「それくじびきのハズレでよく出るやつじゃん。てかお願い、ここで鳴らさないですっごく恥ずかしいから」


「あと三本あるけど、匠も一本いる?」


「ありがたくもらっておくとしよう」



情緒不安定気味な俺と、せっかくの浴衣姿がどんどん台無しになっていく言動を繰り返す幼なじみ。


ここで俺の言動をなんとなく察してくれとテレパシーを送ってみたりもするが、すぐそれを力づくで引っ込める。


ただ一言。なんとなくいつも言っていたような気がしないでもないその言葉を……今日はどこか違うと、俺は心の中で感じていたから。

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