上条美生/next to you

第一話 空っぽの心にあいた風穴

 雨は予報通り夕方五時を回ったころ降り始めた。いわゆる春の嵐だそうだ。先週咲いた花々や、新卒採用者の若者たちのまだ新しいスーツを、容赦なく大粒の雨がたたきつけている。私はそんな光景をなんとなく眺めながら、大学院を出て、家まで歩いていた。


 美生みなりは昔は雨が好きな子だったんだよ、と少し前に母に言われた。そのことは全く思い出せなかったけれど、もしそうだったんだとしたら、きっとそのころ私は今より純粋だったんだろう。今ではきれいだな、と思う前に、面倒だな、なんて思ってしまうのだ。人間、やっぱり何かを失くしながら生きるしかないのだろう。そしていつかは自分自身の存在意義ですら何なのかわからなくなってしまうんだろう。昔の私が、すべてのピースがそろった絵柄付きのパズルだったとするなら、今の私はピースを何個も落としたパズルだ。自分自身のパズルの元の絵柄が分からなくなってしまった私は、それをどう繕えばいいのかわからない。


 いつも通り、答えのないことを悩んでいるうちに自宅のあるアパートについた。築20年のぼろで、壁は汚れ、防音機能は無に等しい。耐震は最近ようやく工事を施したものの、あまり強い地震には耐えられそうにない。驚きの家賃の安さというところ以外では、このアパートに住むメリットはほぼないだろう。私の部屋はそのアパートの中でも特に安い一階の隅にある。


 エントランスを抜け、アパートの共用廊下に出る。そのまま部屋まで歩こうとしたのだが、少しして異常に気が付き立ち止まった。見知らぬ男が私の部屋の前にいるのだ。私は過去の経験上身の危険を感じてアパートのエントランスに戻った。明らかに知っている人ではないし、そもそも来客など私に来るはずもない。恰好からして宅配業者などでもなさそうだった。脈拍が早くなる。ひとまず様子を見るため壁越しに見知らぬ男を覗いてみた。丈夫そうな体つきで背が比較的高い。ジーンズに青のトレンチコートといういで立ちで、手には茶色のかばんを持っている。彼はどうやら私の部屋のインターホンを鳴らしているようだった。不審な者ではないとわかり、緊張が一気に解ける。しかし、だとすれば誰なのだろう。


 おそるおそる私の部屋の前まで行って、男にあの、と声をかける。彼はこちらに気が付いたようだった。見るもさわやかな好青年だ。整った輪郭に健康的な肌、目は三重で大きく目力が強いが、表情から漂う雰囲気は優しい。そしてなぜかそれらに私は既視感を感じていた。


上条美生かみじょうみなりさんですか」


 気づくや否や問いかけてきた。私が戸惑いつつ頷くとやっと見つけた、と言わんばかりの微笑みを浮かべてこう続けた。


「久しぶりだね、高校で同級生だった長尾ながおだよ、長尾澄良ながおすみよし。覚えてるかい」


 なるほど、どこかで見たような気がしたわけだった。彼とは高校で1年だけ同じクラスだったのだ。クラスのみんなから好かれるムードメーカーの印象が強く、私も多くはないものの、会話したことがあった。そして、何よりも彼は、霧生君の知り合いだったから、よく覚えてた。私の答えを待たずに続ける。


「急に悪いけど、今日は君に伝えたいことがあってきたんだ」


 彼はそれまでの微笑みから急に真剣な表情になった。私は何が起きているのかまだ落ち着いて整理できていなかったが、彼がなにか重要なことのために私を訪ねてきたことは、落ち着いていなくても理解できた。


 しばらくの間があった。その間は彼が、私に何かを言う覚悟を決めているようにも、また迷っているようにも見えた。大きく息を吐いた後、彼はこう続けた。


仁人よしひと...霧生仁人きりゅうよしひと。覚えてるか?高校2年と3年のとき同じクラスだった...。あいつから、手紙を預かってるんだ。君に渡してほしいって」


 いつの間にか嵐は過ぎ去り、私の背後から心地の良い風が風が吹いてきた。その風が私の髪をなびかせるのと同時に、彼との時間が私の頭の中を駆け巡った。覚えてるよ。忘れるわけないじゃない。私が6年前、霧生君に告白されたこと。そして、私がそれを断ったことも。


 彼は手紙を取り出した。まっしろな封筒に、黒いインクで「美生さんへ」と書いてある。彼らしいきれいな、整った文字だった。胸の切なさと一緒に、私はゆっくりと、その手紙に手を伸ばした。

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