3.狂気の形

「ロンドン塔の近くで異形?」


 バックヤード副局長室。

 パトリシアによって淹れられた紅茶に口を付け、ドロッセルは困惑の声を上げた。

 膝元ではいまだだ眠たげなトム=ナインが丸まり、隣では最近「従者であれど出された茶には口をつけるべき」と学習したらしきノエルが機械的に紅茶を飲んでいる。

 そして正面には、左右にダンカンとパトリシアを従えたヒラリーが腰掛けている。


「ああ。まぁ、あの近くは元々異形を呼びやすいんだけどさ」

「知っている。たしか……ロンドン塔が昔、監獄であり刑場だった影響だったな」


 ドロッセルの言葉に、ヒラリーは渋い顔で「その説が有力だね」とうなずいた。

 異形は血のにおい、そして死の気配に惹かれる傾向がある。

 そのためロンドン塔は、この街でも有数の異形警戒地域となっていた。人手不足というバックヤードも、そこでは毎日巡視を置いているという。


「…………あの場所は元々、あまり良い土地ではありません」


 淡々とした言葉にドロッセルは隣を見る。

 ノエルはいつも通りの無表情で、紅茶を飲み続けている。『飲む』というよりも『供給する』という言葉の方が合いそうな飲み方をしていた。

 確か、アーサー王伝説にもロンドン塔が出てくる話があった。

 伝説の舞台は紀元五世紀の初めという。その時代にはロンドン塔はないはずだが、いまだ異界と人間界の境界が曖昧だった時代だ。なにがあってもおかしくはない。

 一体、十九世紀に蘇った騎士は何を思うのか。

 ノエルを見つめるドロッセルをよそに、ダンカンがテーブルの上に地図を広げた。


「ここ数日、ロンドン全域奇妙なものの目撃情報が絶えない」


 ダンカンが厳めしい口調でいいながら、地図のいくつかの地点を示す。

 ロンドンを描いた大きな地図のあちこちに、無数に赤い点が散らばっている。恐らくこれが、『奇妙なもの』が目撃された場所だろう。


「特にロンドン塔近辺だ。この数を見てみろ」


 確かに彼の言うとおり、ロンドン塔近辺――主にその正面にある通りには、特に赤い点が集中している散らばっている。


「目撃された時間はいずれも夕方から明け方にかけて。目撃者は皆、軽度から中程度の精神汚染に罹患していた。皆、現在は各病院のヒーリング科で治療を受けている」

「精神汚染……異形やそれに関わる怪異を目撃した常人に起きる事が多い症状だな」


 親指の爪を噛み、ドロッセルはかつて読んだ書物の内容を思い出す。

 多くの常人は、超常的な現象――すなわち怪異に対する抵抗力をほとんど持たない。そのため異形を目撃すると、様々な精神の異常を引き起こす。

 その異常を『精神汚染』と呼ぶ。

 軽度の汚染ならば、専門の治療に掛かれば直せる。

 しかし重度の汚染に罹患すれば――ドロッセルは首を振り、地図に集中した。

 隣では相変わらずノエルが機械的に紅茶を飲んでいたが、その目は同じく地図を見つめている。


「だからこれらの一連の事件を、バックヤードは異形の怪異によるものと見ている」


 ヒラリーは渋い顔で説明し、テーブルに置かれた大皿からビスケットをとった。

 彼との面会では、毎回なにかしらの茶菓子が用意される。

 これは、ヒラリーが自分の屋敷で作ったものをわざわざ持ってきているらしい。なんでもバックヤードで用意される菓子が味気ないせいだという。

 筋金入りの甘党だと思いつつも、ドロッセルもビスケットに手を伸ばした。


「なるほど……それで、私にその話をするということは」

「決まっている、貴様に怪異解決を依頼するために呼び出したんだ」


 唸り声にも似たダンカンの言葉に、ドロッセルは思わずびくりと身を震わせた。


「こら、威嚇しないの。彼女は巻き込まれた身とはいえ、メイクピースの一件の解決に尽力した。十分な力を我々に示しただろう」


 ビスケットを頬張りつつも、ヒラリーがダンカンを手で制す。

 ダンカンは苦い表情で、視線を落とした。


「……わかっております」

「エッジワース、まだドロッセルが信用できないというの? 彼女はたしかにラングレーの娘ではあるけど――」

「違う、ハーヴェイ。私はガーネットが奴の娘であることなどどうでもいい」


 咎めるようなパトリシアの言葉を遮り、ダンカンは首を振った。

 そして、ドロッセルを見据える。

 その緑の瞳には侮蔑も冷笑もない。ただ、苦悩の色があった。


「……私は弱者が前線に立つことを嫌う。単に、このように華奢な娘に役目が務まるのかを案じているだけだ」

