第三話 願望

「ねえー美生、聞いてる?」


 はっと気がついた。あの手紙のことを考えてる間に、私は周りが見えなくなっていたみたいだ。講義はすでに終わり、学生の多くは席から離れていた。慌てて私は友人に応える。


「あ、ごめん、ちょっと考え事してたんだ。・・・それで?」


「いや、みんなでご飯食べに行こうと思ってたから、一緒にどうかなって」


 正直私は今それどころではなかったが、ばれないように巧く笑みを作って頷いた。




 大学院の近くにあるイタリアンレストランで私たちはご飯を食べた。皆はテレビによく出ている俳優の話だったり、その子たち曰く”かわいい”ものの話だったり、他人の恋愛話や噂なんかで盛り上がったりしていた。私も出来るだけ自然に話を合わせたが、いつもよりも長く話したので今日は予想以上に疲れてしまった。慣れていたとはいえ流石に限界だった。


 昔から人づきあいが得意なほうではなかった。小学生の時は本だけが唯一の友達だったので、一部の人たちから馬鹿にされたり、仲間外れにされたこともしばしばあった。そのうちに私は、それから逃れるために、自身をに仕立て上げた。自分が誰かに悪く言われたり、ひどいことをされて苦しまないように。そうしてるうちに、いつしか人間関係そのものへの肯定が出来なくなり、そんなものただ煩わしいだけだ、としか思わなくなってしまった。だけどそうは言ったって、自分一人で生きてはいけないから、今は無理して他人と関わっている。でも、私に限らずみんなそんなことは思ってるに違いないんだ。この世は素顔がばれたらおしまいの仮面舞踏会なんだから。


 帰り道で、また考え事をした。今日も長いわりに無表情で、彩りのない一日になってしまった。彼女たちみたいに、なにも考えずに目の前のことで笑ったり泣いたりできたらどれだけよかっただろうと、いつも思う。そんな他人からしてみれば当たり前のことですら、私にはできなくなっていたんだ。


 でもいつもと違うのは、この前までなら、これは仕方のないことなんだ、と割り切れていたことが、彼の手紙を受け取ってからは少し辛くなったことだ。彼とならどんな一日が過ごせるのだろうかなんて、考えてしまったことだ。私みたいな他人に心の中で距離を置くような人間が、幸せになれるわけもないし、そもそもなる権利なんてないのに、それでも、彼なら許してくれるんじゃないか、彼なら幸せにしてくれるんじゃないか、という甘えに近い願望が私の中にあるのだ。そんなことしたら彼にも迷惑が掛かってしまう。彼の最期を私のせいで無駄な時間にしてほしくない。私みたいな、他者からの恋愛感情を受け入れることができないような人間のせいで。じゃあ、わたしはどうしたらいいんだろうか。迷っていたら、彼はいつかは安楽死してしまう。でも、たとえ彼が死んでしまうまでの半年をその判断のためにめいっぱい使ったとしても、私にはどうすべきかなんてわかんないんだろう。こんなに自分の無力さを感じるのは久しぶりだった。


 風が吹いて、散った桜の花びらがたくさん舞った。もう、あれから二週間が経っていた。

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