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「……いや、今日はその……よくないか?」
舞い戻った校舎の中で、俺は腰を引いて駄々をこねていた。
「ここまで来て何を言う。すぐ隣の教室で栞里さんは補習のプリントを消化しているのだろう?」
「ぐっ……」
その通りだった。そそのかされたからとはいえ、教室の一歩手前──隣の空き教室まで来たのは俺の心の弱さが原因だった。
「ふっ、ふっ、僕はここで腕立てをして、ふっ、ふっ、待っているッ!」
「って、もう始めてるっ!?」
「君が帰ってくるまでずっと、ふっ、ふっ、腕立てをしているから栞里さんにフォローの言葉でもかけてくるんだ! ふっ、ふっ、いいね?」
放課後の誰もいない空き教室を規則的な息遣いが支配する。長ったらしい髪を靡かせて、汗を飛び散らし、綾小路は俺の背中を押してくる。
「わ、わかったよ……行けばいいんだろ……」
「へっ、へっ。う、うむっ、へぇっ、へぇっ」
すでに少し疲れてきているように見えるのは気のせいだろうか?
▽
「と、教室の前まで来たはいいものの」
どうやって入ればいいものか、ノープランである。
そもそもついさっき、綾小路と遭遇する前に、俺は手伝わずに帰る、と宣言して怒らせたばかりなのだ。
「さて、どうするか」
それこそ何も臆することなく、何事もなかったかのように、しれっと教室に入るのも一つの手立てではあるのかもしれない。が、栞里様は大変ご立腹であろう。
「ちょっと覗いてみるか……」
「わたし的には少しくらい手伝ってくれてもいいと思うんだよねー、薄情な幼なじみさんだなぁって思うよねー」
シャーペンをくるくると指の上で踊らせて、栞里はぶつくさと誰かさんへの文句を垂れ流している。
さらさらーっと机の上のB5用紙のざらばん紙に文字を書き込んではいるが、あれは十中八九ラクガキなんだろうなあ。
「本当に優しくない幼なじみさんだなあ。これがもしマンガの世界とかだったら、困ってるわたしのことを白馬の王子様みたいに助けてくれる展開だっていうのに。まったく、残念だよ。残念すぎるよ匠」
今すぐ教室の中に入ってゲンコツをくれてやろうかと思った。なんて失礼な幼なじみだ。
そもそもこういうのは立場が逆ではないだろうか。普通は補習とか追試とかを受ける羽目になってびーびー泣くのは男の役目だ。そんな頼りない主人公を宥めて、よしよしとお節介を焼いてくれるのが幼なじみの女の子だろう。それなのに、栞里ときたら……。
まぁ、普段はそうなんだけど。
「はぁっ……」
ため息をつく栞里。何だか本気で突入するタイミングを見失った気がする。
このまま行ってきたよ、と綾小路のところに戻ってもバレないのではなかろうか……なんて卑怯なことを考え出したりもして。
そして、そっと覗きこんでいた扉の隙間から、顔を離そうとしたときだった。
「でも、匠ってば、何だかんだ言って優しい子だからこっそり教室を覗いていたりしそうなんだよね。……そこか! そこにいるのはわかってるぞ! なーんちゃって」
お茶らけるように、幼なじみは俺が待機しているのとは逆の扉に向かって、シャーペンを突きつけている。
その芝居じみた挙動に俺はなんだか呆れてしまって、
「こっちだよ」
がらりと扉を開けて教室の中に入る。
「……」
「栞里?」
問いかけると、
「し、しし知ってたし! 匠が隠れてること知ってたしっ!」
その余りにもあからさまな幼なじみの様子に、俺はさらに呆れてしまい、
「……はいはい、そうだな」
「あー、なんだか投げやりだなぁ」
「で、補習プリントどこまで終わったん?」
「わ、いきなりプリントの話!? わたしに会いに来てくれたのに、プリントの話が先なんだね……」
やけに芝居がかった所作で額に手を当てる幼なじみは、華麗にスルーさせてもらうとしよう。
「しおりはかわいい。さて、プリントは?」
「相棒、扱いが雑すぎやしないかい?」
「いつもこんなもんじゃないか?」
「ちがいねえ! ちがいねえ!」
▽
「英語があたしゃてんでダメでねぇ~。匠はどう?」
栞里はアルファベットなんて見たくもないと顔を背けながら訊いてくる。
「一年から英語につまづいてたら三年間積むぞ……」