「なんだ、ただ単にドロッセルが心配なだけか」

「面倒な男ですね、貴方は」

「断じて違う!」


 それぞれ呆れを口にするヒラリーとパトリシアに、ダンカンは声を荒げた。

「私はそんな軟弱な感情で――! いや、あー……放っておいていただきたい」


 色々とまくし立てようとしたものの、どうやら途中でヒラリーが自分の上司であることを思い出したらしい。ダンカンは居心地悪そうに咳払いをして、目を伏せた。


「目撃されたのは、どんなものなんだ?」


 ダンカンを気にしつつ、ドロッセルはたずねた。

 すると、バックヤードの三人は揃って複雑な表情を浮かべた。パトリシアは困ったような、ダンカンは硬い表情で、そしてヒラリーは興味深そうな顔で地図を見る。


「……あの、一体何が目撃されたんだ?」


 誰からも答えが返ってこないことにドロッセルは戸惑う。

 すると、パトリシアが口を開いた。


「……何人か目撃者がいるわ。一人目は、血に飢えたライオン」

「……ラ、ライオン?」


 ドロッセルは目を見開く。


「二人目は美しく肉感的な女」


 ダンカンが唸るように言った。ノエルが紅茶を供給する手を止めた。


「三人目は借金取り、四人目は巨大ムカデ、五人目のフランス人はヴェルサイユ軍の兵士」


 ヒラリーは笑い出しそうな顔で言って、紅茶を一気に飲み干した。そうして再びビスケットを口に運んだものの、食べる寸前でついに噴き出した。


「傑作だろ、ヴェルサイユ軍だぜ! パリ・コミューンのヴェルサイユ軍、血の一週間のあのヴェルサイユ軍だ。いったい何年前の話だと思ってるんだか」

「私が生まれてるか生まれていないかくらいだな……」


 ソファに転がってけたけたと笑うヒラリーに対し、ドロッセルは言葉を濁した。

 そして首を振り、親指の爪を噛む。


「どういうことだ? 目撃者は、幻覚を見せられていたのか? それとも――」

「……見る人によって、姿形が変わる」


 静かなノエルの言葉に、ドロッセルは息を飲む。

 ヒラリーの笑い声が止まった。

 彼は体を起こすと、不敵な笑みを浮かべてうなずいた。


「そうだ。この特徴から、僕は異形の正体を推測した。大英博物館怪奇蒐集部の知り合いの意見も聞いたら、おおむね僕と意見が一致した」


 ヒラリーが軽く顎を揺らし、手を伸ばした。すると、脇に控えていたパトリシアがその手に黒い革表紙のファイルを渡した。


「こいつはね――極めて厄介な異形だぞ」


 言いながら、ヒラリーはファイルをテーブルの上に広げる。

 ドロッセルとノエルが覗き込むと、そこには黒い霧のような異形の姿が描かれていた。霧の中には、無数の眼球が浮かんでいる。


「バルトアンデルス! 決して一人では戦ってはいけない異形か……!」


 記されたその名前に、ドロッセルは息を呑む。

 膝で丸まっていたトム=ナインが起き上がり、バルトアンデルスの絵を睨みつけた。背中の毛を逆だてる猫をちらりと見つつ、ノエルが口を開いた。


「一人で戦ってはいけない異形とは?」

「こいつは人の心を読む」


 ヒラリーは答え、ビスケットを口に運んだ。


「そうして、相手の心に合わせて姿形を変えるんだ。もっとも恐れるものや、もっとも愛するもの……相手が手出しできない姿を取る」

「故にバルトアンデルスを狩る時は必ず一人ではなく、最低でも三人は連れて行く必要がある。バルトアンデルスの読心を分散させるためにね」

「……そして、それは正気を保つためでもある」


 パトリシアの説明を、重々しい口調でダンカンが補足した。

 正気を保つ。その言葉の凄まじさに、ドロッセルは思わず口元を押さえる。


「分類によれば、バルトアンデルスは『月狂種』の一つに数えられる。――つまり、怪異に対し免疫をもつ異端者にも精神汚染を引き起こしかねない危険な存在だ」


 ヒラリーは語り、さくりとビスケットをかじった。


「噂じゃ、かのプロイセンはこの異形を手懐けることに成功したとか。……しかし残念ながら、我々はそのやり方を知らない」

「それどころか、あの異形に対し効率のいい退治法は存在しないのが現状よ」


 パトリシアが物憂げにため息をついた。


「……では、バルトアンデルスは倒せない存在なのですか?」


 淡々としたノエルの問いかけに、ヒラリーは首を振った。


「いんや。効率の良い退治法がないってだけ。つまり非効率的な退治法はある」

「その……非効率的な退治法、とは?」


 嫌な予感を感じながら、ドロッセルはたずねた。