高一英語なんて基礎の基礎だ。単語も文法も入学したばかりということもあり、難易度は非常に易しい。それに実力テストの範囲なんて時期が時期だし、中学の総復習だったはずなのだが。
「わたしは日本人だよ! 大和魂だよ! パラグラフごとに構文を把握して、接続詞をチェックして、それをぱぱっと訳していくだなんて技術、わたしには無理だよ!」
「大丈夫だ。不定詞にパラグラフなんて出てこない。長文読解は受験のときに頑張ろうな」
「うぅっ」
それにしても俺が栞里に勉強を教える光景というのは新鮮だ。
――幼い頃からずっと一緒だった。学校に行くのも、ご飯を食べるのも、遊びに行くのも、ずっと一緒だった。それが当然の日常だったし、誰もいない真っ暗な部屋で引っ込み思案をこじらせていた栞里を颯爽とさらっていくのは俺の役目だったから。
だから、運動は俺が教えて。勉強は栞里から教わって。
そういう暗黙の了解ではないけど……見えない方程式みたいなものは、ずっと昔からあったような気がする。
「ねぇ、ここはこれで合ってる?」
「……ん、どこだ?」
だから、こうして教える立場になるとどこか新鮮で、こそばゆい。
「…………」
栞里が無地のシャープペンシルで指し示した解答に、俺は一瞬だけ硬直した。
「どうしたの匠?」
俺は栞里からの声を受けて、解答欄に記された英文から顔をあげる。
『Why did you return here?』
――そこに記入された英文は、まるで問題文の意にそぐわない解答だった。
素知らぬ顔で首を傾げているだけの栞里からは、この行為の意味が計り知れない。
「……まちがってる。これのどこに不定詞があるんだよ?」
『どうして戻ってきたの?』
そんな些細な疑問文に対して素直に言葉を返す選択肢だってもちろんあったのだが、今日の俺は選択を“まちがえた”。
「やっぱりー? わたしもそんな気がしてたんだよねー」
栞里の気丈な振る舞いが胸に優しかった。明るく、奔放で、何も考えてなさそうな軽い調子が俺の背中を支えてくれる。
──言わないことで伝わる何かがあるとしたら、それは虚飾だ。
つい数分前の言葉がふと脳裏によぎる。虚飾はいけないことだろうか。
建て前や理由によって生まれた罪悪感を、相手の好意で上書きしてはいけないのだろうか。
「ふふん、今度は自信があるよー。どう?」
最後の一問。
偶然かわざとか。
どちらなのか、俺には知る由もないけれど。今度は、まちがっていなかった。
「ささ、あとは提出だけだし、帰る準備をしよー」
口笛混じりに栞里は鞄に教科書を詰め込んでいく。音階をなぞるようなリズミカルなその動きを見て、どうしてだろう。これは、正解じゃないと思った。
「栞里、これまちがってる……」
口から出任せ。
「えっ」
「サービスだ。俺が書き換えとくよ」
俺は何と書き換えたのだろうか。
ただ思うままに、何も省みることなく、俺だけの言葉を綴った気がする。
「さ、出しにいくぞ」
そんなB5の紙切れを二つ折りにして封印する。
「あ、なんて書いたのか見せてよ!」
「だ、だめだ」
「イタズラ書きしたんでしょ! 先生に怒られるのわたしなんだから!」
このプリントも来週になれば栞里のもとに返却される。きっと最後の問題には赤ペンで×印が添えられて、返ってくるのだろう。
その解答を見て栞里がどう反応するかは俺にはわからない。俺に食いついてくるかもしれないし、すっかり忘れて正解に書き直して、そのまま提出してしまうかもしれない。
けど、それでもいい。飾らずに、隠さずに、本音を語る。字面だけ見ると、恥ずかしくも感じるのだが、きっとそれでいい。
そんな過去を振り返って、誇りに思う日がいつか来る。
──予感めいた感情を、放課後終了の鐘が後押しした。
▽
「ふへぇっ、ぐぇっ、──……ぶぁっくしょんッ!」
とある空き教室でくしゃみがこだました。
したたり落ちる汗。ぶるりと震えた大柄な身体。弱々しくありながらも小刻みに揺れる二の腕だけが、上下に動く上体を支えていた。
「ま、まだが……わが、じんゆぅ……」
空き教室から聞こえる呻き声。
そしてそれと同じタイミングで、風邪なんかとは無縁だと思っていたやつが風邪を引いたという噂が学園中を駆け回る事となるのは……また別の話。
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