 するとダンカンが苛立たしげに「決まっているだろう」と唸るように返した。


「つまり最低でも三人以上でバルトアンデルスを殴る。何に姿を変えても容赦せず、奴が消滅するまで徹底的にぶちのめす……それだけだ」

「極めて非効率的で原始的なやり方だろう? でもね、本当にそれしか手段がないんだよ」


 嘆かわしいと言わんばかりにヒラリーは首を振り、手をひらりと揺らした。

 その合図にパトリシアはうなずき、書斎机の方へと向かう。


「幸い、霊気による攻撃は奴に通る。ノエルくんの忌能も効果を発揮するだろう」

「それにバルトアンデルスはオートマタの相手を不得手とする。人造の魂を持つ人形相手の読心は勝手が違うのだろう」


 ヒラリーとダンカンの言葉を受け、ドロッセルはノエルを見る。

 空になったカップを見つめていたノエルも視線をあげ、ドロッセルを見た。


「……戦えると思うか?」

「問題ございません」


 ノエルはきっぱりと答えた。


「敵は相手の心を読む。しかも変幻自在の相手だ。私も先生から伝え聞いたくらいのことしか知らない。それでも……」

「私に心と言えるものはありません」


 その言葉に、ドロッセルは口を噤む。

 ノエルは静かにカップを置き、ドロッセルに視線を向けた。青い瞳は冷やかなほどに透き通り、硝子玉めいてさえ見える。


「ですから、問題ございません。お嬢様が望むならいかなる相手でも倒しましょう」

「それは心強い、けど……」

「適任だろう。ノエルならば、バルトアンデルスに対する有効手段たりうる」


 言葉に迷うドロッセルをよそに、ダンカンは満足げにうなずいた。

 たしかに、微かな安心感があった。

 ノエルは感情が希薄だ。

 原因ははっきりしていないが、それは経年による魂の磨耗によるものと考えられている。そのため、感情の起伏はほとんど無に近い。

 バルトアンデルスにはうってつけの人材かもしれない。

 だが、何故だかドロッセルはそれをあまり喜ぶことができなかった。


「今回の委託任務には私が協力するわ」


 もやもやとした感情に悩むドロッセルの元に、パトリシアが依頼書を持ってきた。

 受け取った依頼書は、今までで一番分厚いものだった。

 紙束に駆除対象の名前とその特徴、現場で考えられる様々な怪異の予測とその対処法、約束される報酬、注意事項――それらが複数頁にわたって記されている。

 頁を捲りながら、ドロッセルはごくりと唾を飲んだ。


「初の依頼、だな……」

「何を言っている? バックヤードの依頼には何度か関わったことがあっただろう」


 訝しげなダンカンに、ドロッセルは「いえ」と首を振った。


「これは私が――異端免許を取って、初めての依頼です」


 師匠の手伝いでもない。ましてや、何かの試験でもない。

 これはドロッセル・ガーネットが、仕事屋として初めて受ける仕事だ。

 その興奮と緊張感に、依頼書を持つ手が震える。

 ドロッセルは緩く首を振り、深呼吸した。


「それと、貴女のところの傀儡師にも協力を頼みたいの。彼女、話によるとバルトアンデルスと何度か交戦しているらしいから」

「キャロルを? 私はいいが、あいつが動くかどうかは……」

「報酬は弾む」


 パチンと指を鳴らして、ヒラリーが言い切った。


「これでフォルトゥナート嬢は協力するだろう。――というわけで、ドロッセル・ガーネット」


 ヒラリーは姿勢を正し、まっすぐにドロッセルを見据えた。

 その灰色の瞳は、底知れぬ深淵を湛えている。先ほどまでの子供じみた言動が嘘のようなそのまなざしに、自然とドロッセルは背筋を伸ばした。


「依頼内容に問題がなければ、サインを」


 ドロッセルは呼吸を落ち着け、依頼書を見下ろす。

 ここ最近、様々な恐ろしい目にあった。戸惑うこともたくさんあった。

 いまだ自分のような小娘になにができるか、そもそもなにかができるのかもわからない。

 それでも――ドロッセルはちらりと、隣に座るノエルをうかがう。

 ノエルは相変わらずの無表情で、静かにドロッセルを見つめ返した。

 風のない水面を思わせるその瞳に、ざわめく心が静められていくような気がした。

 ドロッセルは小さくうなずくと、依頼書の頁をめくった。

 最後の頁に、契約書がある。

 ドロッセルはペンを取り、署名欄に自分の名前を記した。


「……この仕事、人形師ドロッセル・ガーネットが確かに承った」

